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(……姉上が入内?)
重衡の頭の中は、とにかく混乱していた。
入内――、それはつまり、今上高倉帝の后妃になるということである。
帝の生母は、重衡等の母時子の異母妹 建春門院であり、よって、茜や重衡にとって、帝はいとこにあたる。
しかしながら、母時子の家系は同じ平氏とはいえ、こちらは代々、都住まいの公家平氏である。それゆえ、建春門院が後白河院の寵を得て、国母にまで昇り詰めたことも、例なきこととはいえ、まだ、公家社会の理解を得られる範疇(はんちゅう)であった。
それに引きかえ、父清盛は伊勢平氏と呼ばれる、かつては、昇殿すら叶わなかった地下(じげ)の系譜である。
衰えたりといえども、世は未だ、摂関家を始めとする公家の血統が尊ばれる時代にあり、同じ帝の流れをくむ血筋であろうとも、公家と武家とでは、明確な隔てが置かれていた。
ましてや、何事も慣例、しきたりに沿って進められる朝政において、前例のない武門の娘の入内など論外である。
それでも、あえて、そんなしがらみを覆(くつがえ)すべく、密かなる策謀をめぐらしている父や叔父の時忠――。これまで政治向きのことには、まるで無関心だった重衡には、到底、考えの及ばないことであった。
維盛に散々にやり込められ、すっかり意気消沈の面持ちで小松谷を後にした重衡は、そのまま館に戻る気にもなれず、ふと思い立ち、法住寺殿を訪れた。
「いかがしましたか?」
建春門院は、潮垂れた甥の顔を、まじまじとのぞき込んだ。
「困った子だこと……。また、何かありましたか?」
穏やかな微笑をたたえる女院は、三十路(みそじ)を迎えたとはいえ、その容色は、いささかの衰えも見せることなく、芙蓉(ふよう)の如き優美な顔(かんばせ)は、なおも、後白河院の寵を捉えて離すことはなかった。
「私に何か申したきことがあって、ここまで参ったのではありませぬのか?」
重衡は幼い頃から、何か困ったことがあると、決まって、叔母であるこの女院に助けを求めた。
母の時子は、一門の総領の妻という立場にあるがゆえに、子に対しても厳しく、重衡はそんな母には言えない悩みも、どういうわけか、この美しい叔母の前では、素直に話すことができた。そして、どんな些細なことにも耳を傾け、時に、的確な助言をも与えてくれる女院は、重衡にとって、最大の理解者でもあった。
思いあぐねた重衡は、茜と竜のことを打ち明け、その胸の内にくすぶり続ける憤りを、女院にぶつけてみることにした。
「確かに、迂闊(うかつ)だったかもしれませぬ……。しかし、姉が竜に恋したとして、それのどこがいけないのです! 人が誰かに恋うることは、ごく自然なことではありませぬか!」
重衡の訴えに、女院はしばらくの間を置いて、ようやく答えを返した。
「そう、ごく普通の娘であれば……、それを妨げようなどとは、誰も考えはしますまい。なれど……、茜は違います」
女院の目から、先ほどまでの穏やかさは消えていた。
「だから、何ゆえ……」
「茜の入内は、免れることのできない、宿命なのですよ」
「しかし、主上(おかみ)は御年11歳。既に17になる姉でなくても、他に、丁度よい年回りの妹達がいるではありませぬか!」
「でも、姉上……、そなた達の母上の生んだ娘は、茜一人です」
きっぱりと言い切った女院の目は、さながら、冴え渡る月のような冷たさを帯び、重衡も背筋が凍る思いだった。
「重衡殿……、そなたは貴族社会のしきたりに疎すぎますよ」
「……」
「同じ兄弟姉妹であっても、母親の身分で序列が決まるものです。姉上の子である茜と、他の娘とでは、格が違い過ぎます。摂関家や他の権門との縁組ならともかく、主上の許への入内となると……、それは茜でなくてはならないのです」
いつになく、きつい口調の叔母に、重衡は完全に圧倒されていた。
「その竜と申す者を、京より遠ざけたことは、間違いではなかったでしょう……。小松の少将殿の申される通り、兄上なら……、確かに何をなさるか、わかりませぬ」
「……」
「これはもはや、茜一人の問題ではなく、政にも関わる大事なのですよ。そして、そこには、いかなる私情も差し挟むことは叶いませぬ」
幼い頃より慣れ親しんだ優しい叔母とは、まるで別人の、国母と崇(あが)められる天下一の女人の顔を見せつけられ、重衡は戸惑いを覚えずにはいられなかった。
「重衡殿……。もっと大人におなりなさい。そなたはいつまでも、五男であることに甘えすぎていますよ」
「……」
「世の中は、刻々と動いています。今この瞬間に、周りで何が起きているか……。いかなる事態になろうと、まず、それを正確に見極められる目を養わねばなりませぬ。一つの瀬を乗り損ねただけでも、足をすくわれることになりかねないのですよ」
辛辣(しんらつ)な女院の忠告に、重衡は改めて、己や姉の置かれた立場の重さを噛み締めていた。
「いつか……、そなたが、一門を率いて行かねばならぬことになるやもしれませぬ」
思いがけない言葉に、重衡は慌てた。
「そのような……。小松殿がおられます。私など……」
うろたえる重衡を、なおも女院はしかと見据えた。
「たった今、申したばかりではありませぬか。同じ兄弟であっても、母親の身分で序列が決まると……。小松殿とて、例外ではないのですよ。血筋の点から行けば、入道殿の後継者としての地位は、決して、盤石(ばんじゃく)ではありませぬ」
異母兄重盛は、父清盛が時子と結婚する以前、さほど身分の高くない女官との間に成した子だった。同母の弟に基盛(もともり)もいたが、既にこの世にない。
この時代、一夫多妻は常のことであり、その後、清盛は堂上公家の出である時子を正室に迎え、4人の子を儲けたわけである。
時子所生の長子宗盛は重盛より10も年下で、保元・平治の争乱の際にも、共に出陣した重盛を、清盛が頼りにし、重用していたのは言うまでもない。
しかし、今の平家の隆盛は、建春門院の生んだ皇子が、帝の御位に就いたことによって、もたらされたものでもあった。それゆえに、帝の叔父に当たる時忠、その2人の姉である時子の、一門の中における発言力が、昨今、とみに強くなっているのもまた事実であった。
とはいえ、重盛と宗盛の度量の大きさを比べれば、その差は歴然である。どう考えても、あの宗盛が、重盛を押しのけて後継の座に就くのは、不可能なこととしか思われない。ましてや、五男の自分がなどと……。
「小松殿は、一門の誰もが認める、次の総領ではありませぬか?」
やや冷静な思考を取り戻した重衡は、そう言って女院の顔色を伺った。
「ええ、今は……。でも、これから先は……、何が起こるかわかりませぬ……」
この時の女院の凍りついた表情の意味を、当時の重衡に、理解できようはずはなかった。
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