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翌朝、約束どおり楊孫徳の店に赴(おもむ)いた竜は、積荷の木箱の群れに覆い尽くされ、足の踏み場もないほどの散状を呈する中庭へと通された。
「荷揚げしたばかりで、一向に片付かぬでな」
この山積みにされた荷を倉に納める……、それが竜に与えられた仕事だった。
「だが、ただ運べばよいというわけではないぞ。一つ一つの品を目録と照らし合わせて、決められた場所に、間違いなく納めねばならぬ。まあ、後はこの天趙(てんちょう)の指図通りに……」
当の楊孫徳は、それだけ言って、間もなく姿を消した。
天趙というのは初老の宋人で、楊の片腕として、常に奥向きのことを取り仕切っている。
竜は、勿論、初対面というわけではなかったが、何事につけ鷹揚(おうよう)な質(たち)の張梁(ちょうりょう)とは違い、どんな些細な事も見逃さない厳格さが信条のこの男には、どうも近寄り難いものを感じていた。
「では、早速始めるか……」
と、無愛想に促した天趙だったが、ここで一つ難問が立ちはだかった。
それは、竜が、全く文字を解しないという事実である。
この数年の間に、言葉はそれなりに操れるようにはなったものの、読み書きの方は、どうにも心許(こころもと)ない。実際、手渡された目録を見ても、不規則な模様の羅列(られつ)にしか見えない有り様であった。
もっとも、天趙の方もその辺りのことは心得たもので、取り立てて顔色を変えることもなく、一つ一つ丁寧に読み聞かせては、それぞれの品の特徴なども細かに説明してと、作業は少しずつ進められた。
とはいえ、何しろ膨大な数である。その種類も、磁器に織物、楽器に宝玉、さらには、
香木に薬草と多岐にわたり、中には、初めて目にするものも少なくない。
こうなると、次から次へと押し寄せてくる知識の波を、とにかく片っ端から、頭の中に詰め込んで行くより他なく、それは、竜にとって、普段の力仕事以上に、大変な労作(ろうさ)となった。
「逃げ出すなら今のうちだぞ」
天趙のいない頃合を見計らったかのように、張梁がふらりと姿を現した。
「おまえもとんだ貧乏くじを引かされたものだな。よりによって、こんな厄介事を押しつけられるとは……」
明らかに面白がっている風な張梁の目付きに、竜は少しばかり恨めしく思うものの、もはや、言い返す気にもなれない。
「俺は、どうもこういうのは苦手でな。天趙のやつの小うるさい講釈を、延々と聞かされるのもうんざりだし……。まあ、大抵のやつは三日ともちはしない。俺もその内の一人だったが……」
張梁のおどけた調子につられて、竜の表情も心持ち緩んだ。
「天趙の野郎も、少しは考えろってんだ。あの何にでも、ねちねちと細かい性分はどうにかならねえものか? 何かというと、ぶつくさ文句ばかり並べやがって……。あれじゃあ、若い連中が煙たがって、寄りつきたがらねえのも無理ないだろう」
姿が見えないのをこれ幸いと、張梁は言いたい放題に悪態をつく。
「だいたい、船乗りに読み書きなんて必要ねえし……。船の上では、経験と己の勘だけが頼りだからな。そいつは、身体で覚えるしかない」
張梁は、さも得意げに言い張った。
「けど……、文字が読めるのに越したことはないだろう?」
張梁の話が途切れたのを潮に、ようやく竜も口を挟んだ。
「知っていて、邪魔になるものでもないし、むしろ、何かの役に立つこともあるだろう」
予想外の切り返しに、張梁も気勢を削がれたか、急におとなしくなり、困惑の眼差しで竜を見遣った。
「俺は別に、この仕事を苦痛とも何とも思っていない。そりゃあ、不慣れなことばかりで、中々思い通りにはいかないし、まるで役に立っていないだろうが……。それでも、不思議と逃げ出したいという気にはならないんだ。意外と、こういうことは、性に合っているのかもしれないな」
苦笑交じりに言う竜に、腕組みしながらそれを聞いていた張梁は、呆気にとられつつ、やがて、小さく息をついた。
「全く、変わったやつだな。おまえみたいなやつは初めてだよ」
「……」
「考えてみれば、うちのお頭が、何の考えもなしに、こんなことをするはずがねえからな。ひょっとすると、おまえのそういう所を見抜いて、手伝わせることにしたのかもしれんしな」
俄かに真顔になった張梁に、今度は竜が首をかしげる番だった。
「そもそも、ここによそ者を入れること自体、おかしな話だからな。たった一人の例外といえば、おまえの所の、玄武のお頭だが……」
「……」
「他の倉には、出入りの商人を入れることもままあるが、この一番奥の倉だけは別だ。手の内を明かさねえのが、商売の鉄則だからな。あの天趙のやつが、よく承知したものだよ……」
張梁に言われて、初めて店の内情を知った竜は、戸惑いを露わにした。
楊孫徳が、いったい何を思い、自分にそんな重要な仕事を与えたのか……、その真意を推し測ることなどできない。ましてや、今はそんなことに気を取られている余裕すらなく、ただ、与えられたものをやり遂(と)げることに、全力を傾けるより他なかった。
かくして、悪戦苦闘の日々も、三日を過ぎる頃には、極端に無駄な動きも減り、もはや、目録を手に、天趙の許へ足を運ぶことも少なくなっていた。それは、そこに記された記号の持つ意味を認識し始めた……、その証でもあった。
「主殿(あるじどの)もお人が悪い……」
物陰から、そっと様子を伺う主人の背後から、意地悪く、天趙がささやきかけた。
「最初は、とんでもない酔狂なことをと、ひどく気を揉みましたが……。いやはや、さすがの御慧眼(ごけいがん)……」
楊は何とも答えず、竜の一挙一動に、鋭い視線を送り続けていた。
「大した飲み込みの早さですよ。同じことを二度言わせることはありませんからな……。あの集中力は、並みのものではありますまい」
いつになく高揚した天趙の口調に、楊の口元もわずかに緩んだ。
「それに、殊のほか、よく目が利くようで……。こればかりは天賦(てんぷ)の才でしょうな。あの者を見ておると、つい、あれこれと試してみたくもなります……」
「……」
「主殿(あるじどの)は、始めからそうと見込まれて?」
天趙の問い掛けに、楊は思わず苦笑をもらした。
「いや……。正直申して、私も驚いている。ほんの思いつきでやらせて見たことだが……。これは、どうやら、思わぬ才を掘り当てたらしいな……」
そう言って、一人悦に入った面持ちの楊孫徳に、天趙は唖然とするばかりだった。
一方、そんな二人の遣り取りをよそに、竜自身もまた、楊の許での仕事に、何か手ごたえのようなものを感じ始めていた。
知れば知るほどに、いっそう掻き立てられる好奇心――
平素の荷役では味わったことのない充実感――
何より、異国の香り漂うこの倉の中では、不思議と心が落ち着き、数々の珍しい品々を見ていると、時の経つのも忘れるほどである。そして、それは竜にとって、たとえ仮初めのことであれ、茜の幻影から解放される、貴重なひと時でもあった。
「おまえは、玄武の頭と似ているな……」
突然の声に、竜は慌てて振り返った。
「品を見つめる時の、その目の輝き様ときたら……。いつも、声をかけることもできぬほどに、その世界に入り込んでしまわれて……。若い頃など、それこそ、一日中ここから動こうとはしなかった。まるで、根が生えたようにな……」
懐かしげに語る楊孫徳に、それを聞く竜の目にも、その光景が浮かぶようだった。
「今のおまえは、あの頃の頭と同じ目をしている……。何かに没頭しておらねば、とても、正気ではいられぬような……、そんな思い詰めた目を……」
やはり、世界を股にかける大商人の目は節穴ではない。遠回しの言い方をしながら、その実、自分が何に悩み苦しんでいるか……、穏やかな双眸(そうぼう)には、全てを見通しているかのような、そんな余裕すら感じられる。
「心の傷の癒し方は、人それぞれだ。何もかも忘れるほどに没頭していたい……。今にして思えば、あの時の玄武のお頭も、そうせずにはいられぬ、深い苦しみを胸に抱えていたのかもしれぬな……」
しみじみと独りごちた楊に、竜は、寿老の話を思い返していた。
『昔、おまえと同じようなことがあったのさ……。それで、叶うことのなかった恋を、未だに引きずったまま……』
いかなる時も決して動じることのない、いつも毅然とした玄武の姿しか知らない竜には、未だに信じきれる話ではなかったが、つい今しがたも、己の苦衷(くちゅう)を易々と見抜いた楊の独白には、それを振り切るに足る十分な説得力もあった。
かつての玄武もまた、同じ苦しみの淵を喘(あえ)いでいたのであろうか……。
決して許されるはずのないことと、頭ではわかっていても、どうしても捨て去ることのできない強い執着――
そこからどうやって玄武は抜け出したのか……。自分にもそれができるだろうか……。ふと、竜はそんな思いに囚われていた。
「竜……」
楊孫徳の呼びかけに、ようやく我に返ると、いつの間にか、目の前に、二つの小さな桐の箱が、並べて置かれていた。
楊は、すぐさまこれを紐解(ひもと)いた。それぞれの箱から取り出されたものは、そっくり同じ形をした白磁の香炉(こうろ)だった。
「この二つの違いがわかるか?」
竜は、楊孫徳の意図することもわからぬまま、二つの香炉を見比べた。
どちらも、その光沢の輝きにも、澄み切った白さにも、違いは認められない。手で触れてみても、その滑らかさは同じと感じた。
「どうだ?」
竜は無言のまま、なおも、二つの香炉をじっと眺めている。その真剣な眼差しに、楊は、いつも玄武に対してそうであったように、黙ってこれを見守った。
二つの香炉を並べて目の前に据えて、じっくりと両者を見比べているうちに、やがて、竜は、突如として、閃(ひらめ)くものを感じた。初めは、ほんの極々わずかな違いだった。それが、眺めるほどに、よりはっきりと、鮮明に映るようになり、そうと察した楊孫徳は、すかさず口を開いた。
「おまえなら……、どちらを選ぶ?」
楊に問われて、竜は迷わず一方の香炉を手にした。
「どちらが優れているか……、それはよくわからない。だが、こちらの方が、無限の光を感じる……」
きっぱりと言い切った竜に、楊孫徳は一瞬目を見開いた後、満足げに大きくうなずいた。
「この違いがわかれば、大したものだ……。玄武の頭でも、あるいは、見抜けぬやもしれぬ……」
楊の答えに、竜は胸をなでおろしつつも、どこか半信半疑だった。
「どちらも、同じ匠(たくみ)が、同じ窯(かま)で焼いたものだ。だが、ただ一つ、異なる点がある……」
「……」
「おまえが手にしているその品は、無から作り上げられた正真正銘の傑作――。そして、もう一方は、既に完成していたそれを真似て作られたものだ。確かに、どちらも一級品には違いない。しかし、真似たものは、所詮、その原型を超えることはできぬ。形も色艶も……」
言われて、竜も得心がいったようにうなずき返した。
「人が頭に思い描くものには、際限(さいげん)がない。より良いものを世に出したいという信念が、まさしく最高の品を生み出すことにもなる。だが、一度でもその目にしたものを最高と見極(みきわ)めれば、人はそこに自ら限界を作る。そうして作り出されたものは、最高と認めた品を超えることもできねば、それに並び得るべくもない」
珍しく頬を紅潮させて力説をふるう楊に、竜も大いに興味を惹(ひ)き付けられていた。
「並みの人間の目には、到底見分けられぬほどの、些細(ささい)な違いだ。それを見抜くとは……。恐れ入った」
楊の手放しの賛辞が、竜にはどうも面映(おもはゆ)い。ましてや、あの玄武と同等に見なされたことは、驚き以外の何ものでもなかった。
「この世に、二つとして同じ物など存在せぬ。いかに見かけは同じに見えても、必ずどこかに違いがある。それを見抜く目は、商人にとって、何より欠かすことのできぬ才だ」
話を聞きながら、竜は手にした香炉を再び目の前に据え、二つ並べて眺めていた。
見飽きることを知らないその目の輝き――
この時、楊孫徳は竜の中に、玄武以上の才知を見出していた。
「共に、宋の国へ参らぬか?」
「……えっ?」
唐突に切り出した楊に、竜は耳を疑った。
「この小さな島国では、おまえも何かと窮屈であろう……。もっと大きな世界で、自由に生きたいとは思わぬか?」
「……」
「おまえは、その内に、計り知れぬ才能を秘めている。目利きの才など、ほんの一角に過ぎぬ。それをこのまま埋もれさせておくのは、何とも忍びない……」
楊孫徳の目を見る限り、からかっているようには思えない。が、今の竜には、とても信じ難い話で、いったい何と返答すればよいのか、まるで思案が定まらなかった。
「それに、おまえがどこからやって来たのかも、わかるかもしれん……」
竜の困惑ぶりを見て、楊は、最後の切り札を突きつけてきた。
「宋の明州(めいしゅう)の港には、様々な国の船が集まって来る。おまえと同じ生まれの者を見つけることも、さほど難しいことではなかろう……」
途方も無い話に呆気にとられる竜を、楊は含みのある笑顔で眺めるばかりだった。
しかし、この降って湧いたような渡宋の誘いが、晴れることのない靄(もや)に惑う竜の心に、一石を投じたことは間違いなかった。
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