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「おい、これでよかったのか?」
珍しく玄武と二人、差し向えで酒を酌(く)み交わしていた吉次が、ぞんざいな口ぶりで尋ねた。
「竜を筑紫へやって……、それで事が済むのか?」
「……仕方がないだろう。他にどんな手立てがある!」
苦りきった顔をして、玄武は瓶子(へいじ)に手を伸ばした。
「そう言って、おまえも逃げたんだよな……」
「……どういう意味だ?」
玄武は、じろりと、吉次をにらみつける。
「あの時と同じだ! 逃げ出して……、それで、何もなかったことにしようとして……。消そうとしても、消えるものでないとわかっていながら……」
「……」
「惚(ほ)れた女を、権力闘争の真っ只中に、一人放り出して、自分は知らん振りか?」
「何だと!」
「それで、あの人が幸せになれると……、本気で考えたのか?」
酒のせいか、吉次はひどく激高していた。
「何も知らぬくせに……」
玄武は二度三度と、小さく首を振る。
「ああ、おまえの心など知ったことか! いや、知りたくもねえ……」
吉次のどこか喧嘩腰の物言いに、玄武は、もはや聞く耳を持たぬと言わんばかりに、横を向いた。
「全く……、俺なら、あの人を醜い争いの渦から連れ出して、どこまでも逃げたのによ……。どんなことがあろうと……、一人置き去りにするような真似はしなかったさ……」
「……」
「それでも、あの人の心は……、おまえを求めていた。俺でなく、忠高……、おまえをな……」
最後の方は、消え入りそうなつぶやきだった。しかし、その哀切極まる声音に、玄武はふと、何かを悟らされたような気がした。
「おまえ……」
吉次もハッとして、慌てて顔を背ける。
(そうだったのか……?)
この吉次という男は、玄武にとって、親友と呼べる数少ない人間である。
その年来の悪友が、密かに抱き続けていた苦悶――それに、少しも気づかずにいた、いや、実際、顧みようともしなかった、己の身勝手さ……。瞬時に、玄武の胸に、悔恨の念が湧き上がっていた。
「参ったな……。こんなことまで、言うつもりではなかったのだが……」
成り行きとはいえ、これまでひた隠しにしてきた本心を、よりによって、当の玄武の前で露(あらわ)にしてしまったとあれば、さすがに、吉次もばつの悪さは否めなかった。
「俺のことなど、どうでもいいだろう……。昔のことだ。今さら何を言ったところで、どうなるものでもない……」
そう口にした時には、吉次も幾分か、落ち着きを取り戻していた。
「それより、今の竜の気持ちを思うと……、たまらなくてな……」
「……」
「おまえは、自分で選んだ道かもしれない。けど、竜は……、恩のあるおまえの言うことだから……、だから、黙って承知しただけだろう……」
胸にぐさりと突き刺さる一言だった。
「そうだろうな……」
玄武は手にした盃を、静かに置いた。
「しかし……、だからこそ、あいつを筑紫に行かせたんだ……。あいつの性分(しょうぶん)が、わかりすぎるぐらい、よくわかるから……」
「……」
「望むものは、どんなことをしても手に入れようとする……、竜がそういうやつなら、俺もどんなことをしても、叶えてやったろう……。たとえ、相国殿や小松殿を欺(あざむ)いてでも……。それこそ、かの姫君を盗み出して、共に宋の国にでも逃してやることも考えたかもしれぬ」
吉次も、そこまでは考えていなかったのだろう。ひどく困惑した表情を見せた。
「その方が、俺もどんなに楽か……」
「……」
「だが、あいつは……、そんなことを、口が裂けても言うやつではない。だとすれば……、このまま、なまじ京に置いておいては、かえってつらい思いをさせることになる……」
言いながら、膝の上の両の拳(こぶし)をぎゅっと固く握り締める玄武を見て、とうとう吉次も匙(さじ)を投げた。
「おまえには参るよ……」
吉次は苦笑しながら、足を組みなおす。
「そうなんだよな……。あいつは見かけによらず、心根が優しすぎる……。いつも周りの人間のことばかり気に掛けて、そのためなら、己の思いなど、平気で押し殺しちまう……。本心はどうであれ、おまえの迷惑になるようなことなど、断じて、しやしねえよな……」
そう言って、吉次は空になった盃に、静かに酒を注ぎ入れた。
「俺が、あまりに平家に近づきすぎた……。その報(むく)いやもしれぬ……」
小さくつぶやいた玄武に、吉次は手にした瓶子を脇に置いて、顔を見上げた。
「金儲けになど興味がないと口にしておきながら……、強大な権力に自らおもねる浅はかさ……。いま少し、距離を置いた関わり方もできたはずが……」
「それは仕方があるまい……。天下の平相国に望まれ、それを拒むことなど……、この京にあっては、どだい無理な話だ」
「だが……、そのために、あいつの心に、生涯消えぬ傷を負わせてしまった……。この俺と同じ……、いや、それよりもっと酷(むご)い仕打ちだ……。自らの手で、手折ることすら……、させてはやれなかった……」
うなだれる玄武を横目に、吉次は盃を干すと、再び瓶子に手を伸ばした。
「……そうではないだろう?」
「……」
「どうにもならないことだから……、だから、おまえは自分が手折ることで……、己自身もその手に傷を負い、血を流すことで……、竜のやつが受ける痛みを、分かち合うことを選んだ。あいつの悲しみを、誰よりも理解できるおまえだからこそ……」
「……」
「悔しいが……、俺には、とても、そこまで考えが及ばねえよ……」
ようやく顔を上げた玄武に、吉次は笑ってうなずいた。
「結局は、これでよかったのだろう……」
吉次の言葉に、玄武はほんの少しだが、心が軽くなる思いだった。
「それにしても、おまえら2人は、本当によく似ているな……。まるで合わせ鏡だ」
「……」
「今の竜は、昔のおまえを……。そして、今のおまえは、これからの竜の行く末を映しているのか……。この苦しみを乗り越えた先に、行き着く所はどこなんだろうな……。全く、因果な星の下に生まれついたものだ……」
玄武もまた、同じ思いにとらわれていた。
(これも運命というやつか……)
自らが、かつて通った道筋を、今また、竜もたどろうとしている……。そのめぐり合わせが、どうにも、偶然とは思えなかった。
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