* * * これより 清盛孫・重盛子 * * *
 
 平維盛 <たいら・の・これもり> (1157?−1184?)
 
 小松内大臣平重盛の嫡男。惟盛とも。
 仁安2年(1167)の叙爵以後、右近衛権少将となり、承安2年(1172)2月、高倉天皇妃となった徳子の中宮宣下と共に中宮権亮に、養和元年(1181)には、従三位右近衛権中将となり、
「権亮三位中将」と呼ばれた。
 本来、清盛の嫡孫として、平家嫡流を継ぐはずであったが、治承3年(1179)の父重盛の死により、後継の座が叔父の宗盛に移ったことから、一転して、微妙な立場に立たされることになった。
 
 翌治承4年(1180)10月、源頼朝の挙兵を受けて、その追討の大将軍として東国に下向するが、
富士川の合戦で戦わずして敗走し、これには清盛も激怒したという。
 その後、寿永2年(1183)5月に、今度は木曽義仲追討の北陸遠征に、再度、大将軍として下向するが、
倶梨伽羅谷の合戦で惨敗を喫し、これにより、平家の衰勢を決定づけることになった。
 同年7月、一門の都落ちに、妻子を京に残して単身加わったが、翌寿永3年(1184)2月の
一ノ谷の合戦の際には、病のため戦陣に加わらなかったといわれ、その直後に、一門から離れ、逐電したとされている。
 
 『平家物語』では、高野山に登り、出家を遂げた後、熊野那智で入水したと伝えるが、一方で、病死説や生存説など、数々の伝承も残されている。
 
 
《はみだし余録》
   紅梅少将とも呼ばれた美貌の人。
 安元2年(1176)3月の後白河院五十歳の賀では、選ばれて青海波を舞っていますが、その姿は、かの光源氏を彷彿とさせるほどだったとか。
 『建礼門院右京太夫集』『安元御賀記』での賛辞もさることながら、右大臣九条兼実もその著書『玉葉』の中で、とても興味深い感想をもらしています。
 どんな感想か知りたい方は、我楽多文庫「玉葉」をのぞいてみてください。
 
  
 
 
【平家物語】
巻 1: 吾身栄花・内裏炎上
巻 2: 小教訓
巻 3: 御産・医師問答・無文
巻 5: 富士川・五節之沙汰
巻 7: 北国下向・竹生島詣・火討合戦・倶梨伽羅落・
平家山門連署・維盛都落・一門都落・福原落
巻 9: 三草勢揃
巻10: 首渡・横笛・高野巻・維盛出家・熊野参詣・
維盛入水
巻12: 六代
 
 
1167年(仁安2) 2. 7 叙爵(従五位下)・美濃権守 11歳
1169年(仁安4) 1. 5 従五位上 13歳
1170年(嘉応2) 12.30 右近権少将 14歳
1171年(嘉応3) 1.18 丹波権介 15歳
4. 7 正五位下
1172年(承安2) 2.10 中宮権亮 16歳
1173年(承安3) 3. 9 従四位下 17歳
1176年(安元2) 1.30 伊予権介 20歳
12. 5 従四位上
1178年(治承2) 12.15 春宮権亮 22歳
12.28 正四位下
1180年(治承4) 2.21 春宮権亮 止(践祚により) 24歳
1181年(治承5)
    (養和1)
6.10 右近権中将 25歳
12. 4 従三位
1182年(養和2) 3. 8 伊予権守 26歳
1183年(寿永2) 8. 6 解官(西国へ赴くにより) 27歳
1184年(寿永3) 2.   屋島より逐電 28歳

  ※年齢は1157年生まれと仮定してのものです
 
 
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 平資盛 <たいら・の・すけもり> (1158?−1185)
 
 内大臣平重盛の子。母は二条院内侍(少輔掌侍)で、その父は下総大夫藤原親盛とも、下総守藤原親方とも。
 仁安元年(1166)叙爵。以後、越前守・右近衛権少将・同権中将を歴任して、寿永2年(1183)に蔵人頭となると、同年7月に従三位に叙され、
新三位中将とされた。

 都落ち後は、弟清経、兄維盛と、小松一門の離脱が相次ぐ中、平家軍の主力として転戦し、元暦2年(1185)3月24日、
壇ノ浦の合戦において戦死したが、『平家物語』では、弟有盛や従兄弟の行盛と、手に手を取り合って入水したとされている。
 
 嘉応2年(1170)7月に、時の摂政松殿基房との間に起きた乗合事件が有名だが、一方で、建礼門院徳子に仕えた才媛右京大夫の恋人としても知られる。
 
 
【平家物語】
巻 1: 殿下乗合
巻 4: 還御
巻 7: 平家山門連署・維盛都落・一門都落
巻 8: 大宰府落
巻 9: 三草合戦
巻10: 三日平氏・藤戸
巻11: 能登殿最期
 
 
1166年(仁安1) 11.21 叙爵(従五位下) 9歳
12.30 越前守
1169年(仁安4) 1. 5 従五位上 12歳
1171年(嘉応3) 4. 7 越前守重任 14歳
1174年(承安4) 12. 4 侍従 17歳
1175年(承安5)
    (安元1)
1.22 得替 18歳
12. 8 正五位下
1178年(治承2) 12.24 右近権少将 21歳
1179年(治承3) 1. 2 従四位下 22歳
1180年(治承4) 4. 8 従四位上 23歳
1181年(治承5)
    (養和1)
 
5.26 正四位下 24歳
10.12 右近権少将を辞任
10.29 右近権中将
1183年(寿永2) 1.22 蔵人頭 26歳
7. 3 従三位
8. 6 解官(西国に赴くにより)
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦の合戦において入水 28歳

  ※年齢は1158年生まれと仮定してのものです
 
 
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 平清経 <たいら・の・きよつね> ( ? −1183)
 
 内大臣平重盛の三男。母は中納言藤原家成の娘で、藤原成親は伯父にあたる。
 史料などに残された記録によれば、極官は
正四位下左近衛権中将で、『平家物語』中でも、終始「左中将」の称が使われている。
 1180(治承4)年5月、以仁王挙兵を受けての園城寺攻撃において、平頼盛らとともに大将を務め、翌1181(養和元)年2月にも、東国の源氏追討に、副将軍として発向したが、大将軍知盛の所労により、ともに帰洛。
 1183(寿永2)年7月、一門の都落ちに従い、西国下向に同行するも、平家の前途を悲観して、豊前国柳浦で入水したと伝えられる。
 
 
【平家物語】
巻 6: 祇園女御
巻 7: 維盛都落・一門都落
巻 8: 大宰府落
 
 
1166年(仁安1) 11月 従五位上
1174年(承安4) 12月 正五位下左近衛権少将
1178年(治承2) 12月 従四位上
1179年(治承3) 6月 禁色の許し
1180年(治承4) 1月 伊予介
 ? 年( ? ) ?月 正四位下左近衛権中将
1183年(寿永2) 4月 石清水臨時祭使
 
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 平有盛 <たいら・の・ありもり> ( ? −1185)
 
 内大臣平重盛の四男。母は清経と同じく、藤原家成の娘従三位典侍藤原経子と伝えられる。
 任官記録の詳細は不明だが、極官は
従四位下右少将
 「小松少将」と称された。
 『平家物語』によれば、尾張川・三草山・藤戸の合戦に、それぞれ大将軍として名を連ね、1185(元暦2)年3月24日、壇ノ浦の合戦において敗死。その死因については、入水とも、討死ともいわれ、『平家物語』諸本の間でも一定でない。
 
 
【平家物語】
巻 6: 祇園女御
巻 7: 維盛都落・一門都落
巻 9: 三草合戦
巻10: 藤戸
巻11: 能登殿最期
 
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 平師盛 <たいら・の・もろもり> (1170?−1184)
 
 内大臣平重盛の五男。母は清経らと同じく、 藤原家成の娘従三位典侍藤原経子と伝えられる。
 任官記録の詳細は不明だが、極官は
従五位下備中守
 『平家物語』でも
備中守の称が用いられている。
 1184(寿永3)年2月、三草山の合戦に兄資盛らと共に出陣したが、少数精鋭の源義経軍の前に、なすすべなく敗走。途中で兄らとはぐれたため、
一ノ谷に合流して再び合戦に及ぶが、敗色濃厚となり、屋島に退却する船に乗り込んだものの、味方の兵が無理に乗船しようとして転覆し、海に投げ出された所を、追ってきた敵兵に討ち取られた。
 
 
《はみだし余録》
   一ノ谷で、享年15歳?の短い生涯を閉じた師盛。
 『尊卑分脈』によれば、なんと!!子供がいたらしい。名は
「勢観」で、源空上人の弟子との注書きがありますが、それにしても…、やはり平安貴族の子弟だけあって、やることはやってたわけですな。
  
 
 
【平家物語】
巻 7: 維盛都落・一門都落
巻 9: 三草合戦・落足
巻10: 首渡・維盛出家
 
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 平忠房 <たいら・の・ただふさ> ( ? −1185)
 
 内大臣重盛の子。母は清経らと同じく、藤原家成の娘従三位典侍藤原経子と伝えられる。
 
「丹後侍従」と称され、1176(安元2)年には、能登守に任じられている。
 1183(寿永2)年7月の都落ちに同行し、各地での合戦にも加わるが、1185(元暦2)年、屋島の合戦の後、一門から離脱し、紀伊の豪族湯浅宗重の許に身を寄せた。
 壇ノ浦での平家滅亡の後、平氏の旧臣らとともに源氏に反旗を翻すも、宗重の勧めに従い自首し、その後、鎌倉に送られて斬られた。
 
 
【平家物語】
巻 7: 維盛都落・一門都落
巻 9: 三草合戦
巻10: 首渡・藤戸
巻12: 六代被斬
 
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 平宗実 <たいら・の・むねざね> (1168?− ? )
 
 小松内大臣平重盛の末子。
 3歳の時に左大臣藤原経宗の養子となり、治承2年(1178)に
土佐守に任じられ、翌治承3年(1179)11月には、常陸介に転じた。
 
 寿永2年(1183)7月の平家都落ちには同行しなかったが、文治元年(1185)に平家一門が滅亡し、平孫狩りが始まると、自身に害が及ぶことを恐れた経宗に追い出され、東大寺再建の勧進聖として知られる
俊乗房重源を戒師として、出家を遂げたという。
 
 『平家物語』諸本では、その後、鎌倉へ護送されることになったが、奈良を出立した時から一切の飲食を絶ち、途中足柄山の辺りで亡くなったとしているが、
延慶本では、一旦許され、高野聖となって生蓮房と号したが、平知盛の遺児知忠の反乱によって再び呼び出されると、鎌倉へ向かう途上に、やはり断食の末に亡くなったとしている。
 
 
《はみだし余録》
   いくら保身のためとはいえ、一度は親子の契りを交わした子を、平孫狩りの嵐吹き荒れる真っ只中に、一人放り出した経宗の非情さ。
 ところが、『吾妻鏡』によれば、捕えられた宗実のために、経宗は助命嘆願の書状を鎌倉に送り、源頼朝もこれを読んで、許しを与えたとあり、何だか、随分事情が異なるような…。
 もしかすると、宗実は養父のためを思って、自ら経宗の許を去ったのかもしれませんね。
 
 
 
【平家物語】
巻12: 六代被斬
 
 
1171年(承安1)   藤原経宗の猶子となる 3歳
1178年(治承2) 1. 6 土佐守 11歳
1179年(治承3) 11.18 常陸介 12歳
 
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* * * これより 清盛孫・基盛子 * * *
 
 
 平行盛 <たいら・の・ゆきもり> ( ? −1185)
 
 平清盛の二男平基盛の嫡男。
 父基盛が早世したため、従兄弟にあたる重盛子息らに比し昇進は遅く、極官は正五位下播磨守兼左馬頭で、『平家物語』では
「左馬頭」の称が用いられている。
 木曽義仲追討の大将軍の一人として赴くが敗走。
 1185(元暦2)年3月24日、壇ノ浦の合戦において敗死。
 『平家物語』では、従兄弟の資盛・有盛とともに入水したと伝えられる。
 
【平家物語】
巻 2: 西光被斬
巻 4: 橋合戦
巻 7: 主上都落・一門都落
巻11: 能登殿最期
 
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* * * これより 清盛孫・宗盛子 * * *
 
 
 平清宗 <たいら・の・きよむね> (1171−1185)
 
 内大臣平宗盛の一男。母は兵部権大輔平時信女 清子 (時子・時忠らの妹)
 承安2年(1172)に2歳で元服して、従五位下に叙され、以後、侍従・備前介を経て、解官となった寿永2(1183)年には、13歳にして、既に
正三位右衛門督に昇っていた。
 同じ寿永2年2月に池大納言平頼盛の娘と結婚したが、7月には都落ちする一門に従って西海に逃れ、元暦2(1185)年3月、
壇ノ浦の合戦において、父宗盛と共に生け捕られた。
 同年5月、父子共々鎌倉へ護送されるが、程なく送り返されることとなり、翌6月21日、京に向かう途上の近江国篠原宿において、源義経の郎党の手により斬られ、首級は検非違使に渡され、都大路を引き回された。
 
 
【平家物語】
巻 4: 通乗之沙汰
巻 7: 平家山門連署・一門都落
巻 9: 知章最期
巻11: 能登殿最期・内侍所都入・一門大路渡・
副将被斬・腰越・大臣殿被斬
 
 
1172年(承安2) 1. 5 叙爵(従五位下) 2歳
1173年(承安3) 1. 5 従五位上 3歳
1174年(承安4) 1.23 侍従 4歳
1176年(安元2) 1. 5 正五位下 6歳
1178年(治承2) 1.28 備前介 8歳
1179年(治承3) 1. 3 従四位下 9歳
12.16 従四位上
1180年(治承4) 5.30 従三位 10歳
1182年(養和2) 4. 9 正三位 12歳
1183年(寿永2) 1.22 右衛門督 13歳
8. 6 解官(西国に赴くにより)
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦の合戦にて生捕 15歳
6.21 近江国篠原宿にて斬首
 
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 平義宗 <たいら・の・よしむね> (1178?−1185)
 
 平宗盛の子。能宗とも。
 父の宗盛が、兄の清宗を朝敵平定の大将軍に、弟を副将軍にしようと考えて、名を
副将とつけたという。
 一門の都落ちに同行し、元暦2年(1185)3月の
壇ノ浦の合戦の際に、父宗盛や兄清宗と共に生け捕られた。
 
 この時の年齢が『平家物語』では8歳、『吾妻鏡』では6歳、『延慶本』では5歳と諸説あるが、治承2(1178)年7月に出産直後の宗盛室清子が逝去しており、その時に生まれた子がこの義宗とすれば、8歳の説が有力。
 同年11月には、安徳天皇が誕生しており、当初、この宗盛室が乳母に内定していたのが、急死により、平時忠室の帥典侍が乳母となったといわれている。
 
 『平家物語』によれば、捕虜となり京に戻った義宗は、鎌倉下向の決まった父宗盛らから引き離され、賀茂の河原で首を刎ねられたとあるが、一方で、石を詰めた籠に入れられ、桂川に投げ込まれたとも、あるいは、自害と記した文献も残されている。
 
 
【平家物語】
巻11: 内侍所都入・副将被斬
 
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* * * これより 清盛孫・知盛子 * * *
 
 
 平知章 <たいら・の・ともあきら> (1169−1184)
 
 中納言平知盛の一男。母は八条院女房治部卿局。
 若年で
従五位下武蔵守に任じられたが、1183(寿永2)年の都落ちで、一門とともに西走。
 翌1184(寿永3)年2月7日、一ノ谷の合戦において、敗走する父知盛を庇い、討ち取られた。
 
 
【平家物語】
巻 7: 一門都落
巻 9: 知章最期・落足
 
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 平知忠 <たいら・の・ともただ> (1177−1196)
 
 中納言平知盛の子。従五位下。
 母は八条院女房治部卿局で、知章の同母弟。
 1183(寿永2)年の都落ちの際には、まだ幼子だっため、西国に同行させず、父知盛の乳母夫であった紀伊次郎兵衛橘為範に預けられ、その後、為範と共に伊賀国へ逃れたことから、
伊賀大夫と称された。
 1196(建久7)年に、上洛して法性寺一橋辺に隠れ住み、謀反の企てを図るが、事前にそれを察知した京都守護藤原能保の追捕を受け、為範とともに自害した。
 なお、この時、知忠の首級を確認したのは、長年生き別れたままだった実母の治部卿局といわれる。
 
 
《はみだし余録》
   知忠については、1183年(寿永2)当時に、7歳(延慶本・四部合戦状本・長門本など)、3歳(屋代本・百二十句本・南都本・八坂本など)の二つ説があり、よって、生年は1177年(治承元)もしくは1181年(養和元)になります。
 
 
 
【平家物語】
巻12: 六代被斬
 
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* * * これより 清盛曾孫・維盛子 * * *
 
 
 六代 <ろくだい> (1174?− ? )
 
 三位中将平維盛の子で、母は権大納言藤原成親の娘。
 父の維盛の幼名が「五代」であったことから、
「六代」と名づけたといわれ、これは、平家隆盛の基礎を築いた平正盛から数えて、五代目・六代目に当たることによる。
 
 寿永2年(1183)7月の平家都落ちには同行せず、母や妹と共に京に残されたが、この時、六代は10歳だったといわれる。
 平家滅亡後の文治元年(1185)、平氏の残党狩りで捕えられたが、高雄神護寺の僧文覚の強請により助命され、やがて、出家して
「妙覚」と称し、文覚の弟子となっている。
 
 『平家物語』では、その後も、平家嫡流の六代に対し警戒の念の消えなかった源頼朝の命により、斬られたとしているが、六代の没年には、異説が多く、覚一本では
「三十に余る」、延慶本・屋代本では「二十六まで」とあり、他にも、建久9年(1198)没や建仁3年(1203)没などの説がある。
 しかし、正治元年(1199)正月3日に源頼朝が没していることから、あるいは、六代殺害を指示したのは、北条時政・義時父子であり、その没年についても、あえて頼朝存命中に遡らせるように捏造された可能性も否定できない。
 
【平家物語】
巻 7: 維盛都落
巻10: 首渡
巻12: 六代・泊瀬六代・六代被斬
 
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 平某女〔夜叉御前〕 <やしゃごぜん> (1176?− ? )
 
 三位中将平維盛の娘。母は権大納言藤原成親の娘で、六代の同母妹。
 寿永2年(1183)7月の平家都落ちの際に、父維盛は妻子を京に残して西国へ向かったが、この時、兄の六代が10歳、妹姫は8歳だったといわれる。
 
 平家滅亡後は、仏門に入って神護寺の僧文覚の弟子となった兄六代とは別れ、権中納言藤原経房に再嫁した母と共に、経房邸に暮らした。
 やがて、その縁により経房の外孫藤原実宣の妻となったが、上昇志向の強い実宣は、まもなくこの婚姻を解消し(1203年頃)、鎌倉の北条時政の娘を妻に迎えている。
 
 その後、建永元年(1206)頃に再び縁談があり、蔵人頭皇后宮亮 平親国(父は二位尼や時忠の異母弟平親宗)に再嫁したが、承元2年(1208)に親国が薨じ、以後の消息は、一切不明である。
 
 なお、
「夜叉御前」の名は覚一本にはなく、天草本・百二十句本などの諸本による。
 
 
【平家物語】
巻 7: 維盛都落
巻10: 首渡
巻12: 六代
 
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* * * これより 清盛甥・経盛子 * * *
 
 
 平経正 <たいら・の・つねまさ> ( ? −1184)
 
 正三位参議平経盛の子。生年未詳。
 父経盛の縁により、幼少の頃から、稚児として仁和寺に伺候し、覚性・守覚と二代の御室に近侍したという。
 左馬権頭・淡路守・
皇太后宮亮・丹後守などを歴任し、治承3(1178)年11月の清盛のクーデターにより、但馬守に任じられた。
 その後、反平氏勢力の拡大により、北陸追討に加わり出陣したが、木曽義仲軍の前に敗北を喫し、退却を余儀なくされた。
 一門の都落ちにも、父経盛、弟経俊・敦盛らと共に従い、寿永3(1184)年1月、
一ノ谷の合戦において討死した。
 琵琶の名手として知られ、北陸遠征の途、琵琶湖の竹生島を訪れ、秘曲を奉納したことや、都落ちの際、仁和寺に立ち寄り、かつて覚性法親王より拝領した琵琶「青山」を返上したといったエピソードが『平家物語』にも残されている。
 
 
《はみだし余録》
   例年3月に行われる石清水八幡宮臨時祭。
 その舞人に選ばれるのは、上流貴族の子弟ばかりで、いわば、エリート官僚への登竜門でした。
 さて、仁安4年の臨時祭で舞人に選ばれた経正くん。ところが、本番を前にして無念の降板。その理由というのが…
「右股腫物出来」
 張り切って舞の稽古をやりすぎたのでしょうか。
 それにしても、せっかくのチャンスを棒に振ってしまい、もしかすると、このツマヅキのために、出世が遅れて、ついに公卿には手が届かなかったとか? (by兵範記)
 
 
 
【平家物語】
巻 7: 北国下向・竹生島詣・経正都落・青山之沙汰・
一門都落
巻 8: 緒環
巻 9: 知章最期・落足
 
 
 ? 年( ? ) ?月 左馬権頭
1166年(仁安1) 11月 従五位上
1167年(仁安2) 閏7月 淡路守・院昇殿
 ? 年( ? ) ?月 兵衛佐
1176年(安元2) 1月 従四位上・皇太后宮亮
1178年(治承2) 1月 丹後守
1179年(治承3) 1月 正四位下
11月 但馬守
1183年(寿永2) 8. 6 解官(都落ちにより)
1184年(寿永3) 2. 7 一ノ谷の合戦において討死
 
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 平経俊 <たいら・の・つねとし> ( ? −1184)
 
 正三位参議平経盛の子。生年未詳。
 寿永2(1183)年7月、一門の都落ちに、父経盛や経正・敦盛らの兄弟と共に従い、翌寿永3(1184)2月、
一ノ谷の合戦で討死した。
 
 
【平家物語】
巻 7: 一門都落
巻 9: 知章最期・落足
 
 
1169年(仁安4) 2.22 叙爵(従五位下)
1178年(治承2) 1.28 伊賀守
1179年(治承3) 11.19 若狭守
1183年(寿永2) 8. 6 解官(都落)
1184年(寿永3) 2. 7 一ノ谷の合戦において討死
 
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 平敦盛 <たいら・の・あつもり> (1169−1184)
 
 正三位参議平経盛の子。
 従五位下に叙されたが、官職はなかったため、
無官大夫と称された。
 寿永2年(1183)7月の都落ちには、父経盛や兄の経正・経俊らと共に従ったが、翌寿永3年(1184)2月7日、
一ノ谷の合戦で、熊谷直実に討ち取られた。
 笛の名手として知られ、かつて、祖父忠盛が鳥羽上皇より拝領した名笛
「小枝」(さえだ)を伝領したといわれている。
 
 
《はみだし余録》
   “人間五十年〜♪”(織田信長の十八番のアレ!)
 これは、幸若舞『敦盛』の一節ですが、言わずもがな、この平敦盛の悲劇に材をとっています。
 
  
 
 
【平家物語】
巻 7: 一門都落
巻 9: 敦盛最期・落足
 
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* * * これより 清盛甥・教盛子 * * *
 
 
 平通盛 <たいら・の・みちもり> ( ? −1184)
 
 本名は公盛。門脇中納言平教盛の嫡男で、母は勘解由次官藤原資憲の娘。
 1160年(永暦1)蔵人・従五位下。
 以後、中務大輔・常陸介・左兵衛佐・能登守・越前守などを歴任し、1179(治承3)10月には
中宮亮となるなど、平家傍流の子弟にあっては、比較的昇進が早く、1183年(寿永2)に従三位に叙され、世に越前三位と称された。
 
 源平争乱期には、北陸追討の大将軍の一人に名を連ねるが、1183(寿永2)5月に倶利伽羅峠で大敗を喫し、平家凋落の流れを決定づけた。
 一門の西走に同行し、翌1184(寿永3)2月7日、
一ノ谷の合戦において討死。
 『平家物語』では、最愛の妻
小宰相との悲恋がつとに有名。
 
 
【平家物語】
巻 5: 奈良炎上
巻 7: 北国下向・竹生島詣・火討合戦・倶梨伽羅落・
平家山門連署・主上都落・一門都落
巻 9: 六ヶ度軍・老馬・落足
 
 
1160年(平治2) 1.16 蔵人  歳
2.17 叙爵(従五位下)
1164年(長寛2) 1.23 中務大輔  歳
1165年(永万1) 10. 2 常陸介  歳
12.30 従五位上
1166年(仁安1) 10.21 左兵衛佐  歳
1168年(仁安3) 3.15 正五位下  歳
5.13 能登守
8. 4 従四位下
1172年(承安2) 1.19 従四位上  歳
3.29 正四位下
1176年(安元2) 1.20 越前守  歳
1179年(治承3) 10. 9 能登守  歳
10.21 中宮亮
11.18 越前守
1181年(養和1) 8.15 越前守  歳
1183年(寿永2) 2.21 従三位  歳
8. 6 解官(西国に赴くにより)
1184年(寿永3) 2. 7 一ノ谷の合戦にて討死  歳
 
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 平教経 <たいら・の・のりつね> (1160?−1185?)
 
 本名は国盛。門脇中納言平教盛の子。母は勘解由使藤原資憲の娘で、通盛は同母兄。
 治承3年(1179)11月のクーデターにより能登守となり、以後、
能登殿と称される。
 源平争乱期には、木曽義仲の北陸追討に際し副将軍を務め、平家一門の西走にも同行。
 寿永3年(1184)2月の
一ノ谷の合戦において、討ち取られたとの記録もあるが、これは間違いで、翌年の壇ノ浦の合戦において入水したという説が有力。
 『平家物語』によれば、屋島の合戦で源義経の従者佐藤嗣信を射殺し、壇ノ浦の合戦では、敵の大将源義経の首を求めて獅子奮迅の戦ぶりを見せるなど、平家で1・2を争う剛勇の将として描かれている。
 
 
【平家物語】
巻 7: 主上都落・一門都落
巻 8: 水島合戦
巻 9: 六ヶ度軍・老馬・坂落
巻11: 嗣信最期・弓流・能登殿最期
 
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 平業盛 <たいら・の・なりもり> ( ? −1184)
 
 門脇中納言平教盛の子。通盛・教経の弟。生年未詳。
 
「蔵人大夫」と称される。
 寿永3年(1184)2月、一ノ谷の合戦にて討死。
 
 
【平家物語】
巻 7: 一門都落
巻 9: 知章最期・落足・小宰相身投
 
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 平教子 <たいら・の・のりこ> ( ? − ? )
 
 門脇中納言平教盛の娘。生没年未詳。
 播磨内侍の名で、従姉妹にあたる摂政基実室平盛子(清盛娘)に仕え、仁安2年(1167)に従五位下に叙された。
 やがて、藤原範季の妻となり、範茂と重子を儲けた。
 娘の重子が後鳥羽天皇の寵愛を受けて皇子を産み、後に即位して順徳天皇となると、外祖母として従三位に叙された。
 
 
 
 
 
 
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* * * これより 清盛甥・頼盛子 * * *
 
 
 平保盛 <たいら・の・やすもり> ( ? − ? )
 
 池大納言平頼盛の一男。生没年は未詳。
 応保2年(1162)の叙爵以後、右兵衛佐、越前守、尾張守、左衛門佐、中宮亮を歴任。
 寿永2年(1183)の一門都落ちに際しては、京に引き返した父頼盛と行動を共にし、平家滅亡後、本官に還任された。
 承元元年(1209)に従三位、翌承元2年に正三位に叙されたが、建暦元年(1211)に出家した。
 
 
《はみだし余録》
   出家隠棲後の保盛の住まいは、一条京極辺りで、なんと、藤原定家とお隣さんだったとか。 (by明月記)
 
 
 
1163年(応保2) 10. 9 叙位(従五位下)
1163年(長寛1) 1. 24 右兵衛佐・越前守
1165年(永万1) 1. 5 従五位上
1166年(仁安1) 12.20 尾張守
1167年(仁安2) 閏7.12 昇殿
1168年(仁安3) 1.11 正五位下
1170年(嘉応2) 12. 5 左衛門佐
1173年(承安3) 1.21 従四位下
1178年(治承2) 1. 5 従四位上
12.30 中宮亮
1182年(寿永1) 11.23 正四位下
1209年(承元3) 1. 5 従三位
1210年(承元4) 12.17 正三位
1211年(建暦1) 8.14 出家
 
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 平為盛 <たいら・の・ためもり> ( ? −1183)
 
 池大納言平頼盛の子。
 『尊卑分脉』には、
紀伊守・右兵衛佐とある。
 寿永2(1183)年、木曽義仲追討の北陸遠征に従軍するが、同年5月、
倶梨伽羅谷の戦で討死。『源平盛衰記』によれば、義仲の郎党樋口兼光に首を斬られとあり、都落ちに加わらなかった池殿一族では、唯一の犠牲者となった。
 
【源平盛衰記】
巻第29(屋巻): 砥並山合戦の事
 
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 平光盛 <たいら・の・みつもり> (1172−1229)
 
 池大納言平頼盛の子。母は法印寛雅の娘で、八条院女房大納言局。
 安元2年(1176)に5歳で叙爵、養和元年(1181)に正五位下、寿永2年(1183)には讃岐介となるが、同年8月の平家都落ちにより解官された。
 しかし、父頼盛と共に、西国下向には加わらず、また、鎌倉の源頼朝の庇護を受けて、翌元暦元年(1184)に還任され、右少将に任じられた。
 元久2年(1205)に従三位、建暦元年(1211)に正三位となり、
「八条三位」と称された。
 その後、貞応元年(1222)に従二位に昇るが、寛喜元年(1229)1月に、妻の死を機に出家し、同年7月、亡き人の後を追うように薨じた。
 
 
《はみだし余録》
   建保7年(1219)1月27日、鎌倉の鶴丘八幡宮において行われた3代将軍源実朝の任右大臣の拝賀式。
 この時、光盛も扈従していたといわれ、実朝暗殺事件の数少ない目撃者の一人ということになります。
 
 
 
1176年(安元2) 1.30 叙爵(従五位下) 5歳
1178年(治承2) 1.28 従五位上 7歳
1179年(治承3) 1.19 侍従 8歳
1181年(養和1) 4.15 正五位下 10歳
1183年(寿永2) 1.22 讃岐介 12歳
8. 7 解官(平家一門都落ちにより)
1184年(元暦1) 6. 5 還任 13歳
12.20 右少将
1185年(元暦2) 1. 6 従四位下 14歳
6.29 備前守
1187年(文治3) 1.23 復任 16歳
1188年(文治4) 1.24 従四位上 17歳
1191年(建久2) 1. 5 正四位下 20歳
1194年(建久5) 1.30 少将を辞任 23歳
1205年(元久2) 1.29 従三位 34歳
1211年(建暦1) 1. 5 正三位 40歳
1222年(貞応1) 1. 6 従二位 51歳
1129年(安貞3)
    (寛喜1)
1.19 出家 58歳
7.20 死去
 
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