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春 雷 (四) |
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「姫様、いかがなされたのでございますか?」
相生は不安げに、何度も茜の顔をのぞき込んだ。
昼間、館を抜け出したことは、どうやら、誰にも見つからずに済んだものの、戻って来た茜は、ぼんやりと庭を眺めては、ため息ばかりついていた。
「雨に濡れて、お風邪でも召されたのではございませぬか?」
なおも問い掛ける相生の声も、実の所、茜にはまるで聞えてはいなかった。
初めてのお忍び――それは、心躍る、楽しいひと時ではあったけれど……、今この時、茜の心の内を占めていたのは、ただ一人、竜という存在のみであった。
(どうしてしまったのだろう……)
自身にも説明のつかない思いに、茜はひどく戸惑っていた。
今も、両の肩にはっきりと残る、竜の大きな手の感触……。突然抱きかかえられて、思いがけないことに、驚きはしたけれど、不思議と、それを厭(いと)わしいとは思わなかった。
それどころか、竜の力強い胸の鼓動や、息遣いが直に伝わって来て、言葉にはならない、安らぎのようなものを感じたのだった。
(どうして、こんなにも、竜のことが気になるのかしら……)
それからというもの、茜は唯々、竜が六波羅を訪れるのを待ちわびた。会えば、自分の本当の気持ちがはっきりするだろう……、そう思ったのだが、どういうわけか、あの日を境に、ぱったり竜が姿を見せることはなくなった。
(どうして来ないの?)
朝な目覚めの時には、会える予感に心を震せ、夜眠る時には、その日会えなかった切なさに胸が痛む……。
行き場のない想いを抱えたまま、無為に打ち過ぎる日々は、心の昂(たか)ぶりを煽(あお)りこそすれ、とても鎮めることなどできなかった。
(もしかして……、これが恋?)
はたと気づいて、茜は愕然(がくぜん)とした。
あれほどまでに、決して恋などすまいと、固く心に決めておきながら……。それは、何の前触れもなく、突然訪れたかと思うと、留めることのできない激流となって襲い掛かり、今や、茜の胸を、切なくも甘美な想いで満たしていた。
(竜……、おまえに逢いたい……)
身悶(みもだ)えするほどに、狂おしく求めて止まぬ想い……。
恋というものの持つ魔――その凄まじいまでの力の前では、茜もまた、無力な存在でしかなかった。
消えることのない面影を追い求め、しかし、得ることのできない絶望の念に、日ごと夜ごと苛(さいな)まれ、それでも、いつしか、胸を締めつけるような苦しさの内に、生きる喜びすら見出して……。
そんな、自らを襲う絶え間ない感情の揺らめきに、ふと、人の心の不思議を感じることもあった。
しかしながら、募る想いに振り回され、日々、憔悴(しょうすい)の色を増して行く様を、相生はともかく、目ざとい女房達が見逃すはずもなかった。
「姉上のご様子が、おかしいそうだな……」
女房達の噂話を耳にした重衡は、そっと相生に尋ねた。
「はい……。お忍びで、町に出られた日から……」
「……あの日からか?」
怪訝な顔をする重衡に、相生は、しかとうなずいた。
「それで?」
「いつもぼんやりとなされて……、食もあまり進まれぬようで……」
相生の話を聞きながら、重衡もあれこれと思いめぐらすものの、姉を悩ませているものの、その大元にまでは、とても思い至らなかった。
「何か心当たりはないのか? おまえは、いつも姉上のお側近くにいるのだ。何か気づいたことは?」
言われて、相生はためらいがちに、目を伏せた。
「……あるのか? ならば、申してみよ!」
重衡に詰め寄られ、相生も、しばらく逡巡(しゅんじゅん)したものの、やがて重い口を開いた。
「はっきりとそうとは申せませぬが……、もしかすると、姫様は竜のことを……」
「……竜が、どうしたのだ?」
相生が顔を赤らめるのを見て、ようやく、重衡もその意味を解した。
(姉上が、竜のことを想っている……。そういうことか?)
突拍子もない話に、重衡は面食らった。が、次の瞬間には、それもありえないことではない……と、思い直してもいた。
姉ももう17、世間的には、とうに、嫁いでいてもいい年頃なのである。ましてや、竜のことは、重衡自身が一番よく知っていた。
(あの竜に、姉上が恋心を抱いたとしても、おかしくはないか……)
そこまで考えが及ぶと、むしろ、今までそんなことが起こらなかったことの方が、不思議だったようにも思えてくる。しかし、仮にそうだとして、果たして、竜は姉のことをどう思っているのか……。
(もしも、2人が互いを想い合っているとしたら……)
そう考えると、重衡の心は妙に浮き立った。
「よし。一つ、確かめてみよう」
重衡は腕組みをして、相生を見下ろした。
「でも、重衡様……」
「大丈夫だ。私に任せておけ!」
そう言って、胸を叩く重衡に、またもや、相生はいっそうの不安を募らせることになった。
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「おい、竜……」
もう随分と長い間、所在なげに柱に身をもたせ、天窓越しに、朧(おぼろ)に霞む月をぼんやりと眺めていた竜に、弥太は訝しげに声をかけた。
「どうした? さっきから、ぼうっとして……」
あの雨の日以来、竜もまた、物狂おしい想いにとらわれていた。
心の奥底から、沸々と込み上げてくる想い――初めて心に芽生えたその感情の正体がつかめず、竜は自分自身を持て余していた。
「何かあったのか? このところ変だぞ、おまえ……」
いくら問い掛けても、返事もせず、ただ物憂げに空を見上げている竜に、弥太は半ば呆れながらも、その実、竜を悩ませているものの正体にも、大よその察しはついていた。
「当分、六波羅への御用はないぞ」
案の定、竜の顔色がサッと変わった。
「竜……、余計なお節介だろうが……、これ以上、あの姫君に関わるのはよせ。つらくなるだけだぞ……」
「……」
「今をときめく、平相国殿の姫君――。所詮は、高嶺(たかね)の花だ……」
以前より、弥太は、竜の茜への想いが、尋常なものでないことに薄々勘付いていた。
それは、六波羅に出入りするようになった頃から、少なからず、危惧(きぐ)してはいたことだった。
茜の、竜に対する関心の深さが、並々ならぬものと、感じたせいもあるかもしれない。
己の分をわきまえることを知る竜が、よもや、無謀な真似をするとは思わなかったが、それだけに、いずれ竜自身が苦しむことになるのではと、密かに案じてもいた。それが、計らずも的中したことに、弥太は、己の見込みの甘さを悔い、遣り切れない思いだった。
しかし、今となっては、さして意味がないこととはいえ、竜の想いが、これ以上、茜に向かないように、釘を刺しておくことだけは、怠(おこた)るわけにはいかなかった。
「そんなことぐらい、わかっているさ……。相変わらず、心配性だな……」
はたして、竜は笑って、弥太を見返した。
「ここの所、ずっと暇だし、陽気も良いんで、頭が少しぼうっとしているだけさ……」
穏やかな笑顔の下に、微かに現れた翳(かげ)り――それは、弥太の目にも明らかではあったが、同時に、今の竜に、下手な説法など無用とも悟っていた。
「そうか……。だったらいいんだ……」
もはや、何も言うまい……。弥太は、苦笑混じりに、小さくうなずいて見せた。
「それにしても、頭はどうしたんだろう……」
気まずさを払いのけるように、竜もそれとなく、話の矛先(ほこさき)を交わしてみる。
「確か、小松谷だったよな?」
「ああ……、重盛卿の急なお呼びでな……」
言い終わるやいなや、スッと遣り戸が開き、浮かない顔をした玄武の姿が現れた。
「お帰りなさい」
「……ああ」
玄武は、弥太に声をかけられても、どこか、空返事だった。
「どういうお話だったんで?」
しばしの沈黙があって、ようやく、玄武は口を開いた。
「船の用意は、できているか?」
唐突に切り出した玄武に、弥太は目を白黒させていた。
「……いつでも出せるように、手入れだけはしてありますがね」
それっきり、また何か考えにふける玄武を、弥太も竜も不可解そうに見つめた。
「何か、急ぎの商いでも?」
「……いや」
玄武の口調は、どうも歯切れが悪い。そして、一しきり竜の顔を眺めた後、
「竜……、話がある」
それだけ言って、玄武は奥の部屋へ入って行った。竜は弥太と顔を見合わせると、無言でその後に従った。
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( 2003 / 11 / 21 ) |
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