|
「寒くないか?」
温かみのある、穏やかな声音(こわね)を聞いて、茜も、ようやく人心地(ひとごこち)がついた。
突然の雷雨に遭遇して、すっかり気が動転した茜を、竜は少しも慌てず、賀茂川にかかる橋の下へと導いたのだった。
「平気よ。私はほとんど濡(ぬ)れていないもの……。それより、おまえの方こそ、大丈夫?」
「……ああ。こういうことには、慣れてるから……」
そう言って、竜は苦笑を浮かべる。しかし、茜は、その顔をまともに見ることはできなかった。
胸の動悸(どうき)が、いつまでたっても治まらない。走ったせいだろうか……と思っていたものの、こうしている間にも、だんだんと速く、そして、強くなって行くように感じられた。
「夕立だから、じきに止むだろう……」
茜の心の揺らぎになど、まるで気づきもせず、竜はじっと空を見上げていた。
頭からずぶ濡れになって、褐色の肌を雨の雫(しずく)が滑り落ちて行く……。思えば、茜が異性の裸をまともに見たのは、これが初めてのことだった。
日頃、荷運びを生業(なりわい)にしているだけあって、その肉付きの良い体躯(たいく)は、均整が取れて逞(たくま)しい。ほんの少し前まで、この腕に、自分が抱えられていたのだと思い返すだけで、茜の胸の鼓動は、さらに早さを増して行った。
「……どうした?」
やっと、熱っぽい視線に気づいたのか、竜はゆっくりと振り向いた。ふいに目が合うや、どぎまぎして落ち着かない茜の様子に、竜はまた小首をかしげる。茜は、心の乱れを悟られまいと必死だった。
(何か言わなくては……)
そうは思うものの、こんな時に限って、中々、気の利いた台詞(せりふ)が思い浮かばない。
竜の物問いたげな瞳が、いっそう茜の心を掻き乱し……、それでも、いざ、その眼差しが自分の元を離れると、なぜか、淋しさを覚えずにはいられなくて……。
「少し小止みになってきたな……」
その言葉通り、分厚い雲に覆われていた空にも、いくらか明るさが戻り始めていた。
「耳は……、大丈夫か?」
「……えっ?」
「さっきの雷さ……。随分と近かったからな……」
気遣いの言葉とわかっていても、今の茜には、それも、からかい半分に聞こえてしまう有り様だった。
「……そうね。もの凄い音でびっくりしたわ。でも、別に、怖がっていたわけじゃありませんからね!」
そう言って、無理に強がって見せる。が、いくら茜が活発なたちとはいえ、深窓の姫君に変わりはない。あの瞬間に、どれほどの恐怖がその身を襲ったか……、それは抱えた両の手を通して、竜にも十分伝わっていた。
にもかかわらず、そんな様子など、おくびにも出さない……、そこが武門の娘らしい気の強さでもあった。
「それにしても……、夕立が来るって、どうしてわかったの?」
「……えっ?」
「あんなに、いいお天気だったのに……」
茜の何気ない問いに、一瞬、竜は目を見張ったものの、すぐに、またいつもの笑顔が、茜の瞳を捕らえていた。
「風が教えてくれたんだ」
「……風が?」
「船に乗っていると、こういうことはよくある。さっきまで晴れていたと思ったら、急に真っ暗になって、時化(しけ)になることも……。そんな時は、決まって、風が雨のにおいを運んで来る……」
茜には、それこそ雲をつかむような話で、まるで想像もつかないのだが……、それでも、楽しげに語る竜の横顔を見ていると、自然と心も和み、今の今まで胸の内を覆っていた靄(もや)も、急に晴れ渡って行くような、そんな不思議な心地になっていた。
「雨ににおいがあるなんて……、何だか、おもしろいわね」
と笑顔を見せた茜だったが、それとは対照的に、竜の表情が、心なしか暗くなったようにも感じられた。
「……どうしたの? 今度は、竜の顔が曇り空みたいになっているわ……」
茜は冗談めかして言ったものの、竜は小さくため息をついて、茜から目をそらした。
「こんなことが知れたら、タダじゃすまないだろうな……」
「……」
「外に連れ出した揚句(あげく)、雨にも遭わせて……」
ぽつぽつとつぶやく竜に、茜は血相を変える。
「そんな……、大丈夫よ!」
「……」
「竜は何も悪くないわ! 私のわがままに付き合っただけだもの。それに、雨の中でも私を庇(かば)ってくれたわ。何もかもきちんと話せば、父上もわかって下さるはずよ。だから、何も心配しないで!」
「茜……」
「竜のことは、私が必ず守ってみせるわ!」
その真剣な目に、竜は胸を鋭く刺し貫かれたような衝撃を覚えていた。
自らの願うことなら、たとえ平相国と恐れられる父でも、必ず聞いてくれる……、茜はそう信じて疑いもしない。それは、父に愛されているのだという自負、絶対無比の自信があってこそ言えることだった。裏を返せば、ただの思い上がりに過ぎないのだが……。
それでも、竜は、そんな一途なまでの純真さに、強く惹(ひ)かれ始めている自身を見出していた。いや、実はもうずっと以前から、その胸に巣くっていた欲望に、改めて気づかされたと言うべきか……。
しかし、同時に、その深みにはまる危うさも、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。
「俺のことなんて、気にしなくていい。茜を抑え切れなかったのは事実だからな……。罰を与えられるなら、俺は喜んでそれを受けるさ……」
「竜……」
「それより……、俺のせいで、頭まで咎(とが)められることになったら……。そのことの方が心配だ……」
茜は、どこか突き放されたような淋しさを感じていた。いや、事実、竜は茜の思いに、無理に背を向けようとしたのだった。
「さあ、そろそろ行こう」
すっかり雨も上がり、切れ切れの雲の間より、再び、春の陽光が差し込み始めた空を見上げて、竜は素っ気無く促した。
「いや! もう少しここにいたい……」
茜は、急に幼な子のように駄々をこねた。
「重衡や相生も、きっと心配している……」
「だって、館に戻れば、今度はいつ出られるかわからないもの……」
茜には、こうして竜と二人きりで過ごせる、今のこのひと時が、何よりも得難いもののように思われた。
「もう少しだけ……。お願い……」
竜はどうも、この茜の『お願い』には弱い。その縋(すが)るような目で見つめられては、首を横に振ることなどできようはずもない。仕方なく、竜もため息まじりにうなずいた。
「竜は、いつも茜の味方ね……」
そう言って、茜はいたずらっぽい笑みを浮かべた。が、それも一瞬にして掻き消えていた。
竜の右腕に、くっきりと浮かび上がった青龍――茜の目は、その鮮烈な紋に釘付けになっていた。
驚きとも戸惑いともつかぬ眼差しを前に、慌ててその印(しるし)を左手で覆い隠した竜に、思わず茜もハッとする。
「重衡から聞いたわ……。それのために、大変な目に遭ったんですってね……」
茜は静かに歩み寄ると、竜の左手を払いのけ、その下の青龍の紋をそっと撫でつけた。咄嗟のことに、竜は声も出なかった。
「……知ってる? 龍は海の王様なのよ。厳島の社の守り神も、龍王の娘なんですって……」
「海の……王?」
竜は、目交(まなかい)の、つぶらな瞳を見つめて、小さく尋ね返した。
「そうよ……。だから、少しも恥じることはないわ。海のことを何でも知っている竜は、私にとって、本物の海の王様ですもの……」
茜は微笑んでそう告げると、何度も青龍の紋を撫でた。その指先から、温もりが伝わって来る……。そして、心の奥底で、ずっと長い間凍りついていたものを、ゆっくりと、穏やかに解(と)かして行くのを、竜もまた、はっきりと感じていた。
|