|
「全く、ついてねえな……」
波も穏やかな紺碧(こんぺき)の海に、圧倒的な存在感をもって敢然とそびえ立つ朱塗りの大鳥居――それを弥太は船の上から恨めしげに眺めていた。
船とはいっても、宋国の商人楊孫徳(やん・そんとく)の所有する大型の唐船とは違い、玄武を筆頭に五人の男達と、漕ぎ手として瀬戸内近海の水軍より借り受けた十人ほどの船子が乗り込むと、もはや足の踏み場もないほどの小さな船である。
筑紫を離れて早十日余――
長門の赤間ヶ関(あかまがせき)を抜け、周防灘、そして伊予の島々をめぐる航海は天候にも恵まれ、まさに順調そのものだったのが、安芸国に入ったところで奇(く)しくも平家一門の厳島参詣に行き会うこととなった。
「おい、帆をたたむぞ!」
身振りを交えて弥太が声をかけると、竜は手際よく帆を下ろし始めた。
漂着したというだけあって、船の扱いは手慣れたものである。おそらく、外洋を行き来する船を操ったこともあるのだろう。
最初は何かと距離を置いていた弥太も、次第にあれこれ仕事を言いつけるようになっていた。
「弥太、後は頼んだぞ」
玄武はどこにしまっていたのか、威儀を正した身なりに着替えて姿を現した。
「へい、お気をつけて……」
弥太の答えも待たず、玄武は小さな木箱を携(たずさ)えて船を下りて行った。
「お頭はどこへ行くんだ?」
伝六はいぶかしげに玄武の後ろ姿を眺めていた。
「平家の大臣(おとど)の御機嫌伺(うかが)いだ」
竜と一緒になって下ろした帆をたたみながら、弥太は素っ気無く答える。
「ふうん……」
日頃、己の見てくれには丸っきり無頓着(むとんちゃく)の玄武が、今日は別人のように美々しい出で立ちというのが伝六にはどうもしっくりとこないらしい。
「しかし、よりによって厳島御参詣に行き会うとはな……。こいつは2〜3日は足止めを食わされるだろうな。全くついてねえ……」
弥太はたたんだ帆を片付けると、思いっきり伸びをしてそのまま仰向けに寝転がった。
いつ出帆できるかわからないということもあって、船子達は玄武が金を与えて陸へ送り出しため、船の上は実に静かなものである。
初夏の抜けるような青空が広がり、強い日ざしが照りつけてはいるものの、時折吹き過ぎる涼やかな風がそれを少しばかりやわらげてくれ、じきに弥太も心地よい寝息を立てていた。
竜はそっと船べりに寄ると、大鳥居のさらに向こうに広がる厳島の社を見遣った。
海の上に翼を広げた鳳凰(ほうおう)さながらの美しいたたずまい――、竜は初めて目にする風景にすっかり心を奪われていた。
「不思議だろう? あんな海の上に建っていてよく沈まないものだよな……」
伝六はそう言って竜の隣に立つと、同じように社を眺めた。
これまで一番下っ端だった伝六にとって、竜の加入は実のところ大いに喜ばしいことだった。
どう見ても自分よりも年は上のようだが、右も左もわからない新入りの出現は、伝六にちょっとした優越感を味わわせることになった。
とりわけ、いつも指図されるばかりの身には、自らが指図する側に立つことはどうやらこの上もなく気持ちの良いものらしい。といっても、大した用を言いつけるわけでなし、傍目(はため)には子供のままごとのようにしか見えないのだが、それはそれで何とも微笑ましい光景だった。
加えて、こうして四六時中鼻を突き合わせていれば、自然と通じ合うものも生まれて来るもので、その意味では何くれとなく、得意げに語って聞かせる伝六は、言葉不如意(ふにょい)の竜の相手としては格好の取り合わせともいえた。
もっとも、喋っている中身など今の竜にはほとんどわからないに違いなかったが、そうやって自分に話し掛けてくれる者がいることが何よりも嬉しいのだろう。どんな些細(ささい)なことも聞き漏らすまいと耳を傾ける様は、実に真剣そのものだった。
「腹が減ったな……」
移り気な質(たち)の伝六は気の抜けた声を発して一人船倉に降りかけた。と、その時、一瞬ぐらりと足許が揺らいだかと思うと背後に水しぶきの音を聞いた。
振り返ると竜の姿が消えていた。伝六は慌てて船べりに立ち戻り、身を乗り出すようにして様子を伺った。
すべらかな水面の下を縫うように、黒い影がまっしぐらに突き進んで行く――。その勢いは見る間に7〜80丈は進み、行く手に立ちはだかる大鳥居まで早半分という所にさしかかっていた。
「竜!」
大声で叫ぶ伝六の声に、弥太も跳ね起きた。
「どうした!」
弥太はそれまで居眠りしていたとは思えないような、迅速(じんそく)な反応を示した。
「竜が……」
二の句を継げない伝六に、弥太はイライラしながら隣に立つと、伝六の指差す方向を見た。
「……何やってんだ? あいつ……」
「わからないよ……。急に飛び込んじまって……」
おろおろするばかりの伝六をよそに、弥太はじっと竜の泳ぐ先に目を凝(こ)らした。そして、大鳥居の辺りで沈みかけた小舟の上から誰かが助けを求めているのをようやく見つけた。
どうやら伝六と同じくらいの年恰好(としかっこう)の少年らしい。
「あれだな……。誰か溺れてるぞ」
「えっ?」
弥太の指差す先を伝六も見るものの、よくわからない。
「しかし、間に合うか……」
つい先ほどまでは艫(とも)も舳先(へさき)もはっきり見えていたものが、もはやそこに小舟があるとは認められないほどに、その外形の大半を海中に沈めていた。
船上の少年は足許を満たす海水をかい出そうと虚しい努力を続けるも、とても追いつかず、不意に釣り合いを失い舟が傾くや、もんどり打って海中に投げ出された。
それでも、しばらくは手足をジタバタさせてもがいていたのだが、とうとう力尽きたのか……、ついに姿が見えなくなった。
「まずい!」
あの様子ではお世辞にも水練に長(た)けているとは言い難く、一度、海中に引きずり込まれれば……、それは火を見るより明らかであった。
事は寸刻を争う。しかし、これほど遠く離れていては手の打ち様もない。
固唾(かたず)を呑んでただ成り行きを見守るばかりの弥太の目に、天に向けて突き上げられるように浮かび上がった少年の姿が飛び込んで来たのは、それから程なくのことであった
「よし!」
思わず手を打ち歓声を上げた弥太に、傍らの伝六も引きつらせていた頬を安堵にホッと緩ませた。
「それにしても、あいつ、とんでもねえやつだな……」
やがて、少年を背に社を目指して進み始めた黒い影――それを弥太は心持ち誇らしやかに眺めていた。
|