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春の浮き立つ心を映すように、都の大路は多くの庶民が行き交い、様々な出店が軒を連ねる市も、大いに活気ある賑(にぎ)わいを見せていた。そして、その中には、雑仕女(ぞうしめ)に身をやつした茜の姿もあった。
初めてのお忍びのこと、目にするもの全てが新鮮で、その驚きの連続に、まるで幼な子のようなはしゃぎようである。竜も、こんなに生き生きとした茜を見るのは、実に初めてのことだった。
「市には色々なものがあって、色々な人がいて……。なんて素敵なの!」
茜は、あふれんばかりの笑顔を竜に向けると、気まぐれな蝶のように、あちらへこちらへと飛び回った。そして、竜は、そんな茜の姿を、ただ黙って見守っていた。というよりも、言葉が出なかったという方が正しいだろうか……。
年が明けて、17になった茜は、近頃とみに大人びて来た。それこそ、蛹(さなぎ)が蝶となるが如く――その艶やかな姿に触れる度に、竜は息苦しいほどの胸の疼(うず)きに襲われ、束の間、我を忘れそうになることも、しばしばであった。
「……どうしたの?」
いつのまにか、茜は竜の顔を、まじまじとのぞき込んでいた。
「さっきから、ずっと黙ったまま……」
「いや……。こんなことをしていて、本当にいいのかと思って……」
ようやく我に返り、慌てた竜は、要領の得ない答えを返した。
「相生が、うまくやってくれているわ……」
茜は、まるで意に介さない体で、ケロリと答える。
「父上は福原だし、母上も、今日は法住寺殿の女院様をお訪ねして、留守ですもの。ほんの少しの間、館を抜け出したところで、誰も気づきはしないわ」
そう言って、茜は築地(ついじ)に身をもたせて、天を仰いだ。
「何だか、空が高く見えるわ……。まるで、別の世界に迷い込んだみたい……」
やわらかな春の日ざしを浴びた茜は、いっそう輝いて見え、竜の目には、まぶし過ぎるほどであった。
「ずっと、こうしていられたら……」
ふいに、茜の目に小さな影がさした。
「どうして、私は普通の娘に生まれなかったのかしら……。こうして町の小路を、自由に歩くことさえ許されないなんて……」
「……」
「わかっているわ。わがままを言っていることぐらい……。それでも……、やっぱり、ここにいる誰もが羨(うらや)ましい……」
贅(ぜい)の限りを尽くした館で、目にも彩な衣(きぬ)、芳(かぐわ)しい香、美しい調度――そんな世の娘達が、憧れてやまないものに日々囲まれながら、それでもただ一つ、どうしても手にすることのできないもの……。しかし、それが今の茜には、人として、何よりも大事なもののように思えてならなかった。
「重衡も……、前に同じようなことを言っていたな。六波羅に閉じ込められた籠(かご)の鳥だと……」
それを聞いて、茜は少し驚いた顔をした。
「そう……。私から見れば、あの子も十分自由なのに……」
「……」
「人って欲張りね……。自分が手にしたものだけでは、どうしても満足できなくて……、『もっと、もっと』と望んでしまう……。どんなに恵まれていても、どこか満たされない思いが、胸の内に広がって……」
切なげに虚空(こくう)を見つめる茜に、竜はかける言葉も思いつかず、黙ってうつむくしかなかった。
「やめましょう、こんな話。せっかくの楽しみが、台無しになってしまうわ」
そう言って、茜は竜に笑いかけた。が、竜は笑みを返すことはできなかった。
「やっぱり、もう戻った方がいい……」
「大丈夫よ。それに、今戻ったら……、相生の邪魔をしてしまうわ」
「……相生の?」
怪訝に見返す竜に、茜は意味ありげな笑いを浮かべる。
「気づかなかった? 相生は……、重衡のことが好きなのよ」
「……相生が、重衡のことを?」
唐突な話に、竜は驚きを通り越して、呆気に取られていた。
「竜は、そういうことには疎(うと)いものね」
自分はさもわかったふうな顔をして笑う茜に、竜はいささかムッとした。
「相生は、子供の頃から、ずっと、重衡だけを見て来たの……。でも、分をわきまえ過ぎていて、自分からは、決して思いを伝えることはできない……」
「……」
「きっと今頃、心細そうにしている相生を、重衡が元気づけているわ。あの子のことだから、庫裏(くり)からお菓子でも持ち出して……。二人きりでいられる時間は、少しでも長い方がいいでしょう?」
あっけらかんと語る茜にも、竜の表情は見る間に険しくなっていた。
「残酷だな……」
「……残酷?」
茜は耳を疑った。
「そんなことをしても……、相生につらい思いをさせるだけだ……」
「……どうして?」
茜は平然と問い返す。
「相生は……、自分の立場がよくわかっているから……、だから、重衡への思いを胸の奥に押し込んで、決して悟られまいとするだろう。二人きりでいる時間が、長ければ長いほど、相生の辛さが増すだけだ……」
「……」
「茜はわかっていない……。世の中には、どんなに願っても、どうしても越えることのできない壁があることを……」
珍しく批判めいたことを口にする竜に、茜もつい向きになった。
「そんなことぐらい、おまえに言われなくても、わかっているわ!」
「……」
「でも、放っておけないの……。そりゃあ、重衡が相生を嫌っているのなら、仕方のないことだけど……。でも、重衡もいずれ気づくはずよ。重衡が、相生を好きだという気持ちに、気づきさえすれば……、そうすれば、二人は一緒になれるもの!」
感情のままに声を荒げる茜に、竜は瞠目(どうもく)した。
「重衡に許されて、私には許されないこと……。私はいつか、父上の思う人の許に嫁がされるの。異母妹の盛子も、わずか9歳で摂関家に嫁いだわ。女には、何一つ選ぶことは許されず、ただ、決められた通りの道を行くことしかできない……。でも重衡は……、あの子が心からそれを望みさえすれば……、どんな身分の娘であっても、結婚できるのよ。それだけでも、私は重衡が羨ましいわ……」
茜の悲痛な叫びにも、竜はただ黙って、耳を傾けることしかできなかった。
「若い娘なら、誰もが憧れる恋にも、私はずっと、目を背けていなくてはならないのよ。だって……、恋しても、きっと、叶えられることはないのですもの……。そんな辛い思いをするぐらいなら……、初めから、恋なんてしない方がましだわ!」
これまで誰にも言ったことのない、その心に抱える悲しみ――。誰かに聞いてほしいと、思い続けてはいた。
しかし、父や母はもちろん、乳母(めのと)にさえも言えなかった本心を、いくら感情的になっていたとはいえ、あろうことか、竜の前で口走ってしまったことに、当の茜自身が戸惑っていた。そして、自分の言ったことの意味を考えると、急に恥ずかしさが込み上げてきて、とても竜の顔を直視することはできなかった。
一方、竜もまた、貴族の世界の複雑なしがらみを知らずに、思慮の無いことを言ってしまったと、悔やんでいた。いつも無邪気な笑顔を向ける茜に、よもや、そんな苦しみが渦巻いているとは、思いもよらぬことだった。
しかし、それを知ったからといって、竜に何ができるわけでもなく、今さら慰めの言葉さえも、空々しいような気がした。
「そろそろ帰ろう……」
茜の気持ちが、少し落ち着くのを待って、竜は優しく声をかけた。
「はしゃぎ過ぎて、疲れたろう……」
そう囁(ささや)いて、茜の顔をのぞきこんだ竜だったが、頬をつたう一筋の光るものを認めて、呆然となった。
「……茜?」
突然の茜の涙は、竜をひどく狼狽(ろうばい)させた。こうなると、もう何を言っていいのかわからない。ただ、貝のように噤(つぐ)んでしまった口が、再び開かれるのを待つより他に手立てもなくて……。
「何でもないの……。驚かせてごめんなさい」
ようやく茜は袖で涙を拭うと、はにかむような笑顔を竜に向けた。そこには、もはや先ほどの涙の意味も、偲(しの)ぶことはできない。
(いったい、何だったのだろうか……)
まるで狐につままれたような出来事に、竜は釈然としない思いで、首をかしげた。
「さあ、行きましょう」
竜の困惑など気にも留めず、一人、先に歩き出した茜に、竜も慌てて後に従った。
やはり、どこか気まずさもあってか、茜は竜を顧(かえり)みることなく、終始無言だった。しかし、間もなく、洛中を抜けようかという辺りで、ふと、竜が歩みを止めたのには、聡(さと)く気づいて振り返った。
「……どうしたの?」
立ち止まったまま、竜はじっと空を見つめていた。
「……竜?」
「雨になる……」
「……えっ?」
茜も空を見上げた。しかし、日が燦々(さんさん)と降りそそぐ様子には、何ら変わりもなく、雨が降る気配など、全くといっていいほど感じられなかった。
「こんなにいいお天気なのに?」
茜は怪訝そうに問い返す。
「急ごう!」
竜は、急に茜の腕をつかむと、四の五の言わせず、乱暴に引っ張った。その強引さには、さすがに茜も仰天していた。が、やがて、賀茂川のすぐ近くまでやって来た所で、突如として、凄(すさ)まじいばかりの轟音(ごうおん)が大地を揺るがした。
「キャー!」
茜は耳を押さえてその場にうずくまる。2度目の雷鳴が轟(とどろ)く頃には、一転して、黒雲に覆われた空から大粒の雨も降り出して来た。あまりの急変ぶりに、茜は足がすくんで立ち上がることもできない。
「大丈夫だ! 茜!」
竜は急いで自分の上着を脱ぐと、茜の頭からすっぽりと被(かぶ)せ、両肩を抱きかかえた。その強い腕の力に、茜の震えも止まった。
「少し走るぞ!」
茜は夢中でうなずいた。そして、降りしきる雨の中を、ただもう、引きずられるように懸命にひた走った。
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