平知信 <たいら・の・とものぶ> ( ? −1144)
 
 桓武平氏高棟王流、春宮亮平経方の子。母は主殿頭藤原雅信女。
 
 文章生を経て、六位蔵人、左衛門権少尉、兵部少輔、中宮大進等を歴任し、長治2年(1105)には検非違使となり、その後、
従四位上兵部大輔に至った。
 
 代々、摂関家の
家司を務める家系にあり、天仁2年(1109)に関白忠実の室 師子の、天永3年(1112)には忠実の政所家司に補され、その子 忠通を含め、摂関家の諸事に奉仕した。
 
 なお、晩年には
出羽守として、任地に赴いている。
 天養元年3月19日卒去。
 子息に、兵部権大輔
時信と、『兵範記』の著者として知られる信範がいる。
 
 
 
【平家物語】
巻12: 平大納言被流(名前のみ)
 
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 平時信 <たいら・の・ときのぶ> ( ? −1149)
 
 生没年未詳。桓武平氏高棟王流で、従四位上兵部大輔知信の一男。
 時子(平清盛室)、時忠(権大納言)、滋子(建春門院)らの父。
 
 摂関家の家司を務める父知信と共に、忠実・忠通父子に仕え、元永元年(1118)の内大臣忠通の婚儀の際には、前駆の一人として扈従している。
 
 正五位下兵部権大輔をもって、久安5年(1149)7月26日に卒したが、その後、娘滋子の生んだ皇子が即位して、高倉天皇となると、外祖父として、
正一位左大臣の号を追贈された。
   
 
 
【平家物語】
巻12: 平大納言被流(名前のみ)
 
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 平信範 <たいら・の・のぶのり> (1112−1187)
 
 桓武平氏高棟王流で、父は従四位上兵部大輔知信、母は藤原惟信女。
 
 保安2年(1121)文章生となり、字は平能といった。
 中宮権少進、蔵人、右少弁を経て、仁安2年(1167)には権右中弁と蔵人頭を兼任。
 
 嘉応元年(1169)12月、比叡山延暦寺と藤原成親との紛争に巻き込まれ、甥の時忠と共に、「奏事不実」の罪により解官となり、備後国へ配流されるが、翌年2月に召喚された。
 
 承安元年(1171)に従三位、同3年(1173)に
兵部卿となり、安元2年(1176)には正三位に叙されるが、翌3年(1177)7月に所労により出家を遂げ、平家滅亡後の文治3年(1187)2月12日、76歳で薨去した。
 
 摂関家の家司として、忠実−忠通−基実−基通に仕える傍ら、鳥羽院・後白河院の院司も勤め、また、二位尼時子や権大納言時忠らの叔父という立場上、平家一門とも親交が深かったことから、彼の著
『兵範記』(我楽多文庫参照)は、保元の乱に始まる激動の時代を克明に伝える、貴重な史料である。  
 
 
 
1121年(保安2) 3.23 文章生 10歳
1125年(天治2) 1.28 能登大掾 14歳
1132年(天承2) 1.22 中宮権少進 21歳
1134年(長承3) 4. 2 蔵人 23歳
1135年(長承4) 3.14 修理亮 24歳
1137年(保延3) 12.16 左兵衛尉 26歳
1138年(保延4) 1.22 左衛門少尉 27歳
1139年(保延5) 1. 5 叙爵(従五位下) 28歳
1.24 甲斐権守
1145年(天養2) 1. 5 従五位上 34歳
1150年(久安6) 1.12 正五位下 39歳
1156年(保元1) 1.28 少納言 45歳
1158年(保元3) 1.27 安芸権守 47歳
1160年(永暦1) 10. 4 補蔵人 49歳
1161年(応保1) 9.15 左京権大夫
(止 蔵人少納言)
50歳
1164年(長寛2) 1.23 備後権守 53歳
1165年(永万1) 8.17 右少弁 54歳
1166年(永万2) 1.12 左京権大夫を辞任
(以男信季申任刑部権大輔)
55歳
1166年(仁安2) 1.30 従四位下・権右中弁 56歳
2.11 蔵人頭
4.10 従四位上
1168年(仁安3) 1. 6 正四位下 57歳
2.19 新帝蔵人頭
1169年(嘉応1) 12.28 解官、備前国へ配流 58歳
1170年(嘉応2) 2. 6 召返 59歳
12. 9 復本位
1171年(嘉応3) 1.18 従三位 60歳
1173年(承安3) 1.21 兵部卿 62歳
1176年(安元2) 3. 6 正三位 65歳
1177年(安元3) 7. 5 出家 66歳
1187年(文治3) 2.12 薨去 76歳

 
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 平時子 <たいら・の・ときこ> (1126−1185)
 
 兵部権大輔平時信の女。母は二条大宮(令子内親王)に仕えた半物(はしたもの)といわれ、時忠(権大納言)は同母弟。
 また、親宗(中納言)と同母(大膳大夫右少将藤原家範女)とする説もある。
 平清盛の後妻となり、宗盛・知盛・重衡・徳子らを生んだ。
 
 永暦元年(1160)12月、二条天皇の典侍御乳母として、八十島祭使を務めて、従三位に叙され、また、仁安元年(1166)10月に、異母妹滋子の生んだ憲仁親王が皇太子となると、従二位に叙された。
 
 しかし、仁安3年(1168)2月11日、夫清盛が大病により危篤に陥ったため、同日揃って出家を遂げ、以後、
二位尼と称し、その居所により、六波羅二位、八条二位とも呼ばれた。
 
 異母妹の建春門院滋子が高倉天皇の生母、また、娘徳子がその妃となり、皇太子を儲けたことから、自ずと、平家一門でも中心的な位置を占め、やがて、孫の安徳天皇が即位すると、外祖母の資格により、清盛と共に
准三宮の宣旨を賜った。
 
 反平家の機運高まる中、養和元年(1181)に夫清盛が病没すると、後を継いだ宗盛を、弟時忠らと後見する立場となったが、衰勢は如何ともし難く、寿永2年(1183)7月、木曽義仲の軍勢に追われ、一門と共に西海へ逃れた。
 
 その後も、一ノ谷・屋島と立て続けに大敗を喫し、元暦2年(1185)3月24日、背水の陣で臨んだ壇ノ浦の合戦に敗れると、安徳天皇を抱いて、入水を遂げた。
 
   
《はみだし余録》
   壇ノ浦での入水シーンは、『平家物語』最大のクライマックス。
 これのおかげで、気丈な肝っ玉母さんの印象ばかりクローズアップされがちですが、一方で、娘徳子の出産時にあられもなく取り乱し、一ノ谷で捕虜となった重衡からの便りには、人目も憚らず号泣するなど、ある種、激情家の一面も垣間見られます。
 
 文官平氏という中流貴族の家に生まれながら、平清盛という当代一の傑物の妻となったがために、この世の極楽と地獄を見た時子。
 しかし、同時に、もしも、時子を妻にしていなければ…、清盛と平家一門の運命もまた、全く違ったものになっていたかもしれません。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 春宮立
巻 3: 御産・大塔建立
巻 4: 厳島御幸・源氏揃
巻 6: 入道死去
巻 8: 山門御幸
巻10: 請文・三日平氏
巻11: 逆櫓・勝浦 付大坂越・先帝身投
 
 
1160年(永暦1) 12.15 八十島祭使を務める 35歳
12.24 従三位
1166年(仁安1) 10.21 従二位 41歳
1168年(仁安3) 2.11 出家 43歳
1180年(治承4) 6.10 准三宮の宣旨 55歳
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦において入水 60歳
 
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 平時忠 <たいら・の・ときただ> (1130−1189)
 
 兵部権大輔平時信の一男。母は二条大宮(令子内親王)に仕えた半物(はしたもの)といわれ、時子(清盛室)は同母の姉弟。
 また、親宗(中納言)と同母(大膳大夫右少将藤原家範女)とする説もある。
 
 久安2年(1146)非蔵人に始まり、蔵人、大学助、左兵衛尉、左衛門尉と進み、保元・平治の乱後、義兄の清盛が躍進を遂げるのに追随するように、兵部大輔、刑部大輔、右衛門権佐、右少弁を歴任し、さらに、異母妹の滋子が後白河院の寵を蒙るという幸運もあって、左少弁、右中弁、蔵人頭を経て、仁安2年(1167)には、
参議・右兵衛督を兼任して、従三位に叙された。
 
 が、その一方で、応保元年(1161)には、滋子の生んだ憲仁親王を皇太子に擁立しようとして、二条天皇の怒りを買い解官されたのを始め、翌応保2年(1162)には二条天皇を呪詛したとして、出雲国へ配流。
 また、嘉応元年(1169)には、比叡山延暦寺と
藤原成親の紛争に巻き込まれて、再び、出雲国へ配流されるなど、再三にわたり、失脚しながら、その度ごとに、清盛や滋子の助力もあって、見事に政界復帰を果たした。
 
 その後も、平家一門の隆盛と共に、時忠も目覚しい昇進を遂げ、仁安3年(1173)に右衛門督・正三位権中納言、承安4(1174)従二位、治承3年(1179)正二位と昇叙して、寿永2年(1183)には
権大納言となった。
 
 清盛の死後は、平家の参謀格として甥の宗盛の補佐に当たり、一門の西走にも従うが、その際、朝廷は神器返還交渉の窓口とするべく、時忠の解官を遅らせている。
 
 元暦2年(1185)3月、壇ノ浦で生虜となり帰京すると、神鏡を保持した功を主張し、また、堂上公家であるにより、死一等は減じられ、能登国配流と決した。
 しかし、その後も
源義経を娘婿に迎えるなどして、京に留まり続け、9月になって、頼朝の強請により、ようやく能登へ赴き、4年後の文治5年(1189)2月24日、帰京の叶わぬまま、配所にて没した。
 
   
《はみだし余録》
   「此一門にあらざらむ者は皆人非人たるべし」
 かの有名な迷言を吐いた「
平関白」こと時忠。
 
 実は、この方、京中の軍事・警察権を掌握する検非違使別当に、3度も任じられたというツワモノ(恐らく、禿髪の少年達も、この時忠の配下)。
 
 とりわけ、治承5年(1181)には、強盗12人の右手を斬り落として獄門に懸け、「悪別当」の異名をとったとか。
 
 他にも、和睦交渉のため、屋島にやってきた朝廷の使者「
花方」の顔に、「浪方」の焼印を押してみたりと、文官貴族の出と言いながら、その性格は豪胆というか、過激さは武門以上。
 
 あるいは、この時忠の暴走が、平家を栄華の絶頂へと押し上げ、また、奈落の底まで突き落としたのかもしれません。
  
 
 
【平家物語】
巻 1: 禿髪・春宮立・内裏炎上
巻 3: 公卿揃
巻 4: 厳島御幸
巻 5: 都遷
巻 7: 主上都落・一門都落
巻 8: 名虎・大宰府落・法住寺合戦
巻10: 請文
巻11: 能登殿最期・内侍所都入・一門大路渡・文之沙汰
巻12: 平大納言被流
 
 
1146年(久安2) 3.16 非蔵人 17歳
1147年(久安3) 1. 7 補蔵人 18歳
4.11 大学助
11.14 左兵衛尉
12.21 左衛門尉
1149年(久安5) 4. 1 叙爵(従五位下) 20歳
1157年(保元2) 9. 9 兵部権大輔 28歳
1158年(保元3) 11.26 従五位上 29歳
1159年(平治1) 閏5.2 刑部大輔 30歳
1160年(永暦1) 4. 3 右衛門権佐 31歳
10. 3 右少弁
1161年(永暦2)
    (応保1)
4. 1 正五位下 32歳
9.15 解官
1162年(応保2) 6.23 出雲国へ配流 33歳
1165年(永万1) 9.14 召返 36歳
1166年(永万2)
 
 
 
 
    (仁安1)
 
 
3.27 復本位 37歳
4. 6 左少弁
6. 6 右中弁・左衛門権佐
6.19 補蔵人
8.27 従四位下
11. 3 従四位上
11.16 蔵人頭
1167年(仁安2) 1. 5 正四位下 38歳
1.30 右大弁
2.11 参議・右兵衛督
12.13 止位記
12.16 従三位
1168年(仁安3) 1.11 能登権守 39歳
2.17 従三位
7. 3 右衛門督・検非違使別当
8. 4 正三位
8.10 権中納言
1169年(嘉応1) 12.28 解却見任、出雲国へ配流 40歳
1170年(嘉応2) 2. 6 召返(未到配所) 41歳
12. 8 復本位
1171年(嘉応3) 4.21 権中納言に還任 42歳
1172年(承安2) 2.10 中宮権大夫 43歳
1174年(承安4) 1.11 従二位 45歳
1175年(安元1) 11.12 右衛門督 46歳
1176年(安元2) 12. 8 検非違使別当を辞任 47歳
1177年(安元3) 1.24 左衛門督 48歳
1179年(治承3) 1. 7 正二位 50歳
10. 9 検非違使別当に更任
1180年(治承4) 2.25 新院別当 51歳
1181年(養和1) 11.25 止 中宮大夫(院号宣下により) 52歳
1182年(寿永1) 10. 3 中納言に転ずる 53歳
1183年(寿永2) 1.22 権大納言 54歳
8.16 解官(西国に赴くにより)
1185年(文治1) 3.24 壇ノ浦にて捕虜となる 56歳
5.20 能登国へ配流の沙汰
9.23 配所の能登へ下向
1189年(文治5) 2.24 能登国配所にて薨去 60歳
 
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 平滋子 <たいら・の・しげこ> (1142−1176)
 
 兵部権大輔平時信の女。母は権中納言藤原顕頼女祐子で、時子(清盛室)・時忠の異母妹。
 
 
小弁の侍名で上西門院に仕えていた折に、その同母弟の後白河上皇の寵を受け、応保元年(1161)9月に皇子憲仁を生み、東御方と呼ばれた。
 
 仁安元年(1166)10月に従三位に叙され、翌2年1月に、皇太子の生母の資格により女御となり、仁安3年(1168)2月に
高倉天皇の践祚が成ると、3月に皇太后の尊号を贈られ、翌嘉応元年(1169)4月に建春門院の院号宣下があって、女院に列せられた。
 
 後白河上皇最愛の女性として知られ、法住寺殿での王朝絵巻さながらの華麗な生活は、彼女に仕えた女房中納言(藤原定家の姉)の記した『
たまきはる』(建春門院中納言日記)に詳しい。
 
 安元2年(1176)3月の後白河院五十の賀の後、まもなく病床に伏し、6月には平癒を願い院号を辞して、年官年爵も返上したが、7月8日、最勝光院南御所において崩じた。享年35歳。
 
 
《はみだし余録》
   平家の栄華を演出した最大の功労者。この滋子なくして、一門の隆盛はありえなかったでしょう。
 
 後白河法皇の寵愛は、他の妃とは比べようもなく、日吉社や福原、厳島神社などへの御幸(お出かけ)に同伴したのも、もっぱら、滋子のみでした。
 また、法皇五十の賀の直後には、有馬温泉へ湯治に出かけており、これは、恐らく、その頃から既に、身体の不調を訴えていたであろう滋子を療養させようとの、法皇の心遣いだったのでしょう。
 
 
「日本第一の大天狗」とあだ名された法皇の、唯一の泣き所が、この建春門院滋子だったのかもしれません。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 春宮立・鹿谷
巻 4: 厳島御幸・源氏揃
巻 6: 小督
巻10: 熊野参詣(名前のみ)
 
 
1161年(応保1) 9. 3 後白河院の皇子憲仁を出産 20歳
1165年(永万1) 12.26 憲仁に親王宣下 24歳
1166年(仁安1) 10.10 憲仁親王立太子 25歳
10.21 従三位
1167年(仁安2) 1. 2 女御 26歳
1168年(仁安3) 2.19 憲仁親王受禅(高倉天皇) 27歳
3.20 皇太后
1169年(嘉応1) 4.12 建春門院の院号宣下 28歳
1176年(安元2) 7. 8 崩御 35歳

 
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 平親宗 <たいら・の・ちかむね> (1144−1199)
 
 兵部権大輔平時信の子。母は大膳大夫藤原家範女で、時子(清盛室)・時忠の同母弟といわれる。
 
 永暦元年(1160)に叙爵、以後、伯耆・讃岐守を歴任。その一方で、承安2年(1172)に右中弁に補されてからは、弁官としても活躍し、
蔵人頭を経て、寿永2年(1183)に参議となった。
 
 姉の時子が清盛の正妻にもかかわらず、後白河院に近侍して、院の皇子承仁法親王の養育にもあたるなど、平家一門とは、常に一線を画す態度を示し、治承3年(1179)11月の清盛のクーデターにおいて、他の院近臣と共に解官の処分を受け、また、翌治承4年(1180)の福原遷都の際も、京に留まった。
 
 その後、義経と頼朝の不和の余波により、元暦2年(1185)2月に解官となるが、文治3年(1187)1月に還任して、左大弁、丹波権守、伊予権守などを歴任し、やがて、
正二位中納言に昇った。
 
 和歌や漢詩文に堪能で、『千載集』に8首入集した他、家集に『中納言親宗集』がある。  
 
 
【平家物語】
巻11: 一門大路渡
 
 
1160年(永暦1) 9.27 補蔵人 17歳
10.22 叙爵(従五位下)
1166年(永万2) 4. 6 兵部権少輔 23歳
1167年(仁安2) 1.28 従五位上 24歳
2. 7 伯耆守
1168年(仁安3) 3.20 皇太后宮権大進 25歳
8. 4 正五位下
9. 4 兵部権少輔を辞任
1169年(仁安4)
    (嘉応1)
1.21 伯耆守停任 26歳
3.16 勘解由次官
1170年(嘉応2) 1.26 讃岐守 27歳
7.26 補蔵人
1172年(承安2) 2.23 右少弁 29歳
1173年(承安3) 8.18 右衛門権佐・検非違使を兼任 30歳
1175年(安元1) 12. 8 従四位下・権右中弁 32歳
1178年(治承2) 1. 5 従四位上 35歳
1179年(治承3) 10. 9 右中弁に転ずる 36歳
10.21 修理右宮城使
11.17 解却
1181年(養和1) 9.23 左中弁 38歳
12. 4 右大弁・蔵人頭
1182年(養和2) 3. 8 正四位下 39歳
1183年(寿永2) 1.22 参議 40歳
12.28 解却
1184年(寿永3)
    (元暦1)
3.27 従三位 41歳
9.18 参議へ還任
1185年(元暦2)
    (文治1)
1.20 讃岐権守 42歳
2.29 解官
1187年(文治3) 1.23 還任 44歳
5. 4 左大弁
1188年(文治4) 1.23 丹波権守を兼任 45歳
1189年(文治5) 1. 5 正三位 46歳
1.18 伊予権守
7.10 権中納言
1194年(建久5) 1. 6 従二位 51歳
1198年(建久9) 9.12 大嘗会御禊装束司長官 55歳
10.16 被止 長官(興福寺大衆の訴えにより)
1199年(建久10)
    (正治1)
 
1. 5 正二位 56歳
6.22 正中納言に転ずる
7.17 薨去(明月記では27日)
 
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 平清子 <たいら・の・きよこ> (1146−1178)
 
 兵部権大輔平時信の女。時子(清盛室)・時忠らの妹。
 平清盛の三男平宗盛の先妻。
 
 仁安元年(1166)頃に、憲仁親王(後の高倉天皇)の乳母となり、同年4月6日に従五位上に叙され、同23日の賀茂祭では勅使を務め、12月4日には正五位下に昇叙。
 
 承安元年(1171)に嫡男
清宗を生み、その後、治承2(1178)年に再び懐妊し、同年に誕生予定の中宮徳子の皇子の乳母に内定していたものの、出産直後の7月16日に33歳で急逝した。
   
 
 
【平家物語】
巻11: 副将被斬
 
 
1166年(仁安1) 4. 6 従五位上 21歳
4.23 賀茂祭の勅使を務める
12. 4 正五位下
1170年(嘉応2)   宗盛の嫡男清宗を出産 25歳
1178年(治承2) 7.16 死去 33歳
 
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 平信国 <たいら・の・のぶくに> (1139−1180)
 
 兵部卿平信範の子。生年未詳。
 
 治承3年(1179)6月に弟信季が早世したため、その後を襲って
少納言に補任されたが、翌4年4月22日に42歳で逝去した。
 
 なお、信国の子時兼は、従兄弟にあたる
平時忠の猶子となっている。
   
 
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 平信季 <たいら・の・のぶすえ> ( ? −1179)
 
 兵部卿平信範の二男。生年未詳。
 
 摂関家別当の父信範の縁により、信季も関白基実家の勾当を務め、永暦元年12月には蔵人となり、さらに、少納言にも在任したが、治承3年(1179)6月に早世した。
 なお、信季の後を襲って少納言となった兄の信国も、翌治承4年4月に42歳で逝去している。
 
 信季の遺児親輔は、平家滅亡後の文治年間頃に、弟信基の猶子となり、その後裔は、
西洞院家・平松家・交野家などとして栄えた。
   
 
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 平信基 <たいら・の・のぶもと> ( ? − ? )
 
 生没年未詳。兵部卿平信範の子で、母は民部少輔藤原能忠女。
 二位尼時子、権大納言時忠らの従兄弟。
 
 左衛門佐、左馬権頭、修理権大夫を歴任した後、寿永2年(1183)に、
正四位下内蔵頭に任じられた。
 
 摂関家累代の家司の家系により、摂政藤原基通の側近となり、平家一門の都落ちに際して、一度はその列に加わりながら、途中で引き返した基通に、西国下向の再考を求めるが、ついに聞き入れられず、やむなく、単独で平家の後を追った。
 
 元暦2年(1185)3月、壇ノ浦の合戦において生け捕られたが、その際に負傷したため、都大路を引き回されることはなく、裏道を通って入京。
 その後、備後国へ配流となるが、文治5年(1189)閏4月に京へ召喚され、以後、左女牛小路南、東洞院大路西の第宅に蟄居した。
 
 
【平家物語】
巻 7: 主上都落・一門都落
巻 8: 名虎
巻11: 内侍所都入・一門大路渡
巻12: 平大納言被流
 
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 平信子 <たいら・の・のぶこ> ( ? − ? )
 
 兵部卿平信範の娘。
 父信範が、摂関家の別当の職にあり、また、摂政基実の乳母夫でもあった関係から、基実の嫡男
基通の妾妻となり、元暦元年(1184)年、基通の子道経を生んだ。
 
 また、始め建春門院に
小宰相の候名で仕え、その後、建礼門院の内侍も務めたが、寿永2年(1183)7月の平家都落ちの際には、懐妊中のためか、あるいは、正妻の平完子(清盛の娘)を憚ってか、西下せず、京に留まったらしい。
 
 以後の消息は未詳。
   
 
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 平親輔 <たいら・の・ちかすけ> ( ? − ? )
 
 内蔵頭平信基の猶子。生没年未詳。
 実父は、信基の兄 刑部権大輔
平信季だが、治承3年(1179)6月に早世した。
 
 平家一門と共に西下した叔父信基の帰京後に、その
猶子となり、弁官を経た後、治部卿・蔵人頭に補任され、位階も従三位に昇った。
 
 なお、この親輔の後裔が、
西洞院家・平松家・交野家などとして栄えた。
   
 
 
1177年(安元3) 1.24 左近将監
?  一院(後白河)判官代
1183年(寿永2) 1. 7 蔵人
9.22 叙爵(従五位下)
1184年(元暦1) 10. 6 兵部少輔
1187年(文治3) 1. 5 従五位上
5. 2 復任
1189年(文治5) 1.18 長門介
1190年(建久1) 10.26 正五位下
1200年(正治2) 1. 1 勘解由次官
1203年(建仁3) 1.13 越後権介
1206年(建永1) 10.20 蔵人
10.22 許禁色
1207年(承元1) 10.29 右少弁(止蔵人)
1208年(承元2) 11. 2 左少弁
1209年(承元3) 1.13 右中弁
1.17 従四位下
4.14 左中弁
4.21 装束使
4.27 左宮城使
1210年(承元4) 1.14 伊予権守
8.22 従四位上
9. 8 右大弁
1211年(建暦1) 1.18 左大弁
10.12 治部卿・蔵人頭
1212年(建暦2) 1. 5 正四位下
5.21 従三位
1215年(建保3) 12.22 出家
 
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 平時実 <たいら・の・ときざね> (1151−1213)
 
 権大納言平時信の一男。
 仁安元年(1166)に叙爵され、以後、越後守・讃岐守・左近衛少将を経て、寿永2年(1183)4月には、正四位下近衛中将となり、
讃岐中将と称されるが、同年7月、平家都落ちに随行して、解官された。
 
 元暦2年(1185)3月、壇ノ浦において、父時忠らと共に生け捕りにされ、周防国への流罪と決するが、
源義経を姉妹の婿に迎えるなどして接近を図り、配所へ赴こうとはしなかった。
 
 しかし、鎌倉の頼朝との対立が決定的となり、京を退去することになった義経に同行するが、大物浦で予期せぬ逆風により遭難し、義経らとはぐれると、再び京に戻り、潜伏していた所を捕えられ、鎌倉に護送された後、上総国へ配流となった。
 
 その後、文治5年(1189)に赦免されて帰京し、建暦元年(1211)7月には、従三位に昇叙され、建暦3年(1213)1月に63歳で薨じた。
 
   
《はみだし余録》
   『源平盛衰記』では「心猛き人」と評され、平家滅亡後も、様々な策略をめぐらし、鎌倉への抵抗を試み続けた時実。
 彼は、兄弟の中でも、とりわけ、「
悪別当」と恐れられた父時忠の遺伝子を、強く受け継いでいたのでしょう。
 
 そして、時忠の智謀が、結果的に、平家を滅亡に追い遣ったように、この時実の野望が、英雄義経を破滅へと誘う、その引き金を引いたのかもしれません。
 
 
 
【平家物語】
巻 7: 主上都落・一門都落
巻 8: 名虎
巻11: 内侍所都入・一門大路渡・文之沙汰
巻12: 平大納言被流
 
 
1166年(仁安1) 8.27 叙爵(従五位下)・越後守 16歳
1168年(仁安3) 8. 4 従五位上 18歳
1169年(嘉応1) 4.28 正五位下 19歳
12.30 解任
1170年(嘉応2) 7.26 讃岐守 20歳
1172年(承安2) 1.23 左近衛少将 22歳
1173年(承安3) 1. 5 従四位下 23歳
1175年(安元2) 12. 5 従四位上 25歳
1182年(養和2) 3.28 正四位下 32歳
1183年(寿永2) 4. 9 近衛中将 33歳
8. 7 解官(西国へ赴くにより)
1185年(元暦2) 5.20 周防国配流(配所へ赴かず) 35歳
1186年(文治2) 5.20 上総国へ配流 35歳
1189年(文治5) 閏4.15 帰京 39歳
1211年(建暦1) 7.28 従三位 61歳
1213年(建暦3) 1.28 薨去 63歳
 
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 平時家 <たいら・の・ときいえ> ( ? −1193)
 
 権大納言平時忠の二男。後に信時と改名(時信とも)。
 蔵人大学助、美作守、伯耆守を歴任し、また、
従四位下・右近衛権少将を兼任した。
 
 平家滅亡以前に、継母の領子
(帥典侍)の讒言により上総国に配流となるが、千葉広常の知遇を得て婿となり、その推挙により、寿永元年(1182)に源頼朝の側近となった。
 
 なお、建久4年(1193)5月、鎌倉で卒去したとされる「前少将従四位下平朝臣信時」は、この時家のことを指すものとみられる。
   
 
 
【平家物語】
巻12: 平大納言被流
 
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 平時宗 <たいら・の・ときむね> (1172− ? )
 
 権大納言平時忠の子で、母は藤原領子(帥典侍)といわれる。
 
 散見する記録によれば、治承3年(1179)3月に従五位上に叙され、同年10月に侍従、さらに11月には尾張守に任じられ、これにより「
尾張侍従」と称された。
 
 以後の動静は不明。
   
 
 
1179年(治承3) 3.11 従五位上 8歳
10. 9 侍従
11.18 尾張守
 
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 平時定 <たいら・の・ときさだ> ( ? − ? )
 
 生没年未詳。権大納言平時忠の子。
 治承2年(1178)1月、従五位下に叙されたが、以後の動静は不明。
 早世した可能性が高い。
 
 
 
 
 
 
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 平某女〔藤原忠親室〕 ( ? −1201)
 
 権大納言平時忠の娘。
 内大臣藤原(中山)
忠親の妻となり、兼季(1179年生)、忠明(1183生)を生んだ。
 建仁元年(1201)に死去。
 
 
 
 
 
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 平某女〔源義経妾〕 ( ? − ? )
 
 権大納言平時忠の娘。母は後妻の藤原領子(帥典侍)ではなく、先妻腹、つまり、時実らと同腹と推測される。
 
 壇ノ浦で押収された機密文書(中身は不明)を奪回するべく、父時忠や兄時実の策略により、
源義経の妻となった。
 『平家物語』によれば、件の密書は、無事時忠の手に戻り、焼き捨てられたといわれる。
 
 なお、義経が京を退去して後の、この娘の消息は不明。
 
《はみだし余録》
   女に弱い義経の性格をついた秘策。
 始め、後妻(領子)腹の妹姫(18歳とも、17歳とも)をと、時実が進言した所、時忠はその姫ではなく、先妻腹の姉姫(23歳とも、21歳とも、また28歳とも)に白羽の矢を立てたとか。
 
 そもそも、後妻の領子は、先妻腹の子女を冷遇し、二男の時家などは、彼女の讒奏により、解官の憂き目を見たといわれています。
 しかし、我が子の大事にも関わらず、時忠がそれを黙認したところを見ると、「悪別当」の異名をとった彼も、妻の領子には、よほど、頭が上がらなかったのでしょう。
 
 義経の婿取りの話も、妹姫では、領子が了承するはずはなく、時忠もその辺りのことを踏まえて、姉姫に代えたのでしょうが、実際、時実の方も、不可能なのは承知の上で、継母への牽制の意味を込めて、あえて「異母妹を」と進言したのかもしれません。
 
 
 
【平家物語】
巻11: 文之沙汰
 
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 平親国 <たいら・の・ちかくに> (1165−1208)
 
 中納言平親宗の子。初名は範国
 
 嘉応2年(1170)に従五位下・伊賀守に叙任され、以後、阿波守・加賀守などを歴任し、治承3年(1179)11月、清盛のクーデターにより、父親宗らと共に解官されるが、養和元年(1181)11月に治部大輔、翌年11月に勘解由次官を経て、建久元年(1190)に蔵人に補された。
 
 それ以後は、右少弁・皇后宮大進・左少弁・右中弁と進んで、元久元年(1204)4月に
皇后宮亮・蔵人頭に補された。
 
 また、建永元年(1206)10月には
従三位に昇ったが、官職は与えられることなく、散位のまま、承元2年(1208)1月7日、44歳で薨じた。
 
 平維盛の娘(夜叉御前)の再婚相手としても知られる。
   
 
 
《はみだし余録》
   皇后宮亮・蔵人頭に任じられた元久元年(1204)。
 この年、不和になった弟親長を、虚言により追い落とし、また、平維盛の娘を妻に迎えたのも、ちょうど、この頃だったといわれています。
 はてさて、これら三件には、因果関係がありや、なしや…。
 
 
 
1170年(嘉応2) 12.29 叙爵(従五位下)・伊賀守 6歳
1171年(嘉応3) 1.18 阿波守に遷任 7歳
1176年(安元2) 12. 5 従五位上 12歳
1177年(治承1) 6.28 加賀守 13歳
1179年(治承3) 11.17 解官 15歳
1181年(養和1) 10.28 治部大輔 17歳
1182年(寿永1) 12. 7 勘解由次官 18歳
1183年(寿永2) 1. 5 正五位下 19歳
1190年(文治6) 1.24 補蔵人 26歳
1195年(建久6) 11.12 権右少弁 31歳
12. 9 正右少弁に転ずる
1198年(建久9) 3. 5 皇后宮大進 34歳
12. 9 左少弁
1201年(建仁1) 8.19 右中弁 37歳
12.22 従四位下
1202年(建仁2) 閏10.24 修理右宮城使を兼任 38歳
1204年(元久1) 1. 5 正四位下 40歳
4.12 皇后宮亮・蔵人頭
1206年(建永1) 10.20 従三位 42歳
1208年(承元2) 1. 7 薨去 44歳
 
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 平親長 <たいら・の・ちかなが> ( ? − ? )
 
 生没年未詳。中納言平親宗の子で、母は僧某の女。
 初名は
親季で、建久元年(1190)に親長と改めた。
 
 安元2年(1176)叙爵、平家西走直後の寿永2年(1183)8月に越中守となるが、同年11月に法住寺合戦が起こると解官され、翌元暦元年3月に還任した。
 その後、上総介、治部権大輔、右衛門権佐、左衛門佐を歴任するが、元久元年(1204)に兄親国と不和となり、虚言により、再び解官された。
 
 親国の死後に還任してからは、木工頭、中宮大進、弁官を経て、安貞2年(1228)に蔵人頭・治部卿となり、寛喜2年(1230)に従三位、貞永元年(1232)には正三位に昇り、翌天福元年(1233)5月に出家した。法名真智。
   
 
1176年(安元2) 2.18 叙爵(従五位下)《名字親季》
1183年(寿永2) 8.16 越中守
11.28 解官
1184年(寿永3) 3.17 還任
1185年(文治1) 12.29 止 越中守
1190年(文治6) 1.24 上総介《親長に改名》
1193年(建久4) 8.25 治部権大輔
1194年(建久5) 1. 6 正五位下
1199年(建久10) 1.23 右衛門権佐
1201年(建仁1) 8.19 左衛門佐
1204年(元久1) ?  解官
1211年(建暦1) 9. 8 木工頭
1212年(建暦2) 1. 7 従四位下
7. 9 止位記
1219年(承久1) 9.20 中宮大進
1221年(承久3) 8.29 蔵人
1222年(貞応1) 4.13 右少弁
12.21 左少弁
1224年(元仁1) 2.29 従四位下
10.16 権右中弁
1125年(嘉禄1) 7. 6 正右中弁に転ずる
12.22 左中弁
1126年(嘉禄2) 7. 5 従四位上
7.27 左宮城使
1228年(安貞2) 1.5 正四位下
10. 4 蔵人頭
10.21 治部卿
1230年(寛喜2) 閏1.4 従三位
1232年(寛喜4) 1.10 正三位
1233年(天福1) 5.24 出家
 
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 平某女〔平維盛室〕 ( ? −1184)
 
 中納言平親宗の娘。
 新中納言の候名で建春門院に仕え、平維盛の妾となる。
 元暦元年(1184)、維盛の入水死を知って、悲痛のあまり憂死したと伝えられる。
 
   
《はみだし余録》
   二位尼時子の姪にあたるこの女性が、どういう経緯で、愛妻家で知られる維盛の妾となったのか…。
 
 平家には疫病神?ともいうべき藤原成親の娘が、嫡流の維盛の正妻であることを憂慮した時子・時忠姉弟の差し金によるものか、はたまた、成親失脚により、その後釜を狙う父親宗、さらにはその主君後白河院の意図したことか…。
 
 しかし、周囲の思惑はどうであれ、憂死するほど、この人もまた、維盛のことを心底愛していたのでしょうね。
 
 
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