迷い矢 (弐)
 
   
 
「このところ、朝夕は、大そう凌(しの)ぎ易うなりましたこと……
 
 夏も盛りを過ぎ、時折、涼しげな風が吹き抜けて行く。とはいえ、その日差しは、今なお強く、この法住寺殿の女院の居室も、几帳越しに差し込む光に、辺りが常よりも随分と明るく感じられるほどである。
 しかし、やつれの著しい茜の青白い面
(おもて)を前にしては、女院の瞳もどこか翳(かげ)りがちだった。
 
「ひどくふさぎ込んでいると耳にして、案じていたのですよ。かと申して、私が六波羅に出向けば、また、大袈裟
(おおげさ)なことになりましょう。それでも、そなたとはどうしても、一度、ゆっくり話がしたいと思うて……
 静かに語り掛ける女院にも、茜は、あたかも人形の如く、何の反応も示そうとはしない。
 
「姉上も、随分、案じておられましたよ。このようなことは、初めてのことと
……
……
「そなたの心が晴れぬのは、何ゆえなのでしょう
……。私にも、話してはもらえませぬか?」
 
 諦めにも似た嘆息をもらして、女院は、つと視線を落とした。と、その時、
……申し上げても、詮(せん)無いことにございます。どうかもう、お捨て置き下さいませ……
 ようやくそれだけ言うと、茜は深く額ずいた。
 
「責めているのではありませぬ。そなたのつらい胸の内は、私にもわかるつもりです。なればこそ
……、少しでも力になれればと……
 
 固く閉ざされた扉を開くすべもないまま、ついに口にする言葉も尽きたのか
……、女院は、おもむろに庭へ目をやった。そよ吹く風が、木々の葉を震わせ、涼しげな調べを奏でている。
 
「竜
……、良い若者でしたね……。一点の曇りも無い、澄んだ目をして……
 思いがけず、女院の口から紡がれた名に、茜は、それまでとは別人のように、明らかな動揺を見せた。
 
……お会いに、なられたのでございますか?」
「ええ
……。あれは、昨年の夏のことでしたか……。どうしたことか、こちらに迷い込んで来て……
……
「されど
……、少しも悪びれた様子もなく、じっと、私の顔をのぞき込んでいましたよ」
 
 茜は、竜らしいと思った。
 初めて出会った時から、いつも真っ直ぐに、相手の目を見て物を言う竜の前では、身分のしがらみなど、何の意味も成さないもののように感じられた。そして、いつしか、茜自身、その瞳の魔力に、心を奪われていたのである。
 
「重衡殿より、おおよその話は聞いています
……
……
「今度のことでは、あの子も心を痛めているのですよ。竜を京より追いやることになってしまったのは、自分のせいだと
……
「さようでございますか
……
 茜には、意外だった。よもや、重衡がそのようなことを考えていようとは
……
 
「それほどまでに
……、あの者のことが、忘れられぬのですか?」
 女院の、歯に衣
(きぬ)着せぬ問い掛けに、茜も一瞬言い淀んだ。が、その見つめる眼差しに、いつになく温かなものを感じて、迷わずうなずいた。
 
「初めて厳島で出会った時
……、見慣れない異国の者だということも、少しも気になりませんでした。社から眺めていた海と同じ、穏やかで澄んだ瞳がとてもきれいで……、その眼差しに触れる度に、私の心も、温かさで満たされるような……、そんな、不思議な気持ちになっていました……
 茜の目は、過ぎし夏の日を思い、夢見心地だった。
 
「きっと、あの時からずっと
……、私の心は、竜に捕えられてしまっていたのですね……。でも、あまりに幼すぎて……、そのことに、少しも気づいていなかった……
……
「竜に会いたい
……、会って、この想いの丈を伝えたい……。今はただ、そればかりを願っているのです。遠い筑紫に隔てられ、叶うはずもないことと、それは、よく承知しております。それでも、どうすることもできないのです。一度気づいてしまった想いは、何をしようとも、消し去ることはできない……
 
 堰
(せき)を切ったように、思い煩(わずら)う胸の内を、ありのまま、口にし始めた茜に、女院も黙って耳を傾けていた。
「申し訳ございませぬ。主上
(おかみ)のご生母であられる女院様に、このようなことを申し上げるなど……
 はたと我に返り、茜は慌てて額ずいた。
 
……よいのですよ。私も、そなたの本心が聞きたかったのです。それゆえ、六波羅には参らず、そなたをここに呼んだのですから……
 その言葉どおりに、女院の表情に不快の色はなく、むしろ、憐れむような、いとおしむような
……、そんな優しさがにじみ出ていた。
 
「誰かを恋うるその思いは
……、どんな力をもってしても、止めることのできぬもの……
 ふと茜はこの時、女院の瞳の奥深くに、艶
(なまめ)かしい光が宿るのを見たような気がした。
 
「私にも昔
……、好きなお方がいました。もちろん、院ではありませぬ」
……
「院にお仕えする以前
……、あれは、そう……、今のそなたよりも、いま少し年若い、少女の頃……
 突然の女院の告白は、茜を大いに驚かせた。
 
「北面
(ほくめん)に伺候していた侍の一人でした。上西門院(じょうさいもんいん)様の許(もと)に出仕して間もない頃、ふとしたことで知り合うて……、じきに、わりない仲となったのです。といっても……、私の方が、一方的に、その方に恋焦(こ)がれていたと申すのが、実のところですがね……
 白い頬を心持ち紅に染めた様は、えもいわれぬ艶
(つや)を醸し出し、恋に盲目だった少女の面影をも偲(しの)ばせていた。
 
「人目を忍ぶ逢瀬
(おうせ)に、我知らず心躍(おど)らせて……、共に過ごすそのひと時が、あの頃の私には、何物にも替え難い、至福の時でした。ただ、この御方のそばにいたい……。そのためなら、何もかも捨てても惜しくはなかった……。そして、あの方も同じように思っていて下さると……、そう信じて疑いもしませんでした……。なれど……
 
 見る間に、翳りの色に覆われた女院の横顔を、茜は怪訝
(けげん)に見つめた。
 
「ある日突然、私の前から姿を消してしまわれた
……。院の庁を去り、侍を捨て、何処(いずかた)ともなく……。それは、何の前触れも無く、突然に……
……
「それでも、その時はまだ、きっと私の元に戻って来て下さると
……、そう信じていました。私を腕に抱きながら『生涯離しはせぬ』と誓って下された……、その言葉一つを頼りに、幾夜眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。されど……、そんな私の願いも、ついに夢のままに……
 
 聞きながら、茜は、込み上げる切なさに、胸の奥が、じんと疼
(うず)いた。
 
「裏切られた
……、私は捨てられたのだと、ようやく悟って……、悔しくて、情けなくて……、惨めなばかりの我が身を憂えるあまり、死をも思いました。いっそ命を絶てば、あの方への恨みも憎しみも、何もかも消えて無くなってしまうに違いないと……。醜い心を抱いて生きて行くことなど、とても耐えられなかった……
 
 憎みながらも、断ち切れぬ恋心
――。女院の中に、今なお燃え続けている愛執(あいしゅう)の炎が、茜には、はっきりと見えたような気がした。
 
「そんな時でした
……。あの方が侍を捨ててまで、私の前から姿を消した、その本当のわけを知ったのは……
……
 
「時の帝であられた院が、私を望まれ、兄もまた、そのことに強い期待をかけて
……。私の知らぬ間に、どんなにそれを拒(こば)もうと、もはや、どうにもならぬところまで来ていたのです。もし、私達の恋を貫こうとすれば、この命よりも大事と思うたあの方の御命は、必ずや亡きものとなっていたことでしょう……
 
 茜は、あまりの恐ろしさに、軽い眩暈
(めまい)を覚えた。
 
「私には、何も見えてはいなかったのです
……。いかに、熱い情熱に燃え盛る恋であろうとも、簡単に切り裂き、押し潰(つぶ)してしまう非情なものの存在を……。そして、そこから逃れることのできない我が身の運命(さだめ)……。そのことに気づいて、初めて、あの方の真実が見えたのです……
……
 
「真に、私への恋心が冷めたのであれば、別れの言葉を告げるだけで事は済んだはず
……。世に咲く恋の花は、概して、そんなふうに散って行くものですもの……。それなのに……、あの方は、侍としての約束された将来までも、捨ててしまわれた……。これほど確かな愛の証がどこにありましょう……。私のことを想っていて下されたからこそ、殿方にとっては、この上も無い、つらい決断を……
……
「何も知らずに、恨み心を抱いていた自分が、恥ずかしい思いでした
……
「女院様
……
 
「それからです
……。いかなる運命も、受け入れて行こうと……、そう心に決めたのは……
……
「あの方に出会い、恋した
……、そのことだけは、決して、後悔したくはない……。たとえ、それが、ほんの束の間のことであろうと、あの時、確かに私は幸せでしたもの……。その真実をも、自らの手で穢(けが)して、ただ恨みの淵に我が身を沈めるような……、そんな愚かな真似だけはしたくなかった……
 
 茜は、打ちのめされるような衝撃に襲われていた。
(何と強い人だろう
……
 狂おしい過去から逃げることなく、むしろ、それを、明日を生きる力に変えて来た女院の強さ
――
 自分もまた、この深い悲しみを胸に抱いたまま、生き続けることができるのだろうか
……。そんなことを、自らに問い掛けてみる茜だった。
 
「今は、どこで、どうしておられるのか
……、それを知るすべもありませぬ。でも、信じているのですよ。たとえ、今生で、再び相見(まみ)えることは叶わずとも、心と心を結ぶ絆は、決して、絶えることはないと……
「心と心を結ぶ絆
……
 茜も心の中で、繰り返しつぶやいた。
 
 後白河院の比類ない寵愛を受け、国母
(こくも)にまで上り詰めた女院を、人は、女人として、最高の幸せを手にしたと羨んでいることであろう。茜自身、そう思っていたのである。
 よもや、その心の奥底に、悲しい恋の骸
(むくろ)を抱えていようとは、思いもよらぬことだった。
 この時、茜は誰よりも、この気高く美しい叔母を身近に感じていた。
 
「我が子の妃になろうというそなたに、このような話は、聞かせるべきではないものを
……。されど……、今、かつての私と、同じ思いにとらわれているそなたのことが、どうにも哀れに思われて……、つい余計なことを申しました……
 
 そう言って、苦笑を浮かべる女院に、茜は、慈愛あふれる観音の姿を重ね見ていた。
 それは、悶々と思い悩むばかりの身に、思いがけず差し伸べられた、救いの手なのか
……
 
「いいえ
……。お話を伺うことができて、よかったと思います……
 茜の中で、何かが、大きく変わろうとしていた。
 
「私は、女院様のようには、強くなれないかもしれませぬ
……
……
「なれど
……、もう逃げはしませぬ。これが私の運命なら……、それに従うて参ります」
「茜
……
「覚悟を決めました」
 
 茜は凛
(りん)とした表情で、そう告げた。
(これで、竜の命を守ることができるのよ
……
 あの雨の日に自らが口にした言葉
――、それを全うすることが、今の茜にとって、ただ一つ残された、生きるよすがのように思われた。
 
「今日を限りに、二度と、泣き言など申しますまい
……。竜に笑われるような生き方だけは、決して、したくはありませぬもの……
 笑顔すら垣間見せる茜を前にして、今度は、女院の胸に、言い知れぬ不安が擡
(もた)げて来た。
 
「後宮は、針の筵
(むしろ)かもしれませぬよ……。上辺の煌(きら)びやかさからは想像もできぬ、人の醜き心渦巻く、この世の生き地獄――。一度(ひとたび)飛び込めば、生涯逃れることはできないのですから……
 女院の厳しい言葉に、茜も一旦は目を伏せたものの、すぐに顔を上げ、その瞳を真っ直ぐに見返した。
 
「竜を失った時、茜は死んだのでございます
……。恋の炎に、その身を灼(や)くことすら叶わなかった甲斐なきこの魂は、今すでに、地獄をさまようております。これから先、どのような苦しみが襲って来ようと、もはや、つらいと感じることもありますまい……
「茜
……
 
 落ち着きはらった茜の物言いに、女院は、心を締め付けられるような苦しさを感じていた。
 入内を説得する役目を負った、帝の生母としての立場と、失われた一つの恋に、今なお執着し続ける、悲しいまでの女の性
(さが)――。そんな対極にあるものの狭間で、激しく揺れ動く情念に、女院は、新たな苦悩を抱え込んだ思いだった。
 
(間違っていたのではないか
……
 
 自らの歩んだ道のりを、今また、茜にも強
(し)いることへの後ろめたさ――
 毅然とした茜を前に、女院は、その思いを拭
(ぬぐ)い去ることができなかった。
 
 
  ( 2004 / 04 / 22 )
   
   
 
   
 
  戻る  
 
   
   
   
  Copyright (C) since 2004 Temari all rights reserved
   
   
広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー