|
竜が筑紫に下って早半年――
共に下向した弥太と寿老は、程なく京に向けて旅立って行ったものの、その船に竜が乗ることは許されなかった。
船出を見送る時の、言いようのない寂寞感(せきばくかん)――
これまで、玄武の仲間に加えられて以来、絶えず、皆と行動を共にしてきた竜にとって、取り残される淋しさは、ひとしおつらいものとなった。
平素は、弥太に伝六と、三人が寝起きするには、いささか手狭だった部屋も、いざ一人になると、その空間の広さに戸惑いを覚えて、どうも落ち着かない。
この耳鳴りがするほどの静けさの中にあっては、時に、煩(わずら)わしくもあった伝六のお喋(しゃべ)りも、弥太の口やかましい小言も、酒臭を漂わせた寿老のいびきすらも、やけに懐かしかった。
いつしか当たり前になっていたことが、いかに大切なものであったか……、そして、桔梗(ききょう)は、いつもこんな思いに耐えているのか……と、今さらながら、竜も気づかされた思いだった。
その桔梗はといえば、京でのいきさつについては、何も触れようとはせず、竜に接する態度も、これといって、別段変った所もない。もっとも、玄武からの便りで、事の次第は承知していて、あえて聞く必要もなかったのであろうが……。
とはいうものの、ふとした時に、桔梗らしい心遣いが見え隠れして、竜はその度に、申し訳ない思いにとらわれながらも、それをまた、桔梗に悟られたくないがために、努めて平静を装っていた。
が、それとても、所詮、虚しい努力でしかない。
京を離れて、日が経つにつれ、いよいよ深みへと嵌(はま)り行く茜への想い――
これまで、そうと意識したこともなかったものが、近頃は、いつとはなしに胸をよぎる面影――
こぼれる笑み、拗(す)ねて頬を膨らませた横顔、愁いに沈む淋しげな眼差し――
それを振り払うが如く目を伏せれば、涼やかな笑い声が……、そして、耳をふさげば、あの雨の日に、この腕の紋に触れた白く細い指が……。
どんなに頭の隅から追い遣っても、その存在を消し去るどころか、愛しさが鮮明になるばかりであった。
(こんなにも狂おしく、一人の人間を恋い慕うことができるものか……)
竜自身にも信じられないほどに、日々、心は掻き乱され、さりとて、その思いのやり場など、どこにもあろうはずもなく……。
忘れることでしか逃れるすべのない、深い絶望の淵に突き落とされても、それでもなお、抱いて離すことのできない幻影――
今の竜には、茜を忘れる時は、この命が終わる時―― そう定められているようにさえ思われた。
しかしながら、恋という魔の持つ情念―― その、気も狂わんばかりの、凄まじいまでの力を前にして、それでも、かろうじて自制心を失わずにいられたのは、これまでに受けた、数々の苦難によって培(つちか)われた、竜自身の忍耐が、わずかに勝(まさ)ったということか。
とはいえ、ろくに仕事らしい仕事もない宿で、桔梗と四六時中、顔を突き合わせているのは、やはり気まずい思いが否(いな)めず、近頃は、それを避けるように、暇さえあれば、港へと出かけて行く始末だった。
視界に広がる海原(うなばら)は、今日も波一つ立たぬ穏やかさで、沖合いに碇(いかり)を下ろす唐船との間には、積荷を満載にした小舟の群れが往来している。陸地では、荷役に従事する男達の熱気がほとばしり、港は、相も変らぬ盛況ぶりを呈していた。
「そろそろ現れる頃だと思ってたぜ」
竜の姿を目ざとく見つけて、声をかける男がいた。
名を張梁(ちょうりょう)といい、年の頃は、竜とさほど変わらない風であったが、宋国の商人楊孫徳(やん・そんとく)のもと、多くの水夫達を取りまとめる頭領として、特に楊の信頼も厚い。
「何か手伝うことはないか?」
楊孫徳の船が来航してからのこの数日、竜は、この張梁に頼み込んで、荷揚げ作業に携わっていた。
「いや、今日は間に合っている。荷揚げもあらかた済んだしな……」
張梁も長く宋と日本を行き来しているとあって、大和言葉には長(た)けていた。
「だいたいが、おまえに頼むと、あまりにも簡単に片付いちまって、他の奴らのすることがなくなっちまう……」
と、苦笑を混じりに続ける張梁に、
「そうか……」
当てがはずれた竜は、やや気落ちした様子で、くるりと背を向けた。
「おい、どこへ行く?」
張梁の呼び掛けに、竜は振り返りもせず、
「別の船を当たって見る。どこか手の足りない所もあるだろう」
と、素っ気無く答えて、歩き出した。
「待てよ! そいつはよしておけ!」
鋭い声と、肩に食い込むほどの強い力で引き戻され、竜は驚きを胸に、張梁を返り見た。
「あまり派手に動きすぎるな! あらぬ恨みを買うことになるぞ!」
明らかな叱責(しっせき)の口調に、竜も思わずたじろいだ。
その様子に、張梁の方も竜の当惑の程を察してか、少しの間、逡巡(しゅんじゅん)したものの、やがて、重い口を開いた。
「実を申すと……、この所、どうも、うちの手下どもの機嫌が悪くてな……」
「……」
「俺としては、おまえが手伝ってくれるのは有り難い。感謝しているぐらいだ。しかし、奴らにしてみれば……、己の領分を侵(おか)されているようで、面白くないらしい……」
と、張梁は心苦しげに切り出した。
「奴らにも、奴らのやり方ってものがある。おまえは手を抜くことを知らぬからな。一人でどんどん先に片付けて行っちまうだろう。まあ、そのあたりの所をやっかんでいるのだろうが……」
「……」
「それも、うちの奴らのことだけなら、まだかまわん。俺がいくらでも抑えることができる。だが、よそでは……、そういうわけにも行かぬからな」
聞きながら、竜は愕然(がくぜん)とした。
言われて見れば、反論の余地などない。
一人筑紫に取り残された不安や、茜に対するとめどない恋慕(れんぼ)の情――、そうした物思いに悩まされる隙(すき)を作りたくない……、そのためにも、とにかく何かに没頭していたかった。
しかし、あまりに己のことに精一杯で、周囲の微妙な空気を読めずにいた……、そのことがひどく悔やまれた。
「すまなかった……。そんな迷惑をかけているとは、思いもしなかった……」
動揺の治まらぬままに、それでも、どうにか謝罪を口にした竜に、張梁は困ったように頭を掻いた。
「こんなことは、迷惑でもなんでもねえ。本当は、そういう情けねえ手下どもの尻を叩くのが、俺の役目なのだが……」
「……」
「だが、おまえは、玄武の頭の所の人間であって、うちの者ではない。やはり、そこの所のけじめだけは、きちんとつけておかねえとな……」
竜は、返す言葉もなく、ただ黙って、うなずくほかなかった。
「どうかしたか?」
いつの間に現れたのか……、振り返ると、楊孫徳の姿がそこにあった。
「……いや、何でもありませんよ」
張梁の慌て振りを、楊も訝(いぶか)ったものの、あえて詰問することはなかった。
「私は店に戻る。後のことは頼んだぞ」
「へい」
張梁がうなずくのを見て、楊は、おもむろに竜へと視線を移した。
「竜、そこの荷を店まで運んでくれぬか?」
そう言って、目配(めくば)せすると、楊は踵(きびす)を返した。
見ると、さして大きくもない木箱が転がっている。張梁に促されて、竜は、ためらいがちにそれを抱え上げると、慌てて楊の後を追った。
「さて……、そいつを運んでもらった手間賃は、いくら払えばよいかな?」
竜が追いついてくるのを待って、楊孫徳は笑いながらつぶやいた。
「このくらいのことで、何かをいただこうなどとは思いませぬ」
竜はすぐさま言い返した。
「そうは行かぬぞ。この楊孫徳が、タダ働きをさせているなどと、あらぬ噂を立てられたのでは、商(あきな)いにも差し障(さわ)るのでな」
困惑する竜を横目に、楊はさらに続ける。
「私はおまえに荷運びの仕事を頼んだ。ならば、それに見合う報酬を支払わねばならぬ。そして、おまえにはそれを受け取る義務がある」
「……義務?」
問い返す竜に、楊は小さくうなずいた。
「人の二倍、三倍もの働きをするおまえが、一人分の手間賃すら受け取らぬとなれば、他の者はどうなる?」
「……」
「商人という輩(やから)は、利に聡(さと)く、どこまでも狡猾(こうかつ)なものでな。おまえのような者を召し使っておると、そのうちに、人並み以上の働きも当然のことのように思われて、それに劣る働きしかできぬ者には、さらに少ない対価を与えておけばよいと考えるものだ」
「……」
「おまえは食うに事欠くわけでなし、それでもよいであろうが……、人足仕事で、日々の暮しを立てている者にとっては、これは生きるか死ぬかの大きな問題になろう」
ここまで聞いて、竜にもようやく、楊孫徳の言わんとすることが見えてきた。
「おまえは利口なやつだ。張梁が何を案じておったか……、わかるな」
「私は、何もそんなつもりで……」
慌てて弁解しようとする竜にも、楊はすかさず、これを遮った。
「わかっている。何もおまえが悪いとは申しておらぬ。おまえは、ただ、生きることに必死になっているだけのこと。目の前にあるものに、全力で打ち込んでいるに過ぎない。だが……、少し無理をしてはおらぬか?」
「……」
「人と同じでは足りぬ。それ以上の働きをせねば、人並には認めてもらえぬと……」
「それは……」
驚愕に揺れる竜の瞳を、楊はじっと見つめた。
「私は、玄武の頭に拾われてからのおまえしか知らぬが、実によくやっていると思う。だが……」
「……」
「何事も一生懸命にやれば、それでよいというものでもない。むしろ、真摯(しんし)に打ち込むあまり、周りを見る余裕もなく、ただやみくもに、一人勝手に突き進むようなことは、多くの人間の間を立ち回る上では、感心できることではない。それは所詮、自己満足であり、ただの思い上がりでしかない」
楊孫徳の容赦ない苦言に、竜は衝撃のあまり声も出なかった。
「おまえは、もはや昔のおまえとは違う。皆が、おまえという人間を認めているのだ。誰も爪弾(つまはじ)きにしようなどとは思っておらぬ」
「……」
「竜よ、もっと己を誇れ。自らを貶(おとし)めるは、人をも貶めるに他ならぬぞ」
楊は、うなだれる竜の肩に、そっと手を置いた。
「明日からは……、港ではなく、店の方に来るがいい」
「……」
「おまえにふさわしい仕事を与えよう」
「……」
「よいな」
そう言って、楊孫徳は、竜が両手で抱えていた木箱を軽々と取り上げると、そのまま、雑踏の中へと消えて行った。
一人、その場に取り残された竜は、なおも、茫然と立ち尽くしていた。
脳裏(のうり)をよぎる過ぎし日の残影――
玄武と出会う以前の己が姿――
異形(いぎょう)のこの身を恐れ、卑(いや)しみ、強い侮蔑(ぶべつ)を表す冷たい衆人の目――
なぜこれほどまでに、人から疎(うと)まれなければならないのか……。その意味すら理解できず、途方に暮れるばかりだったあの頃……。
忘れられるはずがない。どんな理不尽を強(し)いられたとて、誰一人として、同情を寄せる者などありはしない。
散々に甚振(いたぶ)られ、身も心もボロボロになって、ようやく漠然とながら、己という生き物は、この世の誰よりも下に置かれた、犬畜生にも劣る身の上なのだと悟った……、あれは、つい昨日のことのようにも思い返された。
『俺はこいつを信じる!』
今もなお、はっきりと耳に残る玄武の力強い声――
あの時、奇跡が起きたと思った。
自分を信じると……、そう言ってくれる人間に、初めて出会えた喜び――
竜自身もまた、この人物なら信じられる……、どこまでもついて行こうと、即座に、心に決めていた。
あれから四年余り――
楊孫徳の言うように、無理をしてきたとは思っていない。ただ、自分の立場を自覚すればこそ、他の誰よりも己を下に置き、何事にも進んで取り組むのが当然のことと……、そう心がけてきたのは確かである。
しかし、それも思い上がりと指摘されれば、いったい自分はどうすればよいのか……。
果てることのない葛藤(かっとう)の狭間(はざま)で、竜は、己という人間が存在する、その意味すらわからなくなっていた。
| |