龍王の住む宮 (弐)
 
   
  「大変にございます! 若君の一大事!」
 年若い侍が息せき切って駆け込んで来た。
「何事だ!」
 
 そう答えたのは平清盛
――
 一介の地下
(じげ)侍から、度重なる政争の混乱に乗じて目覚しい躍進を遂げた大立者。齢(よわい)五十を迎えたこの春には、ついに太政大臣にまで上り詰め、その官職名を意味する唐名から世に平相国(へいしょうこく)と呼ばれるその人である。
 
 今上帝も春宮も共に頑是無
(がんぜな)い幼君にして、摂関家の威光もかつての勢いは失われた当節、この国の最高権力者たる地位にあることは周知の事実であった。
 
 平素はその威厳をことさら誇示するかのように悠然と構えている清盛だったが、この時ばかりは思いがけない急報に俄かに浮き足立った。
 
「重衡
(しげひら)様が浜にあった小舟に乗り込まれ、折悪く満ち潮で流された由……
「何と!」
 清盛の顔からサッと血の気が引いた。
 
「乳母子
(めのとご)の盛長(もりなが)が告げ戻って参りました」
「それで、いかがしたのだ!」
「お救い参らせんと、只今舟を出させております!」
「わしも参るぞ!」
 言うなり清盛が立ち上がったところに、また別の侍が駆け込んで来た。
 
「重衡様、御無事に戻られましてございます!」
「何! それは真か!」
「はっ! 今は、北の方様が御覧になっておいでにございます」
 清盛は安堵して、再びどっかと腰を下ろした。
 
「偶々近くを通りかかった者がお救い致し、この社までお連れ申したとのことにございます」
「それはいかような者なのだ?」
 寸暇
(すんか)を与えぬ主の問い掛けに、侍はふと言い淀んだ。
 
「それが
……、京の商人で玄武……とか申しておりました」
 清盛の目が一瞬鋭い光を見せた。
 
……玄武? はて、聞いたことのある名だ。して、その者は?」
「筑紫より京に参る途上にて、本日は御参詣の旨を聞き及び、献上の品を持参致して社に参っておったようにございますが
……、この騒ぎで明日改めて参上致したいと申し置いて、既に引き上げましてございます」
 侍は言い終えて、清盛の顔色を伺った。
 
「そうか
……。では、直ちにその者に遣いを出し、明日はこの相国がじかに目通りを許すと……、さよう申し伝えよ」
 清盛の即座の下知
(げち)に、侍は畏(かしこ)まって平伏した。
   
 
 
 
   
 
 
   日も暮れかけた宵、仰々しいまでの使者が玄武の船にやって来て、『明朝参上するように』との清盛の言葉を伝えて帰って行った。
 
「しかし、驚いたよな。まさか平家の若君だったとはな
……
 遣いの侍が引き上げて行くのを見送りながら、伝六はひどいはしゃぎぶりだった。
 
「凄かったもんな、竜のやつ
……。あんな遠くで溺れていた若君を見つけてさ……。俺らなんか、そばで見ていても全然気づかなかったんだから……。おまけに物凄い勢いで泳いで行って助けちまうし……
 伝六は昼間の光景を思い返すうちに、自然と声高になった。
 
「もう少し、静かに喋れよ!」
 弥太は呆れながら、伝六の頭を軽く小突
(こづ)いた。
「痛えな
……。何するんだよ!」
 伝六は恨めしげに弥太をにらみ返す。
「竜のやつが眠ってんだ。静かに寝かせておいてやれ
……
 言われて、伝六も船のすみで石のように眠り続ける竜に目を向けた。
 
 あれほどの距離を一気に泳ぎ切るのは、やはりかなりの無理があったのだろうか。社に程近い浅瀬にたどり着いた時には、もはや力尽きて動けなくなっていた。
 そこに運良く玄武が居合わせ、少年は玄武が水を吐かせるなどの処置を施して事無きを得たのである。
 
 そして、間もなく駆けつけた平家の侍に少年の身柄を引き渡すと、玄武は参詣も取り止め、昏倒
(こんとう)する竜を連れて船に戻って来たのだった。
 
「えらいことになったのう
……
 寿老は船べりで酒をあおりながら、玄武の顔をのぞき見る。
「平相国殿、直々のお招きとは
……。竜のやつ、とてつもない大物を釣り上げたものよ……
……
「これで六波羅への出入りの許しが出れば、もはや京で恐いものはない
……
 いつになく寿老は饒舌
(じょうぜつ)だった。
 
「そのように大それたことなど
……
……
「今まで通りの商いができれば
……、それ以上は何も望まん」
 玄武は自分の上っ張りを竜に掛けてやりながら、しばしその安らかな寝顔に見入っていた。
「相変わらず欲のない男よのう
……
 寿老は苦笑を浮かべつつ、さらに酒を口に運んだ。
 
「いくら儲けても手に入れたい物があるわけでもない
……。金は稼げば稼ぐほど虚しさを覚えるばかりだ……
 そうつぶやいて玄武は寿老に視線を移した。
 
「皆が食って行けて
……、おまえの酒代が出ればそれで十分だ……
 聞きながら、寿老は不覚にも目からこぼれそうになるものをこらえるように天を振り仰いだ。
 
 この日の澄んだ夜空には幾千もの星々が瞬
(またた)いていた。
 その星のきらめきの下で、いったいどんな夢を見ているのか
……。竜の寝顔はどこまでも穏やかで、満ち足りたような微笑を浮かべていた。
 
 
  ( 2003 / 07 / 07 )
   
   
 
   
 
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