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今上高倉帝の元服で明けた嘉応3(1171)年は、4月に改元の儀があり、承安(じょうあん)元年と改められた。
平相国入道清盛の娘茜姫の入内(じゅだい)の話は、いよいよ現実味を帯び始め、その噂は、平家一門の内にとどまらず、宮中をも震撼(しんかん)させ、摂関家を始めとする有力貴族の間には、嘲笑と警戒の念が、複雑に交錯していた。
「武門の娘が入内など……、正気の沙汰とは思えぬ!」
「入道殿も、遂に、血迷われたか!」
前代未聞の入内話に、多くの公家達が、それを、これまで頑ななまでに守り通されてきた聖域を侵す暴挙と捉え、一門の威勢の前に、真っ向から異を唱える者こそないものの、批判的な声が大勢を占めたのは、当然の成り行きであろう。
が、そんな中にあっても、右大臣九条兼実(かねざね)はさして慌てる様子も見せず、至極落ち着いたものだった。
「後宮(こうきゅう)を征する者は、政(まつりごと)をも征す――。入道殿も、よく、そのことに気づかれたことよ……」
兼実は穏やかな笑みを浮かべながらも、しかし、その目は、決して笑ってはいなかった。
「よい知恵を授けられたものよ、のう、五条中納言殿……」
五条中納言――藤原邦綱(くにつな)。その出自は、さして身分高いものではなかったが、巧みに平家に近づき、目覚しい昇進を遂げた知略家である。
有職故実(ゆうそくこじつ)に明るい邦綱は、清盛にとって、朝政における良き賛同者であり、先の摂関家と盛子の縁組、さらに、基実(もとざね)死後の相続問題においても、彼の的確な助言があったればこそ、平家の側に有利に運ぶことができた、と言っても過言ではなかった。
「入道殿には、この国の政を、本気で変えようとの強い意志がおありと見える……」
「はて……、某(それがし)は何も伺うてはおりませぬが……」
邦綱は、当り障りのない返答をするに留めた。
二十三歳と若い兼実に対して、邦綱は齢五十――。どこか挑発的な兼実の発言にも、さしたる動揺を見せないところはやはり年の功というべきか……。
「さようか……。しかし、おもしろいことになりそうじゃ……」
不敵な笑いを残して、兼実は内裏を退出して行った。
摂関家の一門にあっても、その権力の座から、一歩離れた所に身を置く兼実は、関白基房以上に、刻々と移り変わる時の流れを冷静に受け止め、あるいは、いずれ押し寄せてくる大変革の波をも、予期していたのかもしれない。
かつて、遠いいにしえ――南都奈良に都のありし頃。
かの東大寺の大仏を建立した聖武帝(しょうむてい)の妃安宿媛(あすかべひめ)は、藤原氏という人臣出身の娘にして、初めての皇后――光明皇后(こうみょうこうごう)――となったが、その折も、皇族にあらざる者の立后(りつごう)など前例の無きことと、それこそ烈火の如く、激しい非難の声が上がったものだった。
もっとも、その当時には、皇后の位に就いた者は、天皇である夫、あるいは子に万一のことがあった場合、中継ぎという形で即位する例もままあり、皇統の尊厳を重んじる観点からも、これを阻止せんとする動きがあったのは、至極もっともなことであった。
中でも、時の左大臣長屋王(ながやのおう)は皇族側の旗頭(はたがしら)として、大いに異を唱え、真っ向から対立する姿勢を見せたものの、いかなる手段を講じたのか、藤原氏は巧みにこれを退け、強引に立后を押し通したのである。
やがて、この一件を境に、政権は皇族から藤原氏の手に移ることとなり、以来、次々と娘を後宮に送り込み、外戚という立場から摂政・関白として、政を欲しいままにしてきたのが、そもそもの摂関家の成り立ちであった。
大きな非難を浴びたことも、今では通例のことになっていた。ならば、武門の娘の入内もまた、新たな前例となり、政権が摂関家から武家へと移り変わることも、もはや止めることのできない、自然の流れだったのかもしれない。
そして、古きものと新しきものの相剋(そうこく)の陰で、幾つもの哀歌(あいか)が紡がれ、人知れず消えて行くのもまた、世の習いというものか……。
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初めての恋の予感に打ち震えたのも束の間、突如として竜は筑紫へと去り、これに追い討ちをかけるように、父清盛から内々に入内の旨を告げられた茜は、以後、自室に閉じこもったきり、誰とも会おうとはしなくなった。
母の時子でさえも拒む茜に、重衡が直に会うすべなどなく、折にふれ、それとなく相生に様子を尋ねてみるものの、ひどく憔悴(しょうすい)しきった様を聞かされ、それでも、どうすることもできない己の無力さに、日々、苛立ちを募らせるばかりだった。
さりながら、そうした苦悶のうちにあっても、時の流れは留まることを知らず、華やぐ京の彩りの、桜から藤、紫陽花(あじさい)、朝顔、撫子(なでしこ)と移ろう様も、常の年といささかの違(たが)えもなく、訪れては須臾(しゅゆ)にして過ぎ去って行く。
気づけば、露を含んだ朝の冷気には、秋の気配も感じられ、そのどこか侘(わび)しげな風情に、胸の内の懊悩(おうのう)は、さらに重く、深く垂れ込めて行くようで……。そうした日々の鬱念(うつねん)を、どうにか振り払いたいものと、重衡は久方ぶりに、館の一角の弓場(ゆば)に足を運ぶことにした。
弓矢に太刀の鍛錬(たんれん)は、武家の嗜(たしな)みとして、幼い頃から叩き込まれて来た。特に、歌舞音曲をあまり得手(えて)としない重衡は、武術に秀でた才を現し、『世が世であれば、末頼もしき侍大将よ』と清盛を唸(うな)らせたこともあった。
しかし、今の平和な世にあっては、武芸など無用の長物――。
貴族社会の中では、舞や管絃の才をこそ賞(め)でられ、今や一門の多くが、こぞってその道に精進する風潮にあった。とりわけ、兄重盛の嫡男維盛は、名代(なだい)の舞の上手(じょうず)としてもてはやされ、風雅を好む後白河院の寵愛もひとしおではない。
ある意味、動乱の世が終わり、戦う相手を失った時から、平家は武を捨て、公家の道を歩き始めたていたと言っても差し支えあるまい。
事実、この頃には、一門において実戦を経験している者は、既にほんの一握りとなっていた。清盛の息子達を見回しても、わずかに重盛ただ一人……と、この十年来の平和な日々は、いつしか、武門たる平家から、武の必要性を失わせることにもなっていたのである。
それでも、重衡はいつの頃からか、そうした世情は何か違うように感じていた。
その身体に流れる武士(ものゝふ)の血が騒ぐとでもいえば良いのか……。武芸の中にこそ、自らの息づける場所があるように思われ、いかに周りから無用の長物と謗(そし)られようと、己が魂を捨てるなど愚の骨頂――、それが重衡なりの信念でもあった。
静寂の中で弓を引き絞り、遥か先の小さな的に、息を押し殺し狙いを定める。そして、一瞬、吹き抜ける風を感じ、その風と一体となって矢を放つ――。それが見事、的を射抜く時の爽快感が、何より重衡を夢中にさせた。
しかし、いつもは面白いように命中する矢も、この日ばかりは、あたかも今の重衡の心を映すように、右に左に逸(そ)れることも、二度や三度ではなかった。
「お珍しい……。叔父君でも、はずすことがおありなのですな……」
ふいの声に慌てて振り返ると、維盛が涼し気な顔をして立っていた。
「そなたの方こそ、珍しいではないか……。弓場になど、めったに足を運ばぬくせに……」
皮肉たっぷりの重衡の言い様にも、維盛は笑って、軽く受け流した。
「法住寺殿(ほうしゅじどの)への供を致すよう、仰せつかりましたゆえ……」
「……わかっておる。すぐに支度を致す」
重衡は傍らに控えていた乳母児(めのとご)の盛長に弓を渡すと、足早に館へ向かって歩き出した。
叔母に当たる今上の生母建春門院の招きで、姉の茜が法住寺殿に参上することになっており、今朝、重衡もその供をするよう、母の時子から申し付けられていた。
突然の女院の招きは、このところ、ふさぎ込んでいる茜の噂を聞きつけてのことに違いない。
「その後……、叔母上のご様子はいかがにございますか?」
館に戻る道すがら、維盛はおもむろに問い掛けた。
「相変わらずだ……。それもこれも、全て、そなたの告げ口のせいであろう!」
重衡は吐き捨てるように答えた。
「まだそのようなことを……」
鼻で笑う維盛に、重衡はつと足を止め、
「そうではないか! そなたさえ、黙っておれば……」
と思わず声を荒げた。
「燃え上がったところで、どうにもならぬこと……。ならば、火の点(つ)かぬ内に葬り去るのが、得策でございましょう……」
例によって、維盛は波一つ立たない、冷めた目をしている。それを目の当たりするにつけ、重衡は言い様の無い怒りが込み上げ、胸がカッと熱くなった。
「私はそうは思わぬ! 二人は、互いに想い合うていたのだぞ! たとえ、それが叶わぬものであったとしても、ほんのひと時であれ、心を通わすことができれば……。そんな些細な幸せすらも許されぬ姉上が、おいたわしくてならぬ!」
姉は初恋の喜びを実感する間もなく、その芽を摘み取られたのである。
平家一門の隆盛という、大義名分を振りかざす、大人達の身勝手な欲望の生贄(いけにえ)となって……。その利益を蒙(こうむ)るのは父や兄の重盛、そして、後に続くのはこの維盛ではないか……。
考えるほどに、姉の受けた仕打ちの理不尽さに、重衡は憤りの念を抑えることができなかった。
「あなたは恋の何たるかをご存知ない……」
しばし沈黙を通していた維盛が、ようやく反論に出た。
「何と!」
「後で必ず訪れる不幸から目を背けて、何が幸せなものか! ひと時の感傷で、取り返しのつかぬ傷を残すことになると、なぜ、お気づきにはならぬのか!」
維盛のそれまでの穏和な表情が、一転して、険しいものに変わっていた。
「叔母上の入内は、動かしようの無い事実――。平相国の娘として生まれたからには、到底、逃れることなどできませぬ。となれば……、あのまま放っておけば、間違いなく、竜の命は無きものとなっていたでしょう……」
「……」
「恋い慕う者の無惨な死――。そのような憂き目を見せる方が、もっと酷(むご)いことだとは、お思いになりませぬのか!」
維盛は息つく間もなく、一気に捲(ま)くし立てた。それには、重衡も圧倒されるばかりだった。第一、これほどまでに感情的になった維盛を見るのは、全く初めてのことである。
平家の嫡孫(ちゃくそん)としての期待を一身に集める一つ年下の甥は、いかなる時も動じることなく、憎らしいほどの冷静沈着振りを見せた。それも、将来、一門を背負って立つという強い責任感ゆえであろうかと、重衡は内心羨(うらや)ましくも思っていた。
(決して、自分はそのような立場に立つことなどあるまい……)
五男という僻(ひが)みかもしれないが、父も自分には何の期待もかけていないような気がして、時に淋しく思われることもある。それだけに、維盛の常とは異なる一面を眼前に認めて、重衡は驚きながらも、どこかホッとしたというのが本音でもあった。
「時忠卿は、目的のためには手段を選ばぬお方――。人一人の命を奪うことなど、何ほどにも、お思いにはなりますまい……」
維盛の言うことは、正論だった。
叔父の時忠は父清盛の片腕として、これまで、平家の繁栄にこそ、心血を注いできた。それだけに、何よりも一門の利益を優先する人物でもある。姉の入内を阻(はば)む障害が竜と知れば、あるいは、非常手段を講じることも十分に考えられよう。
「私が断じて、そのようなことはさせぬ! いかなることがあろうとも、竜の命は守ってみせる! 二人が心からそれを望むならば、この重衡の命に代えても、二人を何処(いずこ)なりへと逃がしてやろうぞ!」
毅然(きぜん)とそう言い放つや、キッと維盛の顔を見返した。
「そのようなことを……」
重衡の目の奥に宿る強い輝きには、維盛も一瞬うろたえた。
「かつて……、一度は竜に助けられた命だ。その竜と姉上のためならば……、惜しいとも何とも思わぬ!」
形勢は一気に逆転していた。命を賭して――と言い切った、重衡のひたむきな思いに触れ、維盛はそんな重衡を羨む自身を見出していた。
(これほどまでに、人生を熱く生きることができるものか……)
維盛は自らの矜持(きょうじ)が、ふと、大きく揺らぐのを感じた。
が、いずれは総領を継ぐべき立場ゆえに、一門の利益をこそ第一に考えねばならない身に、選択の余地などあるはずもない。
「お急ぎを! 刻限が迫っております!」
後を追って来た盛長が、二人の緊迫した遣り取りに、終止符を打たせた。
「どうやら、我等はどこまで行っても、合い入れぬ考えのようでございますな……。これ以上申しても、無駄というもの……」
維盛は、束の間、頭をよぎった迷いを振り払い、既に態勢を立て直していた。
「……そのようだな」
重衡もまた、幾分、冷静さを取り戻していた。
「いざ、参ろうぞ!」
再び館に向かって歩き始めた重衡に、維盛も無言で後に続いた。
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