春 雷 (弐)
 
   
   春の浮き立つ心を映すように、都の大路は多くの庶民が行き交い、様々な出店が軒を連ねる市も、大いに活気ある賑(にぎ)わいを見せていた。そして、その中には、雑仕女(ぞうしめ)に身をやつした茜の姿もあった。
 
 初めてのお忍びのこと、目にするもの全てが新鮮で、その驚きの連続に、まるで幼な子のようなはしゃぎようである。竜も、こんなに生き生きとした茜を見るのは、実に初めてのことだった。
 
「市には色々なものがあって、色々な人がいて
……。なんて素敵なの!」
 
 茜は、あふれんばかりの笑顔を竜に向けると、気まぐれな蝶のように、あちらへこちらへと飛び回った。そして、竜は、そんな茜の姿を、ただ黙って見守っていた。というよりも、言葉が出なかったという方が正しいだろうか
……
 
 年が明けて、17になった茜は、近頃とみに大人びて来た。それこそ、蛹
(さなぎ)が蝶となるが如く――その艶やかな姿に触れる度に、竜は息苦しいほどの胸の疼(うず)きに襲われ、束の間、我を忘れそうになることも、しばしばであった。
 
……どうしたの?」
 いつのまにか、茜は竜の顔を、まじまじとのぞき込んでいた。
「さっきから、ずっと黙ったまま
……
 
「いや
……。こんなことをしていて、本当にいいのかと思って……
 ようやく我に返り、慌てた竜は、要領の得ない答えを返した。
 
「相生が、うまくやってくれているわ
……
 茜は、まるで意に介さない体で、ケロリと答える。
「父上は福原だし、母上も、今日は法住寺殿の女院様をお訪ねして、留守ですもの。ほんの少しの間、館を抜け出したところで、誰も気づきはしないわ」
 そう言って、茜は築地
(ついじ)に身をもたせて、天を仰いだ。
 
「何だか、空が高く見えるわ
……。まるで、別の世界に迷い込んだみたい……
 やわらかな春の日ざしを浴びた茜は、いっそう輝いて見え、竜の目には、まぶし過ぎるほどであった。
「ずっと、こうしていられたら
……
 ふいに、茜の目に小さな影がさした。
 
「どうして、私は普通の娘に生まれなかったのかしら
……。こうして町の小路を、自由に歩くことさえ許されないなんて……
……
「わかっているわ。わがままを言っていることぐらい
……。それでも……、やっぱり、ここにいる誰もが羨(うらや)ましい……
 
 贅
(ぜい)の限りを尽くした館で、目にも彩な衣(きぬ)、芳(かぐわ)しい香、美しい調度――そんな世の娘達が、憧れてやまないものに日々囲まれながら、それでもただ一つ、どうしても手にすることのできないもの……。しかし、それが今の茜には、人として、何よりも大事なもののように思えてならなかった。
 
「重衡も
……、前に同じようなことを言っていたな。六波羅に閉じ込められた籠(かご)の鳥だと……
 それを聞いて、茜は少し驚いた顔をした。
 
「そう
……。私から見れば、あの子も十分自由なのに……
……
「人って欲張りね
……。自分が手にしたものだけでは、どうしても満足できなくて……、『もっと、もっと』と望んでしまう……。どんなに恵まれていても、どこか満たされない思いが、胸の内に広がって……
 
 切なげに虚空
(こくう)を見つめる茜に、竜はかける言葉も思いつかず、黙ってうつむくしかなかった。
 
「やめましょう、こんな話。せっかくの楽しみが、台無しになってしまうわ」
 そう言って、茜は竜に笑いかけた。が、竜は笑みを返すことはできなかった。
 
「やっぱり、もう戻った方がいい
……
「大丈夫よ。それに、今戻ったら
……、相生の邪魔をしてしまうわ」
……相生の?」
 怪訝に見返す竜に、茜は意味ありげな笑いを浮かべる。
 
「気づかなかった? 相生は
……、重衡のことが好きなのよ」
……相生が、重衡のことを?」
 唐突な話に、竜は驚きを通り越して、呆気に取られていた。
「竜は、そういうことには疎
(うと)いものね」
 自分はさもわかったふうな顔をして笑う茜に、竜はいささかムッとした。
 
「相生は、子供の頃から、ずっと、重衡だけを見て来たの
……。でも、分をわきまえ過ぎていて、自分からは、決して思いを伝えることはできない……
……
「きっと今頃、心細そうにしている相生を、重衡が元気づけているわ。あの子のことだから、庫裏
(くり)からお菓子でも持ち出して……。二人きりでいられる時間は、少しでも長い方がいいでしょう?」
 あっけらかんと語る茜にも、竜の表情は見る間に険しくなっていた。
 
「残酷だな
……
……残酷?」
 茜は耳を疑った。
「そんなことをしても
……、相生につらい思いをさせるだけだ……
……どうして?」
 茜は平然と問い返す。
 
「相生は
……、自分の立場がよくわかっているから……、だから、重衡への思いを胸の奥に押し込んで、決して悟られまいとするだろう。二人きりでいる時間が、長ければ長いほど、相生の辛さが増すだけだ……
……
 
「茜はわかっていない
……。世の中には、どんなに願っても、どうしても越えることのできない壁があることを……
 珍しく批判めいたことを口にする竜に、茜もつい向きになった。
 
「そんなことぐらい、おまえに言われなくても、わかっているわ!」
……
 
「でも、放っておけないの
……。そりゃあ、重衡が相生を嫌っているのなら、仕方のないことだけど……。でも、重衡もいずれ気づくはずよ。重衡が、相生を好きだという気持ちに、気づきさえすれば……、そうすれば、二人は一緒になれるもの!」
 感情のままに声を荒げる茜に、竜は瞠目
(どうもく)した。
 
「重衡に許されて、私には許されないこと
……。私はいつか、父上の思う人の許に嫁がされるの。異母妹の盛子も、わずか9歳で摂関家に嫁いだわ。女には、何一つ選ぶことは許されず、ただ、決められた通りの道を行くことしかできない……。でも重衡は……、あの子が心からそれを望みさえすれば……、どんな身分の娘であっても、結婚できるのよ。それだけでも、私は重衡が羨ましいわ……
 茜の悲痛な叫びにも、竜はただ黙って、耳を傾けることしかできなかった。
 
「若い娘なら、誰もが憧れる恋にも、私はずっと、目を背けていなくてはならないのよ。だって
……、恋しても、きっと、叶えられることはないのですもの……。そんな辛い思いをするぐらいなら……、初めから、恋なんてしない方がましだわ!」
 
 これまで誰にも言ったことのない、その心に抱える悲しみ
――。誰かに聞いてほしいと、思い続けてはいた。
 しかし、父や母はもちろん、乳母
(めのと)にさえも言えなかった本心を、いくら感情的になっていたとはいえ、あろうことか、竜の前で口走ってしまったことに、当の茜自身が戸惑っていた。そして、自分の言ったことの意味を考えると、急に恥ずかしさが込み上げてきて、とても竜の顔を直視することはできなかった。
 
 一方、竜もまた、貴族の世界の複雑なしがらみを知らずに、思慮の無いことを言ってしまったと、悔やんでいた。いつも無邪気な笑顔を向ける茜に、よもや、そんな苦しみが渦巻いているとは、思いもよらぬことだった。
 しかし、それを知ったからといって、竜に何ができるわけでもなく、今さら慰めの言葉さえも、空々しいような気がした。
 
「そろそろ帰ろう
……
 茜の気持ちが、少し落ち着くのを待って、竜は優しく声をかけた。
 
「はしゃぎ過ぎて、疲れたろう
……
 そう囁
(ささや)いて、茜の顔をのぞきこんだ竜だったが、頬をつたう一筋の光るものを認めて、呆然となった。
 
……茜?」
 突然の茜の涙は、竜をひどく狼狽
(ろうばい)させた。こうなると、もう何を言っていいのかわからない。ただ、貝のように噤(つぐ)んでしまった口が、再び開かれるのを待つより他に手立てもなくて……
 
「何でもないの
……。驚かせてごめんなさい」
 ようやく茜は袖で涙を拭うと、はにかむような笑顔を竜に向けた。そこには、もはや先ほどの涙の意味も、偲
(しの)ぶことはできない。
 
(いったい、何だったのだろうか
……
 まるで狐につままれたような出来事に、竜は釈然としない思いで、首をかしげた。
 
「さあ、行きましょう」
 竜の困惑など気にも留めず、一人、先に歩き出した茜に、竜も慌てて後に従った。
 
 やはり、どこか気まずさもあってか、茜は竜を顧
(かえり)みることなく、終始無言だった。しかし、間もなく、洛中を抜けようかという辺りで、ふと、竜が歩みを止めたのには、聡(さと)く気づいて振り返った。
 
……どうしたの?」
 立ち止まったまま、竜はじっと空を見つめていた。
 
……竜?」
「雨になる
……
……えっ?」
 茜も空を見上げた。しかし、日が燦々
(さんさん)と降りそそぐ様子には、何ら変わりもなく、雨が降る気配など、全くといっていいほど感じられなかった。
 
「こんなにいいお天気なのに?」
 茜は怪訝そうに問い返す。
 
「急ごう!」
 竜は、急に茜の腕をつかむと、四の五の言わせず、乱暴に引っ張った。その強引さには、さすがに茜も仰天していた。が、やがて、賀茂川のすぐ近くまでやって来た所で、突如として、凄
(すさ)まじいばかりの轟音(ごうおん)が大地を揺るがした。
 
「キャー!」
 
 茜は耳を押さえてその場にうずくまる。2度目の雷鳴が轟
(とどろ)く頃には、一転して、黒雲に覆われた空から大粒の雨も降り出して来た。あまりの急変ぶりに、茜は足がすくんで立ち上がることもできない。
 
「大丈夫だ! 茜!」
 
 竜は急いで自分の上着を脱ぐと、茜の頭からすっぽりと被
(かぶ)せ、両肩を抱きかかえた。その強い腕の力に、茜の震えも止まった。
 
「少し走るぞ!」
 
 茜は夢中でうなずいた。そして、降りしきる雨の中を、ただもう、引きずられるように懸命にひた走った。
 
 
  ( 2003 / 11 / 21 )
   
   
 
   
 
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