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ようやく神護寺の門前にたどり着いた時には、既に昼近くになっていた。
「噂通りのボロ寺だな……。伝六ではないが、真に何か出て来そうだ……」
重衡は薄気味悪そうにつぶやいた。
「行くぞ……」
一人先に立ち、歩を進める竜に、重衡も遅れまいと、慌てて後を追った。
よく通る、低い読経(どきょう)の声が聞こえて来る。
かすかに差し込む光が、幾重にも重なる木立の間に、奇妙な陰影を浮かび上がらせ、辺りは不気味な空気に包まれていた。
初めは、物珍しそうに眺め回していた重衡も、だんだん腰が退(ひ)けて来て、庵の中に入る頃には、竜の後ろに、ピタリとくっ付いていた。
「何用じゃ……」
文覚は、振り返りもせずに、問い掛けて来た。その地を這(は)うような重々しい声に、重衡の緊張もさらに高まる。
「玄武の頭からの届け物を持参しました」
竜は臆することなく答えた。
「それはかたじけない……。しかし、玄武はどうした?」
なおも、文覚は背を向けたままだった。
「頭は、今は福原に……。相国殿のお供で……」
「天下の平相国殿の寵厚い御用商人か……」
出家して後の平相国入道清盛は、一年の大半は京の六波羅を離れ、摂津国は福原の庄に起居していた。
莫大な財を生み出す宋との貿易を、より活発なものとするため、京に間近い福原にある大輪田(おおわだ)の泊(とまり)において、直接宋の大型船を乗り込ませることをも念頭に置き、新しい港造りを推し進めていたのである。この壮大な計画には、清盛の信任を受け、勿論、玄武も奔走していた。
そして、この秋、ようやく、宋船の福原入港が、現実のものとなったのである。その宋船とは、かの楊孫徳(やん・そんとく)のものであり、無論、これも玄武の仲介によるものだった。
さらには、宋人が来航するということで、かねてよりの後白河院の要望でもあった、異国人との接見を実現するべく、御幸(ごこう)を仰ぐことにもなったのである。
しかし、長年にわたり、異人と交わることを忌み嫌ってきた京の人間からすれば、やんごとない高貴の身の上にある院が、直に対面を許すなどもっての他、仮に、それを『天魔(てんま)の所為(しょい)』と囁(ささや)かれたとしても、致し方のないことであった。
元より、その噂を知る文覚の言葉の裏には、暗にそれを謗(そし)るものが感じられた。
「その辺の隅にでも、置いておけ」
ようやく向き直った文覚に言われるままに、竜は庵の片隅に荷を降ろした。その間に、後ろに隠れていた重衡の姿が露(あらわ)になるや、文覚はこれを舐(な)めるように眺め回していた。
「この前来たのとは、違うやつよな……」
ふいをつかれて、重衡も一瞬怯(ひる)んだものの、
「平重衡、高雄の天狗殿の正体を見に参った!」
必死に虚勢を張って、ようやくそれだけ言えた。瞬間、目を丸くした文覚だが、やがて、大声で笑い出した。
「おもしろいお人よのう……。平相国の五郎殿は……」
文覚の高笑いに、重衡はふっと力の抜ける思いだった。
「私を存じておるのか?」
「かような山里におっても、京の内のことなら、大抵は存じておる……」
文覚は平然と答えた。
「妖しい術を使うというのは真か? 飛ぶ鳥を、その手に触れずして、射落とすことができるとか……」
真顔で問い掛ける重衡に、文覚はつと苦笑を浮かべた。
「残念ながら……、そのようなことはできはせぬ。拙僧(せっそう)とて人の子。いかほどの修行を積んだとて、神にも仏にもなれるものではない……」
さらりと答えた文覚に、重衡は小さく息をついた。
「ただの流言(るげん)であったか……。面白くもない……」
高雄の天狗とあだ名される者が、いかなる超人であろうかと、期待半分、怖さ半分でやって来た重衡だけに、少しばかり拍子抜けの感も否めなかった。
「ところで、竜……」
束の間、和んだ空気も、文覚の発する一声により、瞬く間に、ピンと張り詰めたものに立ち戻っていた。
「……何か?」
文覚が自分に向ける厳しい眼光に、竜はただならぬものを感じた。
「お前は玄武と会う以前……、そう、筑紫に流れ着く前は何をしていたのだ?」
「えっ?」
唐突な問い掛けに、竜は言い淀んだ。
「何処(いずく)よりこの国に参った?」
その語調は、いたって穏やかながら、挑みかかるような鋭さで迫り来る視線の呪縛に、竜は完全に圧倒されていた。
「わからない……。気がついた時には、筑紫の浦に打ち上げられていた……。それより前のことは……」
「……憶えていないのか?」
竜はためらいがちにうなずく。
「知りたいか?」
「……」
「己が何者で、どうしていたのか……」
竜は戸惑いを浮かべつつ、やっとの思いで視線をそらすと、
「今はもう……、どうでもいいことだと思っている。それに、今さら知ったところで、どうなるものでもない……」
そう答えて、再び文覚の目をしかと見返した。
「恐いか?」
「……」
「知れば、ようやく見つけた安息の場所を、失うことになるやもしれぬと……、そう思っているのではないのか?」
「そんなことは……」
文覚は、やにわに竜の右手をつかんだ。見掛けによらず力が強い。そして、竜が抗う間もなく、二の腕を露にして見せていた。
(これは……)
突如、その目に飛び込んできた青龍の紋に、重衡は我知らず驚愕を覚えた。
「おまえがいかに目を背けようとも、この青龍は、これからも容赦なく、過酷な試練を与えるであろう……。それに耐えて行けるか!」
刃の如き鋭い冴えを見せる文覚の眼光にも、竜は怯(ひる)むことなく、真正面から受け止める。
「これ以上、どんな試練があるというのだ!」
竜の目にたぎる怒りの炎―― それは、これまで一度として重衡には見せたことのない激情であった。
「この姿形(すがた・かたち)のために蔑(さげす)まれ、嫌というほどの屈辱を味わった……。この上、何を……」
言葉に詰まり、力なくうなだれた竜に、文覚はさらに追い打ちをかける。
「己の大事に思うものを、ことごとく失う定め……。いずれ、この重衡殿とも相容(あいい)れぬこととなろう……。あるいは、その対立の炎が、いつの日か、互いを焼き滅ぼすことにもなるやもしれぬ」
「何だと! この私が竜と……? 馬鹿馬鹿しい!」
今度は、重衡の方が、文覚に食ってかかる番だった。
「なぜ、我々が対立などせねばならぬのだ! 冗談ではない!」
重衡は吐き捨てて、顔を背けた。
「人の心は移(うつ)ろい行くもの……。今のまま、生涯を通すことなど、所詮(しょせん)できぬことじゃ……。立場が変われば、己の大事とするものも、自ずと変わり行く……、それが道理というもの……」
「そのようなことはない! いかなることがあろうとも、竜はこの重衡にとって、ただ一人の友ぞ! この思いは、決して変わりはせぬ!」
きっぱりと言い放った重衡に、竜は大きな驚きを胸に、双眸(そうぼう)を見返した。
その自信に満ちた眼差し――これには、さしもの文覚すらも呆気に取られ、絶句するほどだった。が、さりとて、それしきのことで動揺する文覚でもない。
「いずれわかる時が来よう……。嫌というほど、思い知らされる時がな……」
全てを達観したかのような物言いに、重衡は、いや増す苛立ちを抑えることができなかった。
「いったい、いつの話だ!」
「そう遠いことではあるまい……」
淡々と答える文覚を、重衡は忌々(いまいま)しげに見据えた。
「よくわかったぞ……。何が『刃の験者』だ! 高雄の天狗殿は、予言者気取りの、大騙(おおかた)りぞ!」
思いつく限りの罵声(ばせい)を吐いて、重衡は踵(きびす)を返した。が、その背に、文覚はまたも嘲笑(ちょうしょう)を浴びせた。
「気の短いお人よのう……」
重衡は、腸(はらわた)の煮えくり返るような思いを、どうにか噛み殺して向き直った。
「御身は『生者必滅(しょうじゃ・ひつめつ)』という言葉を御存じか?」
文覚は穏やかに問い掛けた。
「知らぬ! それがどうした!」
「春を誇らしげに彩(いろど)る桜も、いつかは散る……。命あるものは、必ず消え失せる時が……、その自然の摂理に逆らうことはできぬ。それは、人の営みもまた然り……。いかなる栄えも、いつかは翳(かげ)りを見せ、滅び行く定め……。何人(なんびと)もそこから逃れることはできはせぬ……」
濤々(とうとう)と語る文覚に、ついに重衡の堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒も切れた。
「よもや、平家が滅ぶとでも申すのか!」
「いかにも……」
文覚は平然と答えた。重衡は憤怒(ふんぬ)に燃えさかる熱い目で、しばし文覚を見据えていたが、やがて、無言のまま、庵を後にした。
「なぜ、そのようなことを申される!」
竜はことさら咎(とが)めるように、文覚に詰め寄った。
「せめてもの、わしの情けじゃ……」
「……」
「何の前触れもなく、不幸が押し寄せて来たのでは、あまりに気の毒だからのう……」
「……」
「まともな目を持っておれば、誰にでもわかることだ……。平家の天下など、そう長くは続かぬ。そのことに気づかぬは、当の平家一門ばかり……」
文覚の目には、もはや、からかいの色はない。瞬時に、竜の胸の内にも、不吉の影が広がっていた。
「竜よ……。おまえもよく見ておくがいい……。この谷を彩る紅葉のように鮮烈な……、しかし、それもほんの束の間の夢と散るであろう、平家の世の隆盛をな……」
文覚の説法もそこそこに、急ぎ庵を辞して、重衡の後を追おうとした竜は、外に広がる緋色の木立を目にした途端、突如として、強い眩暈(めまい)に襲われた。
色づく紅葉の枝々が、たちまち紅蓮(ぐれん)の炎となって襲い掛かってくる……。全てを焼き尽くすかと思えるほどの火焔(かえん)渦巻く中を、逃げ惑う人々、耳なりのようにこだまする悲鳴――。
(これは……、何なのだ?)
錯覚(さっかく)だとはわかっていても、地獄絵さながらの光景を前にして、竜は、茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)に陥(おちい)っていた。
「竜……?」
すぐさま、異変を察した文覚が呼び止める。が、竜はそれにどうにか反応して振り返ったものの、焦点の合わぬ視線は宙をさまよい、目前の文覚の存在すら、認めることができずにいた。
「いかがしたのだ!」
いくら問い掛けても、なおもぼんやりとした眼差しを向けるだけの竜に、文覚はつと歩み寄ると、その両肩をがしりと掴(つか)んで、幾度となく、大きく身体を揺さぶった。
「何を見たのだ? 竜……」
ようやく正気づいたのか、竜は急に頭を抱えて、その場にうずくまった。
「何も……、何も見てはおらぬ……」
うわ言のようにつぶやいて、竜は何度も頭を横に振る。
「そうではあるまい! さほどに、恐ろしきものであったのか……? おまえはその目で、いったい何を見たのだ?」
執拗(しつよう)に問い続ける文覚にも、竜はどうしても、その答えを口にすることができない。
「何を見たか……、今はもう、それも思い出せぬ! ならば、見てはおらぬのと同じことであろう!」
偽りではなかった。どんなに思い出そうとしても、今となっては何も思い出せない……。
あるいは、あの瞬間に襲った衝撃の激しさが、無意識の内に、竜に自らの記憶を封印させてしまったのかもしれない。
「行かねば……、重衡が待っている……」
竜は慌てて立ち上がると、どこかおぼつかない足取りで、ふらふらと庵から出て行った。
それを無言で見送りながら、文覚は、内心ほくそ笑んでいた。
(やはり、あやつは……、只の者ではあるまい……)
おそらく、竜の見た幻は、己が示唆(しさ)した通りの未来を描いた縮図(しゅくず)そのものであろう。そして、それがいかに凄惨(せいさん)極まりないものであったか……。あの取り乱し様を見れば、疑う余地はなかった。
「それにしも、平重衡か……。惜しいのう……。おぬしが総領であったなら……、あるいは、平家一門の命運も変わったやもしれぬに……」
悲嘆とも苦笑ともつかぬ淋しげな声が、薄闇の静寂の中に響いた刹那(せつな)……、そのわずかな余韻も、吹き渡る風の音に、じきに掻き消されていた。
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