源為義 <みなもと・の・ためよし> (1096−1156)
 
 六条判官、陸奥判官と号する。
 永長元年(1096)、八幡太郎義家の次男源義親の四男として生まれ、父義親が西国に国守として対馬に下ったため、祖父義家に引き取られ養育されていたが、康和元年(1099)に、義親が謀反を起こし(康和の乱)朝敵となったことから、義家の強い意向により、為義は家督を継ぐことになった義家の四男義忠の養子となる。
 天仁2(1109)年2月7日、養父義忠が暗殺され、14歳で源家嫡流を継承すると、直ちに義忠暗殺の首謀者と見なされた義家の次弟義綱を追討、その功により、
左衛門尉に任じられた。
 
 その後も、強訴のために京に乱入してきた僧兵を追い返したり、市中を荒らし回る群盗を追捕したりと、京の治安維持に努めたが、それに対する恩賞が得られぬばかりか、一時は、左衛門尉の職すらも解かれ、無官の日々を過ごしている。
 
 父祖以来、藤原摂関家に臣従する習いに沿って、忠実・頼長父子に仕え、頼長が氏長者となると、その引き立てもあって、久安2(1146)年1月、左衛門大尉に還仁、さらに、検非違使にも任じられ、家勢挽回の機がめぐって来たようにも思われたが、それも、頼長の失脚と共に途絶え、のみならず、皇室及び摂関家の内部抗争にも、否応なく巻き込まれることとなる。
 
 保元の乱では、頼長の強い要請により、離反した嫡子義朝を除く一族総出で、崇徳上皇方の麾下に入るが、あえなく敗北して、一旦は東国への逃亡を図るも、結局、天皇方に参じた義朝を頼り投降する。しかし、義朝の助命嘆願も聞き入られず、京の船岡山で斬首された。
 
 
【平家物語】※いずれも名前のみ登場
巻 1: 二代后
巻 4: 源氏揃
巻 6: 廻文
巻 9: 六ヶ度軍
巻10: 首渡
 
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* * * これより 為義 子息 * * *
 
 
 
 源義朝 <みなもと・の・よしとも> (1123−1160)
 
 源為義の長子。母は藤原忠清女。
 幼少の頃より関東で育ち、
上総曹司とも呼ばれた。
 
 父祖の代からの鎌倉に拠点を置き、衰勢著しい源家の権威を回復するべく、在地領主の対立にも積極的に介入し、紛争を通じて上総・千葉・大庭などの有力豪族を麾下に収め、関東武士団を組織化。後に、挙兵した頼朝の軍に参陣する者も多く含まれ、その意味では、この時既に、鎌倉幕府の基礎が固められていたともいえる。
 
 久安元(1145)年頃、満を持して上洛した義朝は、摂関家に常に追随する父為義に対し、治天の君鳥羽法皇に仕え、右兵衛尉、左馬允、左衛門少尉、兵部少輔等を歴任し、仁平3(1153)年頃には、従五位上
下野守に任じられている。
 しかし、京育ちの異母弟達とは反りが合わず、とりわけ、次弟義賢と三弟義広(義範)は、義朝の上洛と入れ替わるように東国へ下り、義賢が上野・武蔵、義広が常陸に本拠を置いて、義朝の勢力圏に北と東から迫る勢いを見せ、これを危惧した義朝の長子悪源太義平が義賢を急襲・殺害するに至っている。
 
 やがて、保元の乱(1156)を迎え、父為義や他の兄弟と袂を分かち天皇方に就いた義朝は、夜襲により崇徳上皇方を撃退、その功により右馬権頭に任じられるが、投降した為義の助命は聞き入れられず、5人の弟共々、自らの手で斬罪に処すこととなり、ここに、源氏は一族相剋の果てに、大きな打撃を受けることとなった。
 
 乱後、義朝は
左馬頭まで昇進したものの、一方で、播磨守・太宰大弐とそれを上回る累進を見せる平清盛に大きく水をあけられ、その処遇の影に、後白河院の近臣信西の策謀を見てとるや、この反対勢力の藤原信頼と手を結び、平治元(1159)年12月、熊野参詣に出た清盛の留守を狙い挙兵。
 
 二条天皇を手中に収め、信西を討ち取り、従四位下播磨守となるが、急ぎ熊野より帰洛した清盛の策略により、二条天皇を奪回され、東国からの援軍も未着のまま、六条河原の合戦で大敗を喫する。
 
 再起を図るべく東国へ敗走した義朝は、近江・美濃を経て、従者鎌田正清の舅長田忠致が領する尾張国野間内海荘に至るが、忠致・景致父子の姦計により、正清共々謀殺された。
   
【平家物語】※いずれも名前のみ登場
巻 1: 二代后
巻 2: 教訓状
巻 4: 源氏揃・大衆揃
巻 5: 文覚荒行
巻10: 首渡・請文
巻11: 大臣殿被斬・紺掻之沙汰
 
 
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 源義賢 <みなもと・の・よしかた> (1126−1155)
 
 源為義の二男で、義朝の異母弟。母は六条大夫重俊女。
 体仁親王(近衛天皇)の立太子に際し、その護衛に当たる授刀舎人の長(帯刀先生)に補されたことから、
帯刀先生義賢と称した。
 
 異母兄義朝が長く東国にあったため、生まれも育ちも京の義賢が、事実上、為義の嫡子と見なされていた節があり、現に、時の内大臣藤原頼長も自らのいくつかの荘園の管理をこの義賢に委ねていたとの記録がある。
 
 従って、東国を制覇した義朝が意気揚々と上洛し、任官昇進の面でも自分を追い越して行くにつれ、不満を募らせ、源家の棟梁の座を賭けての戦いを挑むべく、武力を蓄えようと三弟義広と共に東国へ下向。
 
 上野国を拠点に北関東をおさえる一方、武蔵国の豪族秩父重隆の養君に迎えられ、次第に南下。相模国鎌倉を拠点とする義朝の勢力圏との競合は避けられず、これを警戒した義朝の子義平は、久寿2年8月16日、武蔵国比企郡大倉館を奇襲。義賢は重隆と共に討ち取られた。
 
 なお、朝日将軍 木曽義仲、源頼政の猶子 仲家は、ともに義賢の実子。
 
 
 
【平家物語】※いずれも名前のみ登場
巻 4: 源氏揃
巻 6: 廻文
 
 
 
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 源義広 <みなもと・の・よしひろ> ( ? −1184)
 
 源為義の三男で、本名は義範(義憲、義教とも)。
 
 次兄義賢と同様、帯刀先生に補されたが、長兄義朝と対立して、義賢と共に東国へ下向。
 上野から武蔵国へと進出した義賢に対し、義広は常陸国信太に本拠を置き、次第に勢力を拡大。
 仁平元(1151)年12月に、その自領が美福門院領(後に八条院領に)信太荘として認知されると、やがて、その預所に補され、
信太(志太)三郎先生と称した。なお、この立荘に際しては、当時常陸介の職にあった平頼盛が仲介に立ったものと目されている。
 
 しかし、義賢・義範兄弟の行動は、鎌倉に本拠を置く義朝の子義平の強い警戒を招くことともなり、久寿2(1155)年8月に、兄義賢が武蔵大蔵館で討たれると、その勢威に恐れをなしてか、義広は信太荘から動かず、保元の乱・平治の乱の際にも、なりを潜め続けていた。
 
 その後、治承4(1180)年11月に、佐竹征伐のため甥の頼朝が常陸に侵攻して来ると、弟十郎行家と共に本陣が置かれた常陸国府に赴き、頼朝と対面し、その麾下に入ったが、寿永2(1183)年2月、鎌倉攻撃の兵を挙げ、三万余騎を率い、下野国へ進出。野木宮で小山朝政と合戦に及び、これに敗れた義広は、信太荘も頼朝に没収され、やがて、木曽義仲の軍に身を投じる。
 
 しかし、その義仲も寿永3(1184)年1月に近江粟津で討たれ、辛くも逃れた義広は、同年5月に伊勢羽取山で再度の挙兵を図るが、多勢に無勢で、遂に討ち取られた。
 
 
《はみだし余録》
   伊勢羽取山で最期を遂げた義広。その首を捕ったのは、服部平六時定という元平家方の将ですが、彼の子孫は、何と、服部忍者なのだとか。
  
 
 
【平家物語】
巻 4: 源氏揃
巻 9: 生ずきの沙汰
巻12: 判官都落・泊瀬六代
 
 
 
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 源頼賢 <みなもと・の・よりかた> ( ? −1156)
 
 源為義の四男で、義朝の異母弟。四郎左衛門とも。
 
 左衛門尉に補されていたが、興福寺衆徒・春日社神人の乱入に際し、これに相対したため、久寿2(1155)年5月、春日社の訴えにより解官される。
 
 また、同年8月には、父子の契りを交わしていた兄義賢が長兄義朝の子義平に討たれるや、その仇を討つべく10月に信濃国に下向。これに対し、義朝にも頼賢追討の宣旨が下ったが、父為義の説得によるものか、義朝は京を動かず、頼賢も直に大人しく京に引き上げて来たため、兄弟相克の悲劇はひとまず回避された。
 
 しかし、翌年の保元の乱では、父為義らと共に崇徳上皇方に参じて敗れ、敵方に回った義朝によって、他の兄弟と共に斬首された。
 
 
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 源為朝 <みなもと・の・ためとも> (1138−1170?)
 
 源為義の八男で、母は江口の遊女といわれている。
 生来、身体強大で、とりわけ弓射の技に優れ、その剛勇と粗暴な振る舞いのため、13歳の時に、遠く鎮西の地に追いやられるが、ここでも、在地武士を次々と攻め靡かせて、鎮西9ヶ国の覇者となり、鎮西八郎の異名を取った。が、やがてその武勇が京に伝わると、それらの乱行を諫止しなかったとして、父為義は解官の処分を蒙っている。
 
 それでも、保元の乱の直前には、為朝も京に呼び戻され、父為義と異母兄義朝を除く兄達と共に、崇徳上皇方に参じると、機先を制する夜襲を提案するが、頼長ら首脳部に一蹴され、逆に、義朝の主張を受け入れた天皇方の夜襲に遭い、奮戦もむなしく敗走し、近江国坂田で捕らえられた。
 
 父を始め兄弟の悉くが死罪に処された中、その比類なき武勇を惜しまれ、死一等は減じられて、伊豆大島への配流となったが、ここでも、傍若無人ぶりを発揮し、伊豆七島全域を麾下におさめたことから、後白河法皇の命により追討の兵が送られ、ついには自害して果てたと伝えられる。
 
 しかし、その時期については、嘉応2(1170)年《保元物語》、承安3(1173)年《八丈実記》、安元2年(1176)《尊卑分脈》と異論が多く、また、自刃したと見せかけて、郎党と共に大島を脱出して琉球に渡り、そこで王となったとする逸話を始め、数多くの為朝伝説が後世に伝えられている。
 
 
 
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 源行家 <みなもと・の・ゆきいえ> ( ? −1186)
 
 源為義の十男で、義朝の異母弟、頼朝・義経には叔父にあたる。
 本名は義盛。母は15代熊野別当長快の娘で、保元の乱の際には、若年のゆえかこれに参戦せず、また、平治の乱のでは、義朝の麾下にあったものの処罰は免れ、以後も、熊野新宮に隠れ住み、
新宮十郎と称した。
 
 治承4(1180)年4月、源頼政の推挙により、反平家の挙兵を呼び掛ける
以仁王の令旨を、東国の源氏に伝える使者という大役を任され、この時、八条院蔵人に補され、名も義盛から行家に改めている。(以後、十郎蔵人と称する)
 
 頼朝、義仲と相次いで挙兵する中、頼朝の異母弟義円を擁して半自立の軍を組織するも、養和元(1181)年3月、尾張墨俣川の合戦で平氏軍に一網打尽にされ、義円も戦死。一旦は、鎌倉へ下り頼朝を頼るが拒絶され、やがて、信濃にあった木曽義仲の軍に身を投じた。
 
 寿永2(1183)年7月、平家都落ちの後、義仲と共に入京した行家は、後白河法皇に謁し、従五位下備前守に任じられ、院の昇殿も許されたが、程なく、義仲との間に対立が生じると、身の危険を感じ、平氏追討と称して西国下向。しかし、播磨室山で平家軍に大敗し、行き場を失った行家は、和泉国へ逃れた所を、木曽勢に攻められるが、逆に、これにより、兵力を削がれた義仲が、範頼・義経が率いる鎌倉軍に討滅され、結果、命拾いをする。
 
 平家滅亡後は、今度は、頼朝と対立する義経と結び、頼朝追討の院宣を得て西国を目指すが、途上、暴風に遭い船が難破。義経らともはぐれた行家は和泉に漂着し、和泉・河内の辺に潜伏していたが、文治2(1186)年5月、居所を突きとめられ、行家追捕の任を負った北条時政の代官、北条時定と常陸房昌明らによって討ち取られた。
 
   
《はみだし余録》
   源頼政・以仁王・木曽義仲・源義経――手を結んだ相手を、悉く悲劇的な最期へ導く、とんでもない疫病神。
 この行家を遠ざけ、見事勝ち組となった頼朝は、実は、その正体を見抜いていたとか?
  
 
 
【平家物語】
巻 4: 源氏揃
巻 6: 祇園女御
巻 7: 清水冠者・火討合戦・倶梨伽羅落・主上都落
巻 8: 山門御幸・名虎・征夷将軍院宣・瀬尾最期・
室山・樋口被討斬
巻 9: 判官都落
巻12: 泊瀬六代
 
1183年(寿永2) 8.10 備後守
8.16 備前守
 
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* * * これより 義朝 子女 * * *
 
 
 源義平 <みなもと・の・よしひら> (1141−1160)
 
 下野守源義朝の長子で頼朝の異母兄。母は三浦大介義明の娘ともいわれるが未詳。勇猛な武将として知られ、世に鎌倉悪源太と称された。
 
 東国を麾下におさめ京に上った父義朝の代官として、鎌倉に本拠を置き、東国一円に睨みをきかせていたが、義朝の上洛と入れ替わるように下向してきた義朝の次弟義賢(義仲の父)・三弟義広らの侵略行為に反発して、武蔵大蔵館を急襲し、叔父義賢を討ち取った。
 
 平治の乱の際には、上洛して、獅子奮迅の働きをするが、二条天皇が六波羅へ遷幸し賊軍となると、次第に敗色濃厚となり、父義朝や他の兄弟と共に東国へ逃亡。再起をはかるため、単身北国へ下り兵力を募るが、やがて、父義朝が討たれたとの報を受け、清盛暗殺を目論み再び上京。しかし、平氏の郎党に捕縛され、平治2(1160)年1月、六条河原で斬首された。
 
   
《はみだし余録》
   保元の乱での鎮西八郎為朝と並び評される源家のつわもの。そのあまりの剛勇ぶりに、死後も、雷神となり、自分を捕らえた平家の将難波経房を始め、平家の人々を襲い殺したとの伝承が残されています。
  
 
 
【平家物語】※いずれも名前のみ登場
巻 6: 廻文
巻10: 維盛出家
 
 
 
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 源朝長 <みなもと・の・ともなが> (1144−1159)
 
 源義朝の二男。母は『尊卑分脈』では、修理大夫範兼女または大膳大夫則兼、『吾妻鏡』によれば、相模の豪族波多野義通の妹とある。
 
 幼少時は東国で過ごし、やがて京に上ると、保元元(1156)年に左兵衛尉に任じられ、同4年2月には、従五位下で中宮少進に補され、
中宮大夫進と称した。
 
 平治の乱では、父義朝と共に戦いに加わり、敗走の際にも行動を共にするが、竜華越えでの山僧の襲撃で、左股に受けた矢傷を悪化させ、美濃国青墓宿にて自害したとも、父義朝に刺殺されたともいわれる。
 
 
 
保元1年(1156)   左兵衛尉 13歳
保元4年(1159) 2.21 中宮少進 16歳
 
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 源頼朝 <みなもと・の・よりとも> (1147−1199)
 
 源義朝の三男で嫡子。母は熱田大宮司藤原季範女で、同腹に弟希義と、一条能保に嫁した妹(姉とも)がいる。幼名は鬼武者。
 
 保元3(1158)年に皇后宮大進、翌平治元(1159)年に右兵衛権佐に補される(後に「
佐殿」あるいは「武衛」と称されるのも、この兵衛佐任官に由来するものである)。
 
 しかし、同年12月に起きた平治の乱で源氏勢は大敗を喫し、東国へ逃れる途に、父義朝や兄達ともはぐれ、程なく捕縛されたが、平清盛の継母池禅尼のとりなしにより、死一等を減じられ、伊豆国蛭が小島に流された。
 
 その後は、写経読経に明け暮れる流人生活の傍ら、伊東祐親の娘と通じて一子を儲けるも、平家への外聞を憚る祐親によって、その子を殺されたという悲劇も伝えられるが、治承元年頃には、北条時政の娘政子と結婚し、その庇護下に入っている。
 
 治承4年4月27日、叔父行家のもたらした
以仁王の令旨により、父祖以来の家人に働きかけ、8月に伊豆目代山木兼隆を急襲して討ち取ると、続く、石橋山の合戦では惨敗を喫したものの、九死に一生を得て安房に逃れ、関東武士の協力を得て再起。10月に平維盛率いる追討軍を富士川において迎え打ち、これに快勝すると、一転、常陸国佐竹氏を攻撃し勝利を得ると、11月には侍所を設置し、鎌倉を本拠とした地盤固めに専念した。
 
 寿永3(1184)年1月、後白河院からの再三の要請により、弟範頼・義経に命じて木曽義仲を討滅させ、さらに、一ノ谷へ侵攻した関東軍は平家を撃破して京を掌握。次いで、
公文所・問注所を設置し、政権としての体裁を整える一方、御家人に対しては常に規律を重んじ、最大勢力を有する上総介広常をも謀殺。また、無断で任官を受けた弟義経を、一時、平家追討軍から外してもいる。
 
 元暦2(1185)壇ノ浦で平家が滅亡すると、義経との対立が再び表面化し、後白河院から頼朝追討の宣旨を取り付けた義経は、叔父行家と共に九州を目指すが途中で難破して逃亡。これを好機と、頼朝は後白河院に迫り、義経追討の宣旨とその追捕を目的とした地頭設置の勅許を得ると共に、九条兼実の内覧任命と
議奏公卿の設置も承認させている。
 
 文治5(1189)年、先に義経を自刃に追い込んだ藤原泰衡追討のため、自ら全軍を率い陸奥へ侵攻し、これを討ち滅ぼすと、同年正二位に昇進。
 建久元(1190)年には、上洛して後白河院と会見に及び、権大納言・右近衛大将に任じられたが、直後にこれは辞退。後白河院の死後となる建久3(1192)年7月に、ようやく征夷大将軍に任じられた。
 
 建久6(1195)年、東大寺再建供養のため、再び上洛。この頃より、娘大姫の入内を懇望して、源通親に接近。
 しかし、やがて、これが親幕派筆頭である九条兼実の失脚を引き起こし、結果として、朝廷とのパイプ役を失う手痛い失策となった。
 
 建久9(1198)年末頃、相模川の橋供養に赴いた頼朝は、その帰途に落馬し、翌年1月13日、53歳で逝去した。
 
 
【平家物語】
巻 3: 行隆之沙汰
巻 4: 源氏揃・信連
巻 5: 物怪之沙汰・早馬・文覚荒行・福原院宣・
富士川・五節之沙汰
巻 6: 廻文・飛脚到来・入道死去・横田河原合戦
巻 7: 清水冠者・北国下向・篠原合戦・一門都落
巻 8: 大宰府落・征夷将軍院宣・猫間・法住寺合戦
巻 9: 生ずきの沙汰・河原合戦・一二之懸
巻10: 請文・戒文・海道下・千手前・三日平氏・藤戸
巻11: 逆櫓・勝浦 付大坂越・志度合戦
鶏合 壇浦合戦・鏡・文之沙汰・腰越・
大臣殿被斬
巻12: 紺掻之沙汰・土佐房被斬・判官都落・
吉田大納言沙汰・六代・泊瀬六代・六代被斬
 
1158年(保元3) 2. 3 皇后宮権少進 12歳
1159年(保元4)
 
 
 
(平治1)
1.29 右近将監 13歳
2.13 上西門院蔵人
3. 1 服解 (母の喪により)
6.28 蔵人
12.14 右兵衛権佐
12.28 解官 (平治の乱により)
1160年(永暦1) 3.11 伊豆国へ配流 14歳
1183年(寿永2) 10. 9 復本位 (従五位下) 37歳
1184年(寿永3) 3.27 正四位下 38歳
1185年(元暦2) 4.27 従二位 39歳
1189年(文治5) 1. 5 正二位 43歳
1190年(建久1) 11. 9 権大納言 44歳
11.24 右近衛大将
12. 4 権大納言・右大将 辞任
1192年(建久3) 7.12 征夷大将軍 46歳
1199年(建久10) 1.11 出家 (病により) 53歳
1.13 薨去
 
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 源希義 <みなもと・の・まれよし> ( ? −1182)
 
 源義朝の子。母は熱田大宮司藤原季範女で頼朝の同母弟。土佐冠者、鎌田冠者とも号する。
 
 平治の乱により、永暦元(1160)年3月11日、土佐国介良荘へ流されたが、兄頼朝が挙兵するに及び、その動静を警戒した平重盛の家人蓮池權守家綱と平田太郎俊遠によって討ち取られた(自害との説も)。
 
 
 
 
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 源範頼 <みなもと・の・のりより> ( ? − ? )
 
 源義朝の子で頼朝の異母弟。母は遠江国池田宿の遊女といわれ、池田宿に近い蒲御厨で生まれ育ったことから蒲冠者と称される。父義朝の死により、幼少時には後白河院の近臣藤原範季に養われたという。
 
 治承4(1180)8月、兄頼朝の挙兵を知って、すぐさま馳せ参じ、寿永2(1183)年末には、弟義経と共に頼朝の代官として、義仲追討のため上洛。翌年正月20日に近江国勢田にて義仲を討滅して入京すると、日を置かず、平家追討のために京を進発し、摂津国生田森で合戦に及び、義経の軍と共に平氏軍を撃破した《一ノ谷の戦》。
 
 京に凱旋後は、一旦鎌倉へ帰還し、戦功により三河守に任ぜられる。9月には、再び、平家追討のため西国へ赴くが、兵糧の不足に加え、兵船の調達もままならず、苦戦を強いられ、これに業を煮やした頼朝の命で義経が出陣し、その目覚しい戦果により、翌元暦2(1185)年、屋島・壇ノ浦にて平家一門を滅ぼした。
 
 乱後も九州に残留し、戦後処理に努めた範頼は、同年4月24日に三河守を辞任し、10月に鎌倉に帰還。
 
 その後、建久4(1193)年に起きた曽我兄弟の仇討ち事件に際し、鎌倉を守る頼朝の妻北条政子に「自分が健在であり、源氏の代は無事である」と告げた所、これが却って謀反の疑いを招き、伊豆へ流されると、その直後に誅殺されたみられる。
 
 
【平家物語】
巻 8: 法住寺合戦
巻 9: 生ずきの沙汰・宇治川先陣・河原合戦・
樋口被討斬・三草勢揃
巻10: 首渡・藤戸・大嘗会之沙汰
巻11: 逆櫓・鶏合 壇浦合戦・腰越
巻12: 判官都落
 
 
1184年(元暦1) 6. 5 三河守
1185年(元暦2) 4.24 三河守を辞任
 
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 全成 <ぜんじょう> (1153−1203)
 
 源義朝の子。母は常盤、幼名今若で、義経の同母の長兄。
 平治の乱後、仏門に入れられ醍醐寺で修行するが、治承4(1180)年、源氏の反平家挙兵を受けて、東国へ下り異母兄頼朝の許へ参向。北条時政の娘阿波局を妻とし、駿河国阿野荘を領有したことから、
阿野法橋とも称された。
 
 頼朝の死後の建仁3(1203)年5月に、謀反の嫌疑を掛けられ、常陸国へ流されると、将軍頼家の命により誅殺された。
 
 
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 義円 <ぎえん> (1155−1181)
 
 下野守源義朝の子。母は常盤、幼名乙若で、義経の同母の次兄。
 平治の乱により出家させられ、始めは円成、後に義円と改め、また、
卿公(きょうのきみ)ともよばれた。
 後白河院の皇子円恵法親王に仕え坊官となったが、源氏の反平家挙兵に呼応。叔父の源行家と共に、尾張墨俣川での合戦に臨むが、平家の郎従左衛門尉盛綱に討ち取られた。
 
 
 
【平家物語】
巻 6: 祇園女御
 
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 源義経 <みなもと・の・よしつね> (1159−1189)
 
 源義朝の末子。母は九条院の雑仕女常盤で、頼朝の異母弟。
 平治の乱での父義朝の敗死により、母常盤と二人の兄と共に捕えられたが、出家を条件に助命され、鞍馬寺に入れられたという。しかし、長じて出奔し、奥州藤原氏の庇護を求めて陸奥国へ渡り、治承4(1180)年、兄頼朝の挙兵を聞くと、奥州平泉より駿河国黄瀬川の陣に馳せ参じた。
 
 異母兄範頼と共に、頼朝の代官として京へ派遣され、寿永3(1184)年1月には、近江で木曽義仲を討ち滅ぼして京の覇権を握り、続く、
一ノ谷の合戦では、鵯越の奇襲で平氏軍に大打撃を与えた。しかし、その戦功に対する叙位任官を無断で受けたことから、頼朝の不興を買い、しばらく、一線から退けられることとなる。
 
 元暦2(1185)年2月、再び、平家追討を命ぜられた義経は、讃岐国屋島の平家本陣を奇襲して大勝し、同年3月24日、壇ノ浦の戦いにおいて、平家一門を滅亡させた。
 
 しかし、捕虜の平宗盛らを護送して東国へ下向するも、鎌倉入りを頼朝に拒絶され、弁明の書(腰越状)をもって恭順の意を示すが、ついに許しは得られず追放の身となる。
 
 京へ戻った義経は、叔父の行家と結び、後白河院より頼朝追討の院宣を得て、反旗を翻すが、呼応する者はなく、あえなく挫折。再起を図るべく西国を目指すが、途上の摂津国大物浦で船が難破し、以後、しばらくは京周辺に潜伏していたが、やがて、奥州へ向かい、再び、藤原秀衡の庇護下へ逃げ込んだ。
 
 が、秀衡の急死により、家督を継いだ泰衡は、頼朝の圧力によって、再三にわたって下された義経追討の院宣に抗いきれず、文治5(1189)年閏4月30日、衣川の高館を急襲、義経は自刃して果てたと伝えられるが、一方で、北方へ逃れたとする義経伝説も数多く残されている。
 
 
 
《はみだし余録》
   源義行・源義顕―いったい誰のことかと言えば、実は、どちらも義経を指す名前。
 壇ノ浦の戦い後、お尋ね者となって姿をくらましている間、京・鎌倉では、二度までも勝手に改名されていたのでした。
 そもそもは、「ヨシツネ」の読みが九条兼実の子良経と同じで「ヨクナイ!」ということで“義行”に改められたものの、一向に捕まる気配がないのは「よく行く」と読めるからだとの意見があって、それでは「よく(姿を)あらわす」ようにと“義顕”に改名したのだとか。
 平安貴族も、実は、ダジャレがお好き!?
 
 
 
【平家物語】
巻 4: 源氏揃
巻 8: 法住寺合戦
巻 9: 生ずきの沙汰・宇治川先陣・河原合戦・
樋口被討斬・三草勢揃・三草合戦・老馬・坂落
巻10: 首渡・戒文・海道下・藤戸・大嘗会之沙汰
巻11: 逆櫓・勝浦 付大坂越・嗣信最期・那須与一・
弓流・鶏合 壇浦合戦・能登殿最期・
一門大路渡・文之沙汰・副将被斬・腰越・
大臣殿被斬
巻12: 平大納言被流・土佐房被斬・判官都落・
泊瀬六代
 
 
1184年(元暦1) 8. 6 検非違使・左衛門尉 26歳
9.18 従五位下
1185年(文治1) 8.14 伊予守 27歳
 
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 源某女〔一条能保室〕 ( ? −1190)
 
 源義朝の娘。母は熱田大宮司藤原季範女で、頼朝・希義と同腹。坊門姫と称される。
 
 藤原北家頼宗流の一条能保に嫁し、嫡子の高能を始め、後鳥羽天皇の乳母となり大納言三位と称された保子や、九条兼実の子良経に嫁し、道家や順徳天皇の中宮立子(東一条院)の母となる娘(名は未詳)を産む。
 
 文治元(1185)年5月には、夫能保と共に鎌倉へ下向し、兄頼朝の歓待を受けた。
 
 建久元(1190)年4月13日、難産により急逝。
 
 
 
《はみだし余録》
   一般には、頼朝の妹とされている女性ですが、『吾妻鏡』によれば享年46歳。これから逆算すると1145年生まれとなり、1147(久安3)年生まれの頼朝より年上ということになります。もっとも、46歳(満44-45歳)という高齢での出産というのも、かなり疑わしいですから、36歳の誤記と見る向きが多いようです。
 
 
 
 
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* * * これより 義賢 子孫 * * *
 
 
 源仲家 <みなもと・の・なかいえ> ( ? −1180)
 
 帯刀先生源義賢の子。母は周防守藤原宗季女で、木曽義仲の異母兄に当たる。
 父義賢が従兄弟の義平に討たれて後、源三位頼政の猶子となり、八条院蔵人(平家物語では六条蔵人)を勤めた。
 治承4(1180)年5月、以仁王を首謀とする反平家挙兵の企てが露顕すると、養父頼政に従い、三井寺へ馳せ参じたが、その後、宇治平等院の辺での平家方の追討軍との激戦にて、子息蔵人仲光と共に討死にした。
 
 
 
【平家物語】
巻 4: 競・大衆揃・宮御最期
 
 
 
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 源仲光 <みなもと・の・なかみつ> ( ? −1180)
 
 八条院蔵人源仲家の子。九条院判官代を勤め、蔵人太郎と称した。
 
 治承4(1180)年5月、反平家挙兵の企てが露顕すると、養父源頼政に従う父仲家と共に三井寺に馳せ参じたが、宇治平等院の辺での平家方の追討軍との合戦にて、父子ともに討死にした。
   
 
 
【平家物語】
巻 4: 競・大衆揃・宮御最期
 
 
 
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 源義仲 <みなもと・の・よしなか> (1154−1184)
 
 帯刀先生源義賢の二男。木曽冠者朝日将軍とも称され、母は遊女と伝えれる。
 久寿2(1155)年に、父義賢が従兄弟の悪源太義平に討たれ、辛くも逃れた義仲は、乳夫で信濃木曽の豪族中原兼遠の許で養育される。なお、妻の一人 巴御前はこの兼遠の娘といわれる。
 
 治承4(1180)年、叔父十郎行家のもたらした以仁王の令旨を受けて挙兵。信濃、上野へ進出して、翌養和元年には越後に攻め入り、平家方の城資職を打ち破って北陸道を勢力下に治めた。が、その直後に、従兄弟の源頼朝との間に対立が生じ、寿永2(1183)年3月、衝突を回避するため、嫡子義高を人質として鎌倉に送り同盟を結ぶ。
 
 その後、同年5月に越中倶利伽羅峠で平氏軍を撃破すると、叡山とも手を結び、平家が都落ちした7月に叔父の行家と共に入京。
 ただちに後白河院より平家追討の院宣を受け、伊予守に任ぜられるが、折からの飢饉で兵糧が不足する中、軍兵の度を過ぎた狼藉により人心を失い、また、鎌倉の頼朝を勲功第一とする後白河院との間にも不和が生じる。
 
 さらに、閏10月に備中国水島で平家軍に敗北を喫して、いっそう孤立を深めると、翌11月には法住寺殿を攻撃して法皇を幽閉。自ら朝廷人事の刷新に乗り出し、翌寿永3(1184)年正月にはついに征夷大将軍となった。
 しかし、間もなく義仲追討の要請を受けた頼朝の代官として派遣された源範頼・義経の軍に敗れ、北陸道への敗走の途、近江国粟津にて討死した。
 
 
《はみだし余録》
   
  
 
 
【平家物語】
巻 4: 源氏揃
巻 6: 廻文・飛脚到来・横田河原合戦
巻 7: 清水冠者・火討合戦・願書・倶梨伽羅落・実盛・
木曾山門牒状・返牒
巻 8: 山門御幸・名虎・大宰府落・征夷将軍院宣・猫間・
水島合戦・瀬尾最期・室山・鼓判官・法住寺合戦
巻 9: 生ずきの沙汰・河原合戦・木曾最期・樋口被討斬
巻10: 三日平氏・大嘗会之沙汰
巻11: 逆櫓一門大路渡・腰越
巻12: 土佐房被斬
灌頂: 六道之沙汰
 
 
寿永2年(1183) 8.10 左馬頭・越後守 30歳
8.16 伊予守に遷任
寿永3年(1184) 1.11 征夷大将軍 31歳
1.20 近江国粟津にて討死
 
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 源義高 <みなもと・の・よしたか> (1173−1184)
 
 木曽義仲の嫡男。清水(志水)冠者と号し、名は義基、義重とも。また、母は義仲の乳夫中原兼遠の娘、あるいは、兼遠の子今井兼平の娘とも伝えれられるが未詳。
 
 寿永2(1183)年春、源頼朝との対立を回避するため、頼朝の娘大姫の婿という形で鎌倉へ送られるが、翌年正月に父義仲が近江国粟津にて討ち滅ぼされ、一旦は鎌倉より出奔し逃亡を図るが、武蔵国入間河原にて誅殺された。
 
 
《はみだし余録》
   世紀の初恋カップルの義高と大姫。その悲恋は数多くの小説や少女漫画にも取り上げられ、歴史的な影響力は父義朝には遥かに及ばないものの、知名度だけは絶大。しかし、実否はともかく、死してなお、生涯大姫の心を捕えて離さなかったとの逸話を残すのは、やはり、魅力あふれる美少年であった証か?
  
 
 
【平家物語】
巻 7: 清水冠者
 
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* * * これより 頼朝 子女 * * *
 
 
 千鶴 <せんつる> ( ? − ? )
 
 源頼朝の子。母は伊豆の豪族伊東祐親女。
 
 伊豆での流人時代に、大番役のため祐親が上京している間に、その娘と通じ儲けた長子ながら、やがて、帰国した祐親は、平家への憚りから、海へ投げ捨てさせたといわれる。
 
 
 
 
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 大姫 <おおひめ> ( ? −1197)
 
 源頼朝の長女で、母は北条政子。なお、「大姫」とは長女を指す一般的な呼び名で、実名は不明。
 
 頼朝の流人時代に、伊豆で生まれたものと推測され、寿永2(1183)年春、頼朝と木曽義仲の不和解消のため、半ば人質として送られて来た義仲の子義高と婚約。
 しかし、翌年1月に義仲が討たれると、程なく義高も頼朝に誅殺され、この時、大姫は心に深い傷を負い、以後、病がちになったとされている。
 
 その後、従兄妹にあたる一条高能(頼朝の姉妹の子)との縁談も持ち上がるが、大姫はこれを強く拒絶。
 また、対朝廷政策のため、後鳥羽天皇への入内も画策されたが、生来の病弱のゆえもあって、結局、実現はせず、建久8(1197)年7月14日に逝去した。
 
 
 
 
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 源頼家 <みなもと・の・よりいえ> (1182−1204)
 
 源頼朝の嫡男。母は北条政子。鎌倉幕府第二代将軍。
 寿永元年(1182)8月12日、鎌倉比企谷第にて誕生。
 
 建久8年(1197)に従五位上左近衛権少将に補され、正治元年(1199)1月、父頼朝の死により、鎌倉殿の地位を相続すると共に、左近衛権中将に昇進し、翌正治2(1120)年に従三位左衛門督、そして、建仁2(1202)年7月に従二位征夷大将軍に任ぜられた。
 
 しかし、近習の極端な厚遇や、訴訟の強引な裁断などが、御家人の反感を買うこととなり、建仁3(1203)年8月、急な病で重体に陥るや、北条氏によって外戚比企一族を妻子もろとも討滅され、自身も、伊豆修善寺に幽閉される身となる。
 新将軍には弟実朝が擁立され、翌元久元(1204)年7月18日、頼家は北条氏の手により殺害された。
 
 
1197年(建久8) 12.15 従五位上・右大将 16歳
1198年(建久9) 1.30 讃岐権介 17歳
11.21 正五位下
1199年(建久10) 1.20 左近衛中将 18歳
1120年(正治2) 1. 5 従四位上・聴禁色 19歳
10.26 従三位・左衛門督
1202年(建仁2) 1.23 正三位 21歳
7.23 従二位・征夷大将軍
1203年(建仁3) 9. 7 出家 22歳
1204年(元久1) 7.18 伊豆修善寺にて暗殺される 23歳
 
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 三幡 <さんまん> (1186−1199)
 
 源頼朝の二女。母は北条政子。
 
 姉の大姫亡き後、対朝廷政策のため、再度、二女の三幡の入内が画策されるが、建久10(1199)年1月の頼朝の急死により、暗礁に乗り上げていたところに、同年3月、三幡も突如として発病し、6月30日に逝去した。
 
 なお、病に際し、後鳥羽上皇より差し遣わされた京の医師が治療に当たったとされ、一部では、入内阻止のための暗殺と見る向きもある。
 
 
 
 
 
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 源実朝 <みなもと・の・さねとも> (1192−1219)
 
 源頼朝の子。母は北条政子。幼名千幡。
 
 建仁3(1203)年8月、重体に陥った兄頼家に代り、関西38ヶ国の地頭職に任じられ、翌月2日には比企一族が滅亡し、頼家も伊豆修善寺に幽閉されるに及び、同月7日従五位下に叙され将軍職に就いた。
 
 しかし、政治の実権は母政子に握られ、年中行事への親臨や寺社参詣などの公的役割を果たすだけの日々の中で、次第に、和歌に深く傾倒。京の藤原定家に師事し、「金塊和歌集」を編纂している。
 
 建暦2年に従二位、建保元(1213)年に正二位に叙され、建保4(1216)年6月に権中納言、7月には左近衛中将に進むなど、官位昇進にひとかたならぬ執心を見せ、北条義時の命を受けた大江広元から諫言される一幕もあったが、これに抗するように、建保6年に入ると、権大納言、左近衛大将、内大臣と立て続けの任官の末、12月には、ついに右大臣に昇った。
 
 が、翌建保7(1219)年1月27日、任右大臣拝賀のため参詣した鶴岡八幡宮寺にて、甥の公暁に暗殺された。
 
 
1203年(建仁3) 9. 7 叙位・征夷大将軍 12歳
10.24 右兵衛佐
1204年(元久1) 1. 5 従五位上 13歳
3. 6 右少将
1205年(元久2) 1. 5 正五位下 14歳
1.29 加賀介・権中将
1206年(建永1) 2.22 従四位下 15歳
1207年(承元1) 1. 5 従四位上 17歳
1208年(承元2) 12. 9 正四位下 17歳
1209年(承元3) 4.10 従三位 18歳
5.26 右中将
1211年(建暦1) 1. 5 正三位 20歳
1.18 美作権守
1212年(建暦2) 12.10 従二位 21歳
1213年(建保1) 2.27 正二位 22歳
1216年(建保4) 6.20 権中納言 25歳
7.20 左中将
1218年(建保6) 1.13 権大納言 27歳
3. 6 左大将・左馬寮御監
10. 9 内大臣
12. 2 右大臣
1219年(建保7) 1.27 鶴岡八幡宮にて暗殺される 28歳
 
 
 
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* * * これより 頼朝 孫・頼家 子息 * * *
 
 
 一幡 <いちまん> (1184−1204)
 
 鎌倉幕府二代将軍源頼家の子。母は有力御家人比企能員女の若狭局。
 
 建仁3(1203)年7月に頼家が病床に就くと、家督を頼家の弟千幡(実朝)と分割相続することになるが、9月2日、比企の乱により、一族と共に殺害された。
 
 
 
 
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 公暁 <くぎょう> (1200−1219)
 
 鎌倉幕府二代将軍源頼家の子。母は賀茂重長の娘。幼名善哉。
 父頼家が将軍職を廃され暗殺されて後、元久2(1205)年に鶴岡八幡宮別当尊暁の門弟となり、翌建永元(1206)年には叔父実朝の猶子となる。
 建暦元(1211)年に落飾すると、近江国の園城寺に入り、その後、建保5(1217)年に鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺別当となった。
 
 承久元(1219)年1月27日、鶴岡八幡宮寺で行われた三代将軍実朝の任右大臣拝賀の儀式の直後に、自らの手で実朝を殺害した上、扈従していた源仲章をも北条義時と誤認して殺害。さらに、御家人の有力者で、自身の乳夫でもある三浦義村を頼り将軍職に就こうとしたが、義村は北条氏に通じて公暁を誅殺、ここに、源氏の嫡流は絶えた。
 
 
 
 
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* * * これより 摂津源氏 * * *
 
 
 源頼政 <みなもと・の・よりまさ> (1104−1180)
 
 源仲政の子。母は藤原友実女。
 
 父祖以来、摂津方面を地盤とし、その武士団渡辺党を有して、京の治安維持に貢献。
 大治年間頃(1126-1131)に白河院判官代、次いで、鳥羽院の北面を経て、仁平3(1153)年に美福門院の昇殿を許され、久寿2(1155)年には
兵庫頭に任じられている。
 
 保元の乱では天皇方に加わり、平治の乱の際には、当初は信頼・義朝側に組していたが、六波羅での合戦の折には、一転して、平家方として戦った。
 
 仁安元(1166)年に叙爵・内昇殿を許され、翌2(1167)年に従四位下、3(1168)年従四位上、嘉応2(1170)年右京権大夫を経て、承安元(1171)年正四位下に進み、その後は、清盛の奏請により、治承2(1178)年、75歳にして従三位に叙され、非参議ながら公卿に列せられ、世に
源三位と称された。
 
 治承3(1179)年に出家して入道となるが、翌治承4(1180)年、清盛の孫に当たる安徳天皇の践祚により、皇位の望みを絶たれた以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を画策。が、事前に発覚し、以仁王が逃亡すると、追捕に向かうと見せかけ、一族を率いて京を進発し、近江の園城寺で王と合流。
 その後、興福寺を頼り南都へ向かう途、宇治の辺で追討軍に追いつかれ、平等院に立てこもり激戦を繰り広げるが、ついには自害して果てた。
 
 なお、頼政は歌人としても高く評価され、『千載集』以下の勅撰集等に、数多くの詠を残している。
 
 
【平家物語】
巻 1: 御輿振
巻 4: 源氏揃・鼬之沙汰・信連・競・大衆揃・宮御最期・若宮出家・鵺
巻 5: 文覚被流
巻 7: 木曽山門牒状
巻11: 重衡被斬
 
? 年( ? ) ?  白河院判官代
1136年(保延2) 4.17 蔵人 33歳
6.13 従五位下
1153年(仁平3) 3.   美福門院昇殿 50歳
1155年(久寿2) 10.22 兵庫頭 52歳
1158年(保元3) 12.   院昇殿 55歳
1159年(保元4) 1.28 従五位上 56歳
1166年(仁安1) 10.21 正五位下 63歳
12.30 内昇殿
1167年(仁安2) 1.30 従四位下 64歳
1168年(仁安3) 11.20 従四位上 65歳
1169年(嘉応2) 1.14 右京権大夫 66歳
1171年(承安1) 12. 9 正四位下 68歳
1176年(安元2) 2. 5 自ら職を辞して嫡子仲綱の正五位下昇叙を申請 73歳
1178年(治承2) 12.24 従三位 75歳
1179年(治承3) 11.28 出家 76歳
1180年(治承4) 5.26 謀反により討滅・梟首 77歳
 
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 源仲綱 <みなもと・の・なかつな> (1126−1180)
 
 源頼政の子。
 右兵衛尉、六位蔵人等に任じられる他、
伊豆守、隠岐守などの受領も歴任。
 
 歌人としても知られ、数多くの歌合に参加し、『千載集』以下の勅撰集にも、その名が残る。
 
 治承4(1178)年5月、父頼政とともに、以仁王を擁し反平家挙兵を企てたが、宇治川の合戦に敗れ自害した。
 
 
【平家物語】
巻 4: 競・永詮議・大衆揃・橋合戦・宮御最期・鵺
巻 5: 文覚被流
 
 
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 源兼綱 <みなもと・の・かねつな> ( ? −1180)
 
 源頼政の猶子。実父の蔵人大夫源頼行は頼政の弟で、保元2(1157)年7月に謀反のかどにより捕縛され、配流先への護送の途に、領送使を殺害して、自らも自害して果てた。
 
 承安2(1172)年2月、平徳子の中宮立后に際し中宮権少進に任じられ、また、蔵人・右衛門少尉・検非違使等を兼任し、
源大夫判官とも称された。
 
 治承4(1180)年5月の以仁王挙兵時も、検非違使として追捕の役目に当たっていたが、やがて、頼政らと共に園城寺に馳せ参じて、以仁王と合流。しかし、南都へ向かう途上、宇治で平家の追討軍に追いつかれ、奮戦むなしく討ち取られた。
 
 
 
【平家物語】
巻 4: 鼬之沙汰・信連・競・大衆揃・宮御最期
 
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 源頼兼 <みなもと・の・よりかね> ( ? − ? )
 
 源頼政の子。生没年未詳。
 
 安元2(1176)までに従五位下に進み、九条院非蔵人であった旨の記録があり、寿永2(1183)年7月の平家都落ちの後は、大内裏守護の任に当たり、蔵人大夫と称された。
 
 その後は、文治元(1185)年10月には、禁裏昼御座から剣を盗んだ犯人を捕えた功により従五位上に叙されている。
 
 なお、南都へ引き渡される平重衡の護送に当たったことでも知られる。
 
 
 
【平家物語】
巻11: 内侍所都入・重衡被斬
 
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* * * これより 多田源氏 * * *
 
 
 源行綱 <みなもと・の・ゆきつな> ( ? − ? )
 
 清和源氏頼光流、従五位下摂津守源頼盛の子。生没年未詳。
 摂津国多田荘を本拠とし、多田太郎・
多田蔵人・多田蔵人大夫などと称され、また、京都六条に屋敷があったことから六条蔵人とも呼ばれた。
 
 後白河北面に伺候し、藤原成親を始めとする院近臣による平家打倒の謀議にも参加したが、安元3(1177)年5月29日、事の次第を平清盛に密告。死罪は免れて安芸国配流となり、許されて帰京して後は平家に従った。
 
 しかし、木曽義仲の快進撃を見て取るや、反平氏へと転じ、淀川河尻の船を差し押さえて糧道を断つなどして、平家凋落を助長。また、都落ちの後は、御教書により三種神器奪回を命じられている。
 
 その後も、義仲、後白河院、義経と、目まぐるしく動く情勢に応じ、接近・離反を繰り返すが、平家滅亡後の文治元(1185)年、義経との結びつきが頼朝の不興を買い、多田荘没収の処分が下されたことから、その解除を図ろうと、西海へ落ちる義経を追撃したが、以後の消息は不明。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 鹿谷・俊寛沙汰 鵜川軍
巻 2: 西光被斬
巻 3: 赦文
 
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