* * * これより 清盛 子女 * * *
 
 平重盛 <たいら・の・しげもり> (1137−1179)
 
 平清盛の一男。母は右近将監高階基章の娘。
 
 久安6年(1150)12月、鳥羽院の蔵人に補されたのを皮切りに、累進して保元2年(1157)10月には左衛門佐となり、平治の乱以降は、父清盛の威光を背景にさらなる躍進を遂げ、応保3年(1163)1月、従三位に叙されて公卿の列に加わると、やがて、参議を経て、仁安元年(1166)に権中納言となった。
 この間、妻の経子が憲仁親王の乳母に選ばれたため、乳母夫として後見役の地位を獲得し、父清盛の内大臣就任の際には春宮大夫を引き継ぐなど、清盛の後継者の立場をより確実なものにしている。
 
 仁安2年(1167)2月、清盛の太政大臣任官に伴い、権大納言に昇るが、重盛は生来、頑健な質ではなかったようで、翌年には病を理由にこれを辞任し、以後、再三にわたり、任官と辞任を繰り返している。
 承安元年(1171)、妹徳子が高倉天皇の許に
入内するに当たっては、僧形の身の清盛に代り、養父としてその後見に立ち、やがて、右近衛大将を経て、安元3年(1177)1月に左近衛大将に遷任された。
 が、この時の、弟の宗盛が右大将に任じられ、兄弟が揃って近衛大将に在官するという異例の人事は、後に“鹿谷事件”を誘発する遠因となったともいわれている。
 
 同年3月、内大臣に任じられると、これ以後、自邸の小松第にちなんで
小松内大臣(小松内府)と称された。
 しかし、その3ヶ月後の6月に
鹿谷事件が起こり、これに加担したとされる義兄藤原成親の助命を懇請し、影の首謀者ともいうべき後白河院をも断罪しようとする清盛に、真っ向から異を唱えたことから、父子の間に溝が生じ、これ以後、一門の結束にも微妙な影を落とすこととなった。
 
 中宮徳子が言仁親王を生んだ翌年の治承3年(1179)に入り、著しく体調を損ねた重盛は、3月11日に内大臣を辞任すると、まもなく熊野参詣に赴いたが、帰洛後、さらに病状が悪化し、5月25日についに出家を遂げ、それから2ヶ月余り後の8月1日に薨じた。
 
 
 
《はみだし余録》
   温厚誠実な人柄で、人望もあり、また、武人としての器量も優れていたと、当時の資料を見る限り、どれもこれも“大絶賛!”の褒め様。
 これでは、殿下乗合事件の意趣返しに、基房を襲撃させた張本人とは、誰も信じたくなかったでしょうし、この場合、どうしても、悪の権化平清盛の仕業にしたかったのが本音でしょう。(平家物語の作者が)
 しかし、重盛もれっきとした武士の子であり、父親が暴君であれば、そのアイデンティティも、何らかの形で受け継がれて然るべき所。
 あるいは、公家社会の模範生を装いながら、武人としての血気盛んな衝動も抑えられず、結局、公家にも、武人にもなりきれなかった…、そんな一生だったのかもしれません。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花・清水寺炎上・殿下乗合・鹿谷・
御輿振・内裏炎上
巻 2: 小教訓・教訓状・烽火之沙汰・大納言流罪・
大納言死去・卒塔婆流
巻 3: 赦文・御産・公卿揃・頼豪・医師問答・無文・
燈炉之沙汰・金渡
巻 4:
巻10: 維盛出家
 
 
1150年(久安6) 12.30 蔵人 14歳
1151年(久安7) 1. 1 従五位下 15歳
1155年(久寿2) 7.22 中務少輔 19歳
1157年(保元2) 1.24 従五位上 21歳
9.19 中務権大輔
10.22 正五位下
10.27 左衛門佐
1158年(保元3) 8.10 遠江守 22歳
1159年(平治1) 12.27 伊予守 23歳
1160年(平治2)
    (永暦1)
 
 
1. 6 従四位下 24歳
1.27 左馬頭
10.11 従四位上
11.30 内蔵頭
1162年(応保2) 1. 5 正四位下 26歳
1.27 内蔵頭を辞任
10.28 右兵衛頭
1163年(応保3) 1. 5 従三位 27歳
1164年(長寛2) 2.17 正三位 28歳
1165年(長寛3) 5. 9 参議 29歳
1166年(永万2)
 
 
    (仁安1)
1.12 近江権守 30歳
4. 6 左兵衛督に転ずる
7.15 権中納言・右衛門督
12. 2 春宮大夫
1167年(仁安2) 1.28 従二位 31歳
2.11 権大納言
1168年(仁安3) 2.19 春宮大夫止(践祚により) 32歳
12.13 権大納言を辞任(病により)
1169年(仁安4) 1. 5 正二位 33歳
1170年(嘉応2) 4.21 権大納言に更任 34歳
12.30 権大納言を辞任
(維盛申任右少将)
1171年(承安1) 12. 8 権大納言に更任 35歳
1174年(承安4) 7. 8 右大将 38歳
1175年(安元1) 11.28 正大納言に転ずる 39歳
1177年(安元3) 1.24 左大将に遷任 41歳
3. 5 内大臣
6. 5 左大将を辞任
1178年(治承2) 2. 8 辞退(6月返給上表) 42歳
1179年(治承3) 3.11 内大臣を辞任(病により) 43歳
7.28 出家(病により)
8. 1 死去

 ※ 公卿補任での年齢とは異なります
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平基盛 <たいら・の・もともり> (1139−1162)
 
 平清盛の二男。母は高階基章の娘で、重盛の同母弟。
 久寿2年(1155)4月に院判官代・左兵衛尉となり、左衛門尉を経て、同年12月に検非違使の宣旨を蒙る。
 翌保元元年(1156)7月に起きた
保元の乱では、いち早く都の守護にあたり、東山法住寺の辺で源親治を追捕し、その功により、同年9月に従五位下蔵人となった。
 その後も、大和守・淡路守・遠江守・越前守を歴任したが、応保2年(1162)に早世したという。
 
 
1155年(久寿2) 4.11 院判官代 17歳
4.12 左兵衛尉
11.10 左衛門少尉
12.25 検非違使
1156年(保元1) 9. 4 蔵人 18歳
9.17 叙爵(従五位下)
1158年(保元3) 8. 5 大和守 20歳
12.29 淡路守
1160年(永暦1) 1.   遠江守 22歳
12.29 越前守
1162年(応保2) 3.   死去 24歳
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平宗盛 <たいら・の・むねもり> (1147−1185)
 
 平清盛の子。母は平時信女時子で、知盛・重衡・徳子と同母兄弟。
 保元2年(1157)に叙爵後、遠江守・淡路守・右兵衛佐・左馬頭・美作守・右近衛中将などを歴任して、仁安2年(1166)に従三位参議となり、さらに、嘉応2年(1170)に権中納言に昇任。
 安元3年(1177)には異母兄重盛と共に近衛大将に任じられ、この時、左右の近衛大将を兄弟で独占したことが、
鹿谷の変の遠因の一つともいわれている。
 
 治承3年(1179)、兄重盛の病死により、嫡流を継ぐことになるが、“凡庸の人”のたとえのとおり、独裁的な父清盛を制するだけの才覚を持たなかったようで、
治承3年11月のクーデターや、翌年の福原遷都に異を唱えながらも、これを阻止することはできず、その結果、反平氏勢力の拡大を許すことにもなった。
 
 治承5年(1181)閏2月に父清盛が急逝し、いよいよ一門の棟梁となり、寿永元年(1182)10月には
内大臣に昇るが、もはや、平家の衰勢に歯止めをかけることはできず、寿永2年(1183)7月に、木曽義仲の入洛が決定的になると、その破竹の勢いの前に、なすすべもなく、安徳天皇を奉じて、西国へと向かった。
 ところが、予想外の九州在地の武士勢力の抵抗に遭い、漂白の末に、讃岐国屋島に上陸。そこを本拠と定めて反撃体制を整えると、地の利のある海戦に勝利して、一時は、摂津福原の奪還も果たした。
 
 しかし、翌寿永3年(1184)2月の
一ノ谷の合戦では大敗を喫し、生け捕られた弟重衡の仲介により、和平交渉も持たれたが、結局これは実らず、翌元暦2年(1185)2月の屋島での敗退に続き、最期の決戦地となった壇ノ浦でも敗北し、平家一門の命運もここに尽きた。
 安徳天皇は母時子に抱かれて入水し、一門の多くが西海の波の下に沈んだ中、宗盛は嫡子清宗と共に生け捕りにされ、京に戻って後、鎌倉へ送られたが、源頼朝と形ばかりの対面をしただけで、再び帰洛の途につき、6月21日、京に程近い近江国篠原宿において清宗共々斬られ、その首は獄門にかけられた。
 
 
《はみだし余録》
   兄の重盛贔屓の原作者のおかげで(?)、徹底的に“ダメ男”として描かれる宗盛。
 しかし、最後の最後まで、それこそ愚かしいまでに我が子の身を案じる姿には、どこか、胸が熱くなるものがあり、たとえ政治家としては無能でも、父親としての宗盛には、“満点”をつけてあげてもいいのでは?とも思います。
 壇ノ浦では、覚悟の定まらないままに、下人に海へ突き落とされたものの、泳ぎが上手だったために沈むことができず、敵兵に引き上げられたといわれていますが、京生まれの京育ちの彼は、いったいどこで泳ぎを覚えたのでしょうね。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花・鹿谷・御輿振
巻 2: 西光被斬・教訓状
巻 3: 公卿揃・医師問答・法王被流・城南之離宮
巻 4: 厳島御幸・鼬之沙汰・信連・競・若宮出家・通乗之沙汰
巻 6: 入道死去・築島・祇園女御・横田河原合戦
巻 7: 実盛・平家山門連署・主上都落・聖主臨幸
巻 8: 緒環・大宰府落・法住寺合戦
巻 9: 三草勢揃・老馬・知章最期
巻10: 八島院宣・請文・海道下・三日平氏
巻11: 勝浦 付 大坂越・嗣信最期・鶏合 壇浦合戦・
遠矢・能登殿最期・内侍所都入・一門大路渡・
副将被斬・腰越・大臣殿被斬
 
 
1157年(保元2) 10.22 叙爵(従五位下) 11歳
1159年(平治1) 12.27 遠江守 13歳
1160年(平治2)
    (永暦1)
1.21 淡路守 14歳
4. 3 右兵衛佐
1161年(永暦2) 1.27 従五位上 15歳
1162年(応保2) 1.27 左兵衛佐 16歳
10.28 左馬頭
1163年(長寛1) 11.18 正五位下 17歳
12.20 美作守
1165年(永万1) 7.25 従四位下 19歳
1166年(仁安1) 8.27 従四位下 20歳
11.14 正四位下
12.30 左馬頭(弟重衡に譲る)
1166年(仁安2) 1. 7 右中将 21歳
8. 1 参議
閏10.12 美作守 止
12.13 従三位
1168年(仁安3) 1.11 越前権守 22歳
3.20 皇太后宮権大夫
3.28 正三位
1169年(仁安4) 4.12 皇太后宮権大夫停止
(院号宣下により)
23歳
1170年(嘉応2) 7.26 右兵衛督 24歳
12.30 権中納言・右衛門督
1171年(承安3) 10.21 従二位 27歳
1176年(安元2) 12. 5 権中納言を辞任 30歳
1177年(安元3) 1.24 権中納言(還任)・右大将 31歳
1178年(治承2) 1. 4 正二位 32歳
4. 5 権大納言
7.10 右大将を辞任
12. 2 右大将を兼任
12.15 春宮大夫
1179年(治承3) 1.   春宮大夫を辞任 33歳
2.26 権大納言・右大将を辞任
1182年(寿永1) 9. 4 権大納言に還任 36歳
10. 3 内大臣
1183年(寿永2) 1.21 従一位 37歳
2.27 内大臣を辞任
8. 6 除名(西海へ赴くにより)
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦の合戦にて生捕 39歳
6.21 近江国篠原にて斬首
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平知盛 <たいら・の・とももり> (1151−1185)
 
 平清盛の四男。母は平時子で、宗盛・重衡・徳子と同母兄弟。
 平治元年(1159)に9歳で蔵人・叙爵、以後、武蔵守・左兵衛権佐・春宮大進・中務権大輔・左近衛権中将などを歴任し、安元3(1177)年に従三位に叙され、さらに、右兵衛督・左兵衛督・参議を経て、養和2年(1182)には、従二位権中納言に昇り、
新中納言と称された。
 なお、妹徳子が言仁親王を生んだ翌年の治承3年(1179)に、修理大夫藤原信隆の娘殖子に守貞親王が誕生すると、乳母夫となり、その養育に当たっている。
 
 治承5年(1181)閏2月に、父清盛が急逝して後は、以仁王の挙兵を皮切りに、反平氏勢力の蜂起が相次ぐ中、兄宗盛を補佐して、一門の中心的な立場を担い、反乱の鎮圧に努めたが、度重なる敗戦に、平家の劣勢は如何ともし難く、寿永2年7月、一門を率い、西海へと落ち延びた。
 
一ノ谷の合戦では、敗走の途、愛息知章の身を挺した犠牲により、辛くも逃れ、以後も、棟梁としての統率力に欠ける兄宗盛に代り、実質的な軍事総裁の役目を担い、自らの知行国であった長門国彦島を拠点に反撃の機会を伺うが、翌元暦2(1185)年3月24日、壇ノ浦の合戦において、源義経の軍勢に敗れ、安徳天皇と平家一門の最期を見届けて、自らも入水した。
 
 
《はみだし余録》
   「見るべき程のことは見つ…」
 兄宗盛のだらしなさとの対比もあって、その潔さは高感度No.1!
 平家の幕引きを見事に演じた立役者といっても過言ではないでしょう。
 しかし、源平争乱の当初の頃には、追討使として派遣されながら、病のために途中で帰洛するなど、今ひとつ、覇気に欠け、最期の時の雄々しさとは、どこか別人のような印象も。
 いや、実際の所、あの捨て台詞は創作の可能性が大で、入水どころか、安徳天皇を奉じて、落ち延びたという伝承もあるのですけどね。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花・御輿振
巻 2: 西光被斬
巻 4: 橋合戦・宮御最期
巻 5: 都帰
巻 6: 祇園女御
巻 7: 平家山門連署・主上都落・聖主臨幸・一門都落
巻 8: 大宰府落・水島合戦・室山・法住寺合戦
巻 9: 二度之懸・越中前司最期・知章最期
巻10: 請文
巻11: 逆櫓・鶏合 壇浦合戦・遠矢・先帝身投・
能登殿最期・内侍所都入
 
 
1159年(平治1) 1. 7 蔵人 9歳
1.11 叙爵(従五位下)
1160年(永暦1) 2.28 武蔵守 10歳
1162年(応保2) 9.28 左兵衛権佐 12歳
1164年(長寛2) 1. 5 従五位上 14歳
1166年(仁安1) 8.27 正五位下 16歳
10.10 春宮大進
10.11 中務権大輔に遷任
(左兵衛権佐は去る)
1167年(仁安2) 2.11 従四位下
春宮権大進を去る
17歳
12.30 武蔵守 止
1168年(仁安3) 1. 6 従四位上 18歳
2.19 新帝昇殿の聴し
3.23 左中将
8. 4 正四位下
1177年(安元3) 1.24 従三位 27歳
1178年(治承2) 1.28 丹波権守 28歳
1179年(治承3) 1.19 春宮権大夫・右兵衛督
左中将 止
29歳
8.   春宮権大夫を辞任
(兄重盛薨去により)
9. 5 正三位
10. 9 左兵衛督に遷任
1180年(治承4) 2.21 春宮権大夫 止(受禅により) 30歳
2.25 新院(高倉)別当
1181年(治承5)
 
    (養和1)
閏2.3 左兵衛督を辞任
(父清盛薨去により)
31歳
3.26 参議・左兵衛督(復任)
9.23 参議を辞任
1182年(養和2) 3. 8 左兵衛督を辞任 32歳
10. 3 権中納言
11.23 従二位
1183年(寿永2) 8. 6 解官(西国に赴くにより) 33歳
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦の合戦において入水 35歳

 ※ 公卿補任での年齢とは異なります
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平重衡 <たいら・の・しげひら> (1156−1185)
 
 平清盛の五男。母は平時子で、宗盛・知盛・徳子の同母弟。
 応保2年(1162)に7歳で叙爵され、翌年に尾張守、仁安元年(1166)には左馬頭となった。
 承安2年(1172)2月、姉徳子の中宮宣下と同時に、中宮亮に任じられ、さらに、治承2年(1178)に言仁親王が皇太子となると、春宮亮に転じ、翌治承3年には左近衛権中将に補されたが、ほどなく辞任した。
 治承4年(1180)1月に、蔵人頭に任じられ、翌治承5年には、左近衛権中将に還任して従三位に叙され、これにより「三位中将」と呼ばれたが、養和元年(1181)に維盛が、寿永2年(1183)に資盛と、三位中将が三人になって以後は、
「本三位中将」と称された。
 
 正妻の藤原輔子(五条大納言邦綱の娘)が、安徳天皇の乳母となり、中央官僚としての足場を着実に固める一方、相次ぐ反平氏勢力の蜂起に対し、その鎮圧に奔走した。
 治承4年12月、南都攻撃の総大将となり、
東大寺・興福寺を焼亡させ、翌養和元年には、父清盛逝去直後の3月に、東国追討使となり、尾張墨俣川において、源行家軍を撃破した。
 寿永2年(1183)に入ると、維盛らの北陸追討軍を打ち破り、ますます気勢上がる木曽義仲軍の前に、都落ちを余儀なくされるが、
備中水島の合戦に勝利して、勢いを回復。これに乗じて、再び京奪還を目指し福原への進出を図るが、翌寿永3年(1184)2月に、一ノ谷の合戦で大敗を喫し、重衡自身も捕縛された。
 
 京に連行された重衡は、三種の神器を返還し、源氏と和睦を結ぶことを勧める私信を屋島の兄宗盛に宛てて送ったが、交渉は決裂。
 その後、関東に護送されることになるが、源頼朝はこの重衡を丁重に遇したといわれる。
 翌元暦2年(1185)、壇ノ浦にて平家一門が滅亡すると、東大寺・興福寺衆徒の強い要求により、重衡の身柄は南都に引き渡され、6月23日、木津川の河畔で処刑の後、その首は奈良坂に懸けられた。
 
 
《はみだし余録》
   牡丹の花にもたとえられた貴公子―平重衡。
 正妻の大納言佐・内裏女房の左衛門佐・千手前と、女性とのエピソードには事欠かず、いわゆる“恋愛部門担当要員”といった所でしょうか。
 ところで、この「牡丹」の文字を見てみると、
   
「牡」=雄(オス)
   
「丹」=赤
 原産地の中国では、赤は高貴の色とされ、その赤い花をつける牡丹は、「百花の王」とも呼ばれる最高級品でした。
 しかし、この花は種子から育てても、必ずしも、親と同じ赤い花になるとは限らないため、“株分け”によって栽培されたことから、
「子供のできない牡(雄)の赤い花」という意味で、その名がつけられたとされています。
 多くの女性と浮名を流しながら、ついに、一人の子供も持たなかった(系図上では)平重衡の生涯は、まさに「牡丹の花の如き」という形容にふさわしいものだったと言えるでしょう。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 御輿振
巻 2: 西光被斬
巻 3: 御産
巻 4: 橋合戦・三井寺炎上
巻 5: 五節之沙汰・奈良炎上
巻 6: 祇園女御・横田河原合戦
巻 7: 平家山門連署・主上都落・一門都落
巻 8: 名虎・室山
巻 9: 重衡生捕
巻10: 首渡・内裏女房・八島院宣・請文・戒文・
海道下・千手前・横笛
巻11: 重衡被斬
 
 
1162年(応保2) 12.23 叙爵(従五位下) 7歳
1163年(応保3) 1.24 尾張守 8歳
1166年(仁安1) 11.18 従五位上 11歳
12.30 左馬頭
1168年(仁安3) 1. 6 正五位下 13歳
8. 4 従四位下
1171年(嘉応3) 1. 6 従四位上 16歳
1172年(承安2) 2.10 中宮亮 17歳
2.17 正四位下
1178年(治承2) 12.15 春宮亮 23歳
1179年(治承3) 1.19 左近権中将 24歳
12.14 左近権中将を辞任
1180年(治承4) 1.28 蔵人頭 25歳
2.21 新帝蔵人頭
春宮亮止(践祚により)
1181年(治承5) 5.26 従三位・左近権中将(還任) 26歳
1182年(養和2) 3. 8 但馬権守 27歳
1183年(寿永2) 1. 7 正三位 28歳
8. 6 解官(西国に赴くにより)
1184年(寿永3) 2. 7 一ノ谷の合戦にて生捕 29歳
1185年(元暦2) 6.23 奈良木津川の辺にて斬首 30歳

 ※ 公卿補任での年齢とは異なります
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平知度 <たいら・の・とものり> ( ? −1183)
 
 平清盛の子。
 治承3年(1179)11月、尾張守より三河守に遷任。
 翌治承4年(1180)9月、源頼朝追討の大将軍の一人として、東国へ下向したが、
富士川の合戦で惨敗を喫し、この時、わずか20余騎で帰京したという。
 明くる養和元年(1181)3月、再び東国へ出陣し、尾張
墨俣川の合戦において源行家軍を破ったが、寿永2年(1183)4月に、木曽義仲追討の北陸遠征に赴き、翌5月、越中礪波山の合戦で討死した。
 
 
【平家物語】
巻7: 北国下向・竹生島詣・火討合戦・倶梨伽羅落
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平清房 <たいら・の・きよふさ> ( ? −1184)
 
 平清盛の子。従五位下淡路守
 治承4年(1180)12月の園城寺攻撃に参加し、翌養和元年(1181)10月には、木曽義仲追討の北陸遠征に、副将軍の一人として出陣した。
 寿永2年(1183)7月の都落ちにも同行し、翌寿永3年(1184)2月の
一ノ谷の合戦において、若狭守経俊(経盛子)・尾張守清貞(清盛養子)と、3騎連れ立って敵中に駆け入り、奮戦の後、共に同じ所で討死したという。
 
 
【平家物語】
巻 7: 北国下向・竹生島詣・一門都落
巻 9: 知章最期・落足
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平清貞 <たいら・の・きよさだ> ( ? −1184)
 
 生年未詳。清定とも。
 平清盛の
養子で、実父は大外記中原師元。
 承安5年(1175)正月、式部丞に任じられ、その後、従五位下に叙され、三河権守、木工助となった。
 『平家物語』では、
「尾張守」の称が用いられているが、これが事実かどうかは定かでない。
 寿永2年(1183)7月の都落ちに同行し、翌寿永3年(1184)2月、
一ノ谷の合戦において、若狭守経俊(経盛子)・淡路守清房(清盛子)と、3騎連れ立って敵中に駆け入り、奮戦の末、共に同じ所で討死したという。
 
【平家物語】
巻 7: 一門都落
巻 9: 知章最期・落足
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平清邦 <たいら・の・きよくに> (1175− ? )
 
 平清盛の養子。清国とも。
 実父は五条大納言藤原邦綱、母は右大臣藤原公能の娘。
 父邦綱が長年に渡り平清盛と親交を結んでいたことから、その養子となった。なお、姉妹の輔子も清盛の五男重衡の正妻となっており、両家の結びつきの強さを物語っている。
 治承2年(1178)6月に叙爵の後、翌治承3年(1179)12月に
丹波守に任じられ、さらに、治承4年(1180)4月には、高倉上皇の厳島御幸の勧賞により、正五位下に叙された。
 以後の消息については未詳。
 
 
《はみだし余録》
   清邦の生年は、『玉葉』の治承2年6月10日条、
 「邦綱卿子叙爵、年四、平相国入道為子、未加首服云々」
 より逆算したものです。
  
 
 
【平家物語】
巻 4: 還御
巻 6: 祇園女御
 
 
1178年(治承2) 6.10 叙爵(従五位下) 4歳
1179年(治承3) 12.12 丹波守 5歳
1180年(治承4) 4. 9 正五位下 6歳
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平某女〔藤原兼雅室〕 (1152?− ? )
 
 平清盛の娘。生没年未詳。
 花山院藤原兼雅の正室となり、忠経・家経らを生んだ。
 『平家物語』によれば、平治元年(1159)、8歳の時に、信西入道の子藤原成範と婚約したが、平治の乱により、この婚約は解消され、その後、藤原兼雅に嫁した。
 当第一の絵の名手だったといわれ、『源平盛衰記』には、勅命により紫宸殿の御障子に『伊勢物語』から主題をとった絵を描いたとの逸話も挿入されている。
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
 
【源平盛衰記】
巻第2(呂巻): 清盛息女事
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平徳子 <たいら・の・のりこ> (1155− ? )
 
 太政大臣平清盛の娘。母は平時子で、宗盛・知盛・重衡は同腹の兄弟。
 
 承安元年(1171)12月14日、17歳の時に、6歳下の従姉弟高倉天皇に入内、翌承安2年(1172)2月に
中宮となった。
 入内から7年後の治承2年(1178)11月に、第一皇子言仁親王を生み、2年後の治承4年(1180)には、わずか3歳でこの言仁親王が即位して安徳天皇となり、徳子は国母に昇った。
 
 しかし、同年5月の以仁王の挙兵以降、福原遷都、源頼朝の挙兵、還都、南都焼討ちと、世上が混迷を極める中、翌治承5(1181)年1月に夫高倉上皇が21歳で崩じるが、この時、徳子を義父である後白河法皇の后に、との動きがあり、ところが、それを知った徳子が、出家を楯に、頑強にこれを拒否しため、やむなく、異母妹にあたる御子姫君を代りに入内させたといわれている。
 が、わずか2カ月後の閏2月4日に、父清盛が熱病により急死したことから、ますます平家の勢威は衰え、養和と改元された同じ年の11月に
建礼門院の号を賜り女院となったものの、寿永2年(1183)7月には、木曽義仲の軍勢に追われるように、京を退去し、安徳天皇を奉じて、西海へと逃れることとなった。
 
 元暦2年(1185)3月24日、
壇ノ浦の合戦において、敗北が決定的となると、母時子が安徳天皇を抱いて入水し、徳子も続いて海中に身を投じるが、源氏方の兵士に引き上げられ、京へ護送された。
 同年5月1日に出家を遂げ、その後、洛北大原に隠棲して、一門の菩提を弔った。なお、この閑居に後白河法皇が訪れたといわれる
大原御幸は灌頂巻に詳しい。
 
 なお、『平家物語』ではそのまま大原において逝去したとされているが、一説には、姉妹である藤原隆房室や信隆室の勧めにより、法勝寺辺や東山の鷲尾に居を移し、承応2年(1223)に崩じたともいわれている。
 
 
《はみだし余録》
   承安元年(1171)12月2日、院の殿上において、女御入内定めの議事があり、この時に「徳子」という名も定められたといわれています。
 なお、本によっては
「とくこ」と読みが振られている場合もありますが、あの時代に音読【とく】+訓読【こ】の湯桶読み(ゆとうよみ)は、まずありえないということで、最近では「のりこ」と読ませるものが多いようです。
 ところで、この徳子さん、『平家物語』では当時15歳とされていますが、実際は17歳だったとか。
 やはり、相手の高倉天皇が11歳と幼かったため、少しサバを読んでいたのでしょうかね。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花・鹿谷・内裏炎上
巻 3: 赦文・御産・大塔建立・法王被流
巻 4: 還御・競
巻 5: 奈良炎上
巻 6: 紅葉・小督・横田河原合戦
巻 7: 主上都落
巻 8: 山門御幸・大宰府落
巻11: 逆櫓・勝浦 付大坂越・能登殿最期・内侍所都入
巻12: 平大納言被流
灌頂: 女院出家・大原入・大原御幸・六道之沙汰・
女院死去
 
 
1171年(承安1) 12.14 高倉天皇に入内 17歳
12.26 女御宣下
1172年(承安2) 2.10 中宮宣下 18歳
1178年(治承2) 11.12 言仁親王誕生 24歳
12. 8 言仁親王立太子
1180年(治承4) 2.21 安徳天皇践祚 26歳
4.22 安徳天皇即位
1181年(治承5) 1.14 高倉上皇崩御 27歳
閏2.4 父平清盛逝去
1183年(寿永2) 7.24 平家一門都落ち 29歳
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦にて平家一門滅亡 31歳
5. 1 出家
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平盛子 <たいら・の・もりこ> (1156−1179)
 
 平清盛の娘。
 長寛2年(1164)4月にわずか9歳で摂政藤原基実室となったが、2年後の永万2年(1166)7月に夫基実が急逝し、先妻の子基通の養母との名目で、その遺領を相続した。
 仁安2年(1167)11月に新造の白河押小路殿に移り、ここを御所としたことから、
「白河殿」と呼ばれた。
 その直後の11月18日に、従三位の叙位と准三后の宣旨が下され、翌仁安3年(1168)の高倉天皇即位の際に、准母となった。
 基実の弟である関白基房に再嫁するとの噂もあったが、これは実現せず、治承3年(1179)6月17日、白河御所において死去した。享年24歳。
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
 
 
1164年(長寛2) 4.10 摂政藤原基実室となる 9歳
1166年(永万2) 7.26 夫の藤原基実が死去(24歳) 11歳
1167年(仁安2) 11.18 従三位・准三后の宣下 12歳
1179年(治承3) 6.17 白河御所において薨去 24歳
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平某女〔藤原隆房室〕 ( ? −1199)
 
 生没年未詳。
 平清盛の娘で、母は平時子ともいわれている。
 初めは、後白河院の寵臣藤原信頼の子信親と婚約していたが、
平治の乱で信頼が処刑されたため、この婚約は解消された。
 その後、善勝寺長者藤原隆季の一男藤原隆房の正室に迎えられ、嫡男隆衡以下、隆宗、隆重らを生んだ。
 『源平盛衰記』によれば、稀にみる筝琴の名手だったといわれる。
 寿永2年(1183)7月の平家都落ちには同行しなかったが、元暦2年(1185)、
壇ノ浦合戦で生け捕りにされた建礼門院徳子が帰京してからは、傷心の姉を物心両面から支えたという。
 正治元年(1199)10月15日薨去。
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
灌頂: 大原入
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平完子 <たいら・の・さだこ> ( ? − ? )
 
 平清盛の娘。寛子とも。
 普賢寺関白北政所(普賢寺関白は藤原基通の異称)。
 藤原基通室となり、治承3年(1179)11月、清盛のクーデターにより、罷免された藤原基房に代り、基通が新関白に就任すると、
「北政所」と称され、寿永2年(1183)には従三位に叙された。
 しかし、同年7月の平家都落ちには、京に留まった基通と別れ、一門と共に西海に下り、元暦2年(1185)3月、壇ノ浦に平家が滅ぶと、生け捕られた建礼門院らと共に帰京したが、その後の消息は未詳。
 肌が輝くように美しく、
「衣通姫」(そとおりひめ)と呼ばれていたと伝えられる。
 
 
《はみだし余録》
  「衣通姫」とは『古事記』や『日本書紀』に登場する伝説の女性で、その美しさは、衣を通しても光り輝くほどであったいわれています。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
巻11: 勝浦 付大坂越・内侍所都入
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平某女〔藤原信隆室〕 ( ? − ? )
 
 平清盛の娘。生没年未詳。
 修理大夫藤原信隆室となり、隆清を生んだ。
 寿永2年(1183)の平家都落ちには同行せず、元暦2年(1185)の一門滅亡後は、藤原隆房室と共に、姉妹の建礼門院徳子を慰めたといわれる。
 義理の娘にあたる殖子が高倉天皇の寵愛を受け、二宮守貞・四宮尊成のニ親王を生み、平家西走の後、この尊成親王が即位して後鳥羽天皇となったことから、朝敵平家の出でありながら、思いがけず、外祖母の栄誉によくした、幸運の人である。
 
 
 
《はみだし余録》
   『尊卑分脈』によれば、彼女が生んだといわれる隆清は、建保2年(1214)に47歳で薨去しています。
 この記述の通りとすると、隆清は1168年生まれとなり、その母である彼女は、15歳で隆清を生んだとして、1154年の生まれ、実際は、それ以前と推測され、一説には、長子の重盛の同母姉ともいわれています。
 『尊卑分脈』や『平家物語』での扱いが、清盛の娘としては6番目のため、ついつい年少を想像しがちですが、少なくとも、中宮徳子よりも年上であることは間違いないでしょう。
 
  
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
灌頂: 大原入
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平某女〔御子姫君〕<みこひめぎみ> (1164?− ? )
 
 父は平清盛で、母は安芸厳島内侍。
 養和元年(1181)正月、病身の高倉上皇が危篤状態に陥ったことから、後白河法皇との関係修復のため、当初は、中宮徳子を法皇の後宮に納れようと画策したが、これは徳子の強い拒否により実現せず、代りにこの姫を差し出したといわれる。
 高倉上皇崩御直後の1月25日に入内の事は成ったが、以後の消息は未詳。
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
巻 6: 廻文
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 平某女〔廊御方〕<ろう・の・おんかた> ( ? − ? )
 
 父は平清盛、母は九条院雑仕女常盤。
 当初、源義朝の妾妻だった常盤が、平治の乱で義朝が討たれて後、一時平清盛の寵愛を受けていた時に生んだ娘といわれ、源義経の異父妹にあたる。
 寿永2年(1183)7月の平家都落ちにも同行し、元暦2年(1185)3月、
壇ノ浦の合戦で生け捕られ、建礼門院らと共に帰京した。
 その後、異母姉の嫁ぎ先である花山院家の上臈女房となって、
「廊御方」又は「三条殿」と称される共に、和琴の名手、能書家としても知られた。
 一説に、義兄である藤原兼雅と関係して、娘を生んだとも伝えられる。
 
 
《はみだし余録》
   「兄」の仇が「父」、「父」の仇が「兄」という二重の宿命を背負った女性。
 その彼女の生年は、平治の乱で源義朝が敗死し、常盤が六波羅に出頭した1160年(永暦元)以降、なおかつ、常盤が藤原長成に嫁し、その子能成を生んだ1163年(長寛元)以前であることは間違いなく、1161年(応保元)頃とするのが妥当でしょう。
 従って、壇ノ浦の際には25歳位。敵の大将である異父兄義経が当時27歳。恐らく対面の機会があったであろう二人の間で、いったい、どのような会話が交わされたのか…、興味あるところです。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花
巻11: 内侍所都入
 
系図表示
 
 
 
 
 
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送