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「少ししみるわよ……」
切れて血の滲(にじ)んだ口唇(こうしん)に酒を染ませた布をあてがわれた時だけは、男もほんの少し顔をゆがめた。
港のはずれにある宿(しゅく)に戻った玄武は、仲間内で紅一点の桔梗(ききょう)に男の傷の手当てを頼んだ。
「また随分とひどくやられたものね……。着物もボロボロ……。新しいものに替えないと……」
桔梗は、男のまとっていた埃(ほこり)まみれで、とても人の着るものとは思えない襤褸(ぼろ)を脱がせると、痣(あざ)だらけの身体を丁寧に拭(ぬぐ)ってやった。
日頃から荒くれ男の面倒を見ているだけに、こういう類(たぐい)のことはお手の物といった具合に実に手際が良い。しかし、褐色の肌の至る所に表れる黒い痣(あざ)、背中には昼間に鞭打たれた跡も生々しく、それを見るにつけ、傷(いた)ましさが桔梗の胸を突き上げてきた。
「痛いなら声を上げていいのよ。我慢することなんてないんだから……」
なおもみぞおちにくっきりと残る拳(こぶし)の跡に触れて、桔梗は男の顔を見上げた。
先ほどから一言も発しない口元は穏やかな微笑をたたえ、その先の深い漆黒の瞳には、むしろ桔梗を気遣うような、どこか物悲しい影が現れている。
痛みがないはずはない。にもかかわらず、つらそうな素振りなど露とも見せようともしない……。それがまた桔梗にはいじらしく思われた。
「とりあえず、こいつを着せてみてくれ……」
幾揃えかの衣を引っ提げて玄武が姿を現した。
「俺の着古しだが、少し直せば、当座のしのぎぐらいにはなるだろう……」
言いながら、無造作に衣を広げて見せるものの、桔梗は振り返るどころか何の返事もしない。甲斐甲斐しく拭き清めていた手も止めて、何を一心に見入っているのか――その白い横顔は、驚悸(きょうき)に強張っているようにも見受けられた。
「桔梗……、どうした?」
そう問い掛けるや、玄武の目にも奇妙なものが飛び込んできた。
男の露になった逞(たくま)しい上腕――、その右の二の腕の辺りに鮮やかに浮かび上がった極彩色の紋。
――雲を衝(つ)き、天に昇る青龍――
それ自身、命あるもののような躍動を感じさせるその刻印に、玄武もまた言葉もなく瞠目(どうもく)した。
しかし、二人が魅入られた視線の先に気づいた男は、急に怯(おび)えるように身体を震わせ腰を浮かした。と、その時、何かがコトリと足許を転がった。咄嗟に我に返った玄武は、慌てて膝をついてそれを拾い上げていた。
「きれい……」
桔梗が艶っぽいため息をもらす。
玄武の手のひらで深い緑色をした玉(ぎょく)が淡い光を放っていた。
「翡翠(ひすい)か……」
「……翡翠?」
問い返す桔梗に玄武は大きくうなずく。
「唐渡りの宝玉だ」
珍しいものを目にした時の商人の習性か……、玄武はその玉をひとしきり眺めた。
硬玉翡翠の細工物など、楊孫徳の運ぶ品の中でもそうそう目にすることのできない代物である。
が、何より玄武を驚かせたのは、そこに刻まれた精緻(せいち)な紋様だった。
「これは……」
玄武のつぶやきに、男はいっそう身体を強張らせ、腕の紋を押し隠してうつむいた。
「……お頭?」
怪訝(けげん)そうに見つめる桔梗に、玄武は無言で玉の紋様を見せる。
そこには男の腕にあるそれと全く同じ青龍の雄姿があった。
それにしても、ここに刻まれた青龍と同じ紋を自らの腕に持つこの男は、いったい何者なのか……。
玄武は聞いて問い質(ただ)したい衝動(しょうどう)にかられながらも、あえてそれを飲み込んだ。
男は明らかに腕の紋を忌んでいる――。
先ほどからうつむいたまま、目を合わせようともしないところからして、それは容易に察しのつくことだった。
恐らく、今日のようなことはこれまでにも幾度となくあったに違いない。
ただでさえこの風貌である。青龍が四神の一つにも数えられる聖なる神獣とはいえ、世間の目からすればそれは罪科の烙印(らくいん)にも等しい衝撃を与え、あらぬ偏見の的となることも止むを得ない仕儀であった。
言葉を解さない異国の民に、己の正当を訴える手立ては自ずと限られてくる。
昼間、子供を庇(かば)い、自ら鞭打たれたことも、あるいはこの男なりの誠実を示すすべだったのではないか……。しかし、自らも含めて、誰一人としてそのことに気づいた者はいなかった……。
玄武は込み上げてくる怒りをかみ殺し、そっと翠玉を差し出した。が、男はただじっとそれを見つめるだけで、決してその手に取ろうとはしなかった。
「こいつはおまえのお守りだろう……。大事にしまっておけ」
玄武は穏やかに語りかけた。その飾りのない暖かな眼差しに触れ、男は少し驚いたような表情を浮かべると、やがてためらいがちに手を伸ばした。
「お頭!」
遣り戸を引き倒さんばかりの勢いで、弥太が入って来た。
「こいつをどうするおつもりで? まさか、ここに置くって言うんじゃないでしょうね!」
弥太は鼻息を荒げて、玄武に詰め寄った。
「そのつもりだが……」
平然と玄武が答えるのを聞いて、弥太は血相を変えた。
「冗談じゃありませんよ! こんな盗人なんか!」
言いかけて、弥太は急に口籠(くちご)もった。玄武の目がいつになく厳しい。といって、あからさまに怒鳴りつけるわけでもなく、それがまた弥太には不気味だった。
辺りは俄かに険悪な空気に包まれ、傍らの伝六などはにらみ合いを続ける双方の顔色を伺い、おろおろする始末だったが、方や桔梗はといえば、まるで我関せずといった様子で玄武の置き捨てた衣を物色していた。
「おい! いい加減、わしの酒を返してくれんか!」
突然、しゃがれた怒鳴り声が響き渡った。振り返ると、奥の部屋から五十がらみの男が恨めしげな顔をのぞかせていた。それにつられるように、ふっとその場の緊張も解けた。
「はいはい……」
桔梗はやれやれといった顔つきで、酒の入った瓶子(へいじ)を抱えて行く。
「寿老(じゅろう)、ほどほどにしとけよ」
玄武が一声かけると、その老体は取り戻した酒を大事そうに抱え込み、何食わぬ顔でまた奥の部屋へと引っ込んで行った。
「今日からおまえのことを竜(りゅう)と呼ぶことにする」
玄武は、改めて男と面と向き合い、力強くそう告げた。
「いいな、竜」
呼び掛ける玄武の目を、男はじっと見つめていた。
「……リュウ?」
問い返すような小さなつぶやきに、玄武は破顔してうなずく。
「そうだ。おまえの名は竜だ。そして、今日からここの一員だ。弥太、伝六、おまえ達もいいな」
さすがに弥太は、苦虫を噛み潰したような面持ちだったが、
「……わかりましたよ。お頭のおっしゃる通りに……」
と、渋々ながらもようやく首を縦に振るのを見て、玄武も内心ホッとしつつ、たった今、竜と名づけたばかりの男と再び向き合った。
「竜、この国の人間がおまえにつらく当たるのは、おまえのことがよくわからぬからだ。わからぬから怖れを抱き、関わりを持つことを拒もうとする……」
「……」
「だから、早く言葉を覚えろ。そして、心に思うことを何でも誰にでも伝えられるようになることだ。そうすれば……、いつの日か皆がおまえのことをわかってくれる……、そういう日が必ず来る」
玄武は竜の肩にそっと手を置いた。
果たしてその言葉の意味がわかったのかどうか……。ともかく竜も小さくうなずき返していた。
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