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龍王の住む宮 (四) |
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「忠高(ただたか)……」
清盛への拝謁を済ませ、控えの間に戻ろうとする玄武を呼び止める声があった。
「やはり、そなたであったか……」
向けられた眼差しにはどこか懐かしむような風情がにじむ。
権大納言平重盛――
温厚篤実(おんこうとくじつ)な人柄は平家嫌いの公卿の間でもすこぶる評判がよく、31歳の男盛りを迎えた今、誰もが認める清盛の後継者であった。
「お久しゅうございます……」
玄武は恭しく頭(こうべ)を垂れた。
「よもや、このような所で出会おうとはのう……。あれから既に、十年余りにもなるものを……」
重盛の目は、遠い昔に思いを馳せるかのように、感慨深げだった。
「侍を捨て、我らの前から姿を消したそなたが、風の噂に商人として身を立てていると聞いてはいたが……」
「……」
「しかし、私などよりずっと、ものゝふの心を持ったそなたが……、とても俄かには信じられなかった……」
重盛の感傷じみたつぶやきをしばらく黙って聞いていた玄武だったが、やがて、
「大納言様、どうかその話はもう……」
そう切り出して、重盛の昔語りを遮った。
「忠高という名も、侍を捨てた時に共に捨てましてございます……。今は一介の商人、玄武に過ぎませぬ」
「……」
「浮草の如き暮らしがすっかり身についた某など、いずれ天下を担う任にあるお方に物を申せる立場ではございませぬが……、どうかこれ以上の情けはご無用に願います」
玄武の毅然とした言に、重盛もすぐさま衿(えり)を正した。
「過ぎた日は戻りはせぬか……」
いつしか重盛の面持ちも、公卿らしい風格を漂わせるものに変っていた。
「玄武、京に戻ったら、小松谷の我が館にも顔を見せよ……。商いの話であれば、差し支えあるまい……」
畏まって黙礼する玄武に、重盛も小さくうなずいてみせた。
「間もなく舞楽の奉納も始まろう。本日は無礼講。父相国自慢の内侍(ないし)の舞をその方らもとくと見て参るがよい」
そう告げて背を向けた重盛を玄武は腰を落として見送った。
が、この時、玄武の脳裏には先ほどの言葉とは裏腹に、過ぎ去りし日々の記憶が鮮やかに甦っていた。
(まだ忘れられぬのか……)
とうに捨て去ったはずの……、見果てぬ夢――。その幻影に釣り込まれそうになるのをようやく踏み止まり、玄武は竜の待つ控えの間に急いだ。
ところが控えの間に戻ってみると……、そこに竜の姿はなかった。
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「兄上、お約束にございます!」
「……約束? 何のことだ?」
控えの間で玄武を待っていた竜は、再びどこからともなく聞えてきた遣り取りに誘われるように、庭に降り立っていた。
「腰刀をお返し下され!」
茂みの奥で、水干の少年が若い公達に訴えかけていた。昨日、竜が助けた重衡(しげひら)である。そして、どこか神経質そうな面立ちをした公達は兄の宗盛(むねもり)。当年21歳になる。
「あの小船に見事乗ってみせれば、返して下さると……、さよう仰せになられたではありませぬか!」
「見事、向こう岸まで渡ってみせよと申したのだ。それを途中で溺れて名も無き民草(たみぐさ)に助けられるとは……、情けない限りじゃ……」
宗盛は平然と言い捨てた。
「しかし、あの船は始めから底に穴が開いておりました。とても向こう岸にたどり着けるものではありませぬ!」
重衡はなおも食い下がるものの、宗盛は素知らぬ顔で聞き流すばかりだった。
「兄上……、返してやってはいかがです?」
そばにいた知盛(とももり)が、思い余って二人の間に割って入った。宗盛には5歳下の弟、重衡には4歳上の兄になる。
「何と……」
急に宗盛は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せた。
「約束は約束――。そもそも、父上が重衡にお与えになったものを……、兄だからと申して取り上げるのはおかしゅうございます。ここは重衡の手に返してやるのが筋というものにございましょう……」
知盛は年に似合わず、理路整然とした道理を説いた。
「そなたまで重衡の味方を致すのか!」
宗盛はカッと頭に血が上り、脇に差していた腰刀を手にすると、憎々しげに茂みの中に投げつけた。
「それほど欲しくば庭中這(は)いつくばって捜すがよい! 知盛、手伝うでないぞ! 重衡一人で捜すのだ! よいな!」
そう吐き捨てて、宗盛は足早に立ち去った。
「兄上にも困ったものじゃ……」
知盛は半ば呆れ顔で宗盛の後ろ姿を見送った。
「宗盛の兄上は重衡のことがお嫌いなのじゃ……」
重衡は淋しげにつぶやきながら、宗盛が投げつけた茂みに向かって歩き出した。
「そうではない。兄上は……、御自分があの腰刀を戴けるものと思うておられたのだ……。ところが、父上はそれを重衡にお与えになった。そのことを腹立たしく思っておいでゆえ、あのようなご無理を仰せられるだけのこと……」
知盛は慰めつつ諭すものの、重衡は、日頃から宗盛とはそりが合わないこともあって、素直にそれを聞き入れることはできなかった。
ところで、宗盛・知盛、そして重衡はいずれも清盛の正室時子を母とする同母の兄弟である。
嫡男の座に就く異母兄重盛は当然敬わなくてはならない存在ではあったが、共に育ったこの三人の中にあっては、正室腹の長子ということもあり、宗盛の位置は格段に高いものと言ってよかった。
知盛にしても、兄の理不尽を真っ向から諌言(かんげん)できる立場ではなく、兄と弟の間に立っていつも歯痒い思いをしていた。
「大丈夫にございます! 重衡一人で捜してみせまする!」
心優しい兄を困らせまいと、重衡も気丈に笑って見せた。
「そうか……。私とて兄上にこれ以上は逆らえぬからな。許せよ……」
じきに知盛も宗盛の後を追って行った。
一人になって、急に心細い思いが擡(もた)げてくるのを無理に追い遣り、重衡は茂みに分け入った。しかし、件(くだん)の腰刀は容易に見つからない。
「どこに行ってしもうたのだ?」
泣き出しそうになる気持ちをどうにかこらえ、重衡は這いつくばった。
と、その時、きらびやかな細工の施された腰刀がスッと目の前に差し出された。
「……あった!」
重衡は慌ててそれを手に取ると、喜びのあまり小躍(こおど)りした。
が、すぐさま目の前に立ちはだかる大きな影に気づき、差し出されたその手の先をゆっくりと見上げた。
仁王像を思わせる頑強な体躯に、凛々しく彫りの深い容貌――。しかしそれでいて、星のきらめく夜のしじまさながらに、穏やかで清(さや)かな光を宿す黒い瞳――。
重衡は、もしや夢の中の龍王が人の姿を借りてこの俗世界に現れたのでは……と一瞬我が目を疑った。
「おまえは……、龍……か?」
ふと口をついて出た言葉に、その瞳はいっそうの輝きを増して、小さくうなずき返した。
時に平重衡12歳――。
それぞれの運命を大きく変える出会いは、互いにそうと気づくことなく、忍びやかに訪れていたのであった。
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( 2003 / 07 / 07 ) |
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