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その日、宿に戻った竜は、楊孫徳から宋への旅に誘われたことを、桔梗には告げなかった。
元より断るつもりだった。
そもそも、京の玄武に相談もなく、ここを離れるなど、到底考えられることではない。
しかし、そう思いながらも、楊に明確な返答を避けていたのは、竜自身の心のどこかに、迷いがあったからに他ならなかった。
『おまえが、どこからやって来たのかも、わかるかもしれぬ……』
その一言が、胸の奥に引っ掛かっていた。
己がどこからやって来たのか……。これまでも、それを考えなかったことはない。
が、たった一人、異郷の地に流れ着いた頃には、言葉もわからぬ人々の中で、いかにして命を繋いでいくか……、そのことだけで、とにかく精一杯だった。
それが、玄武に拾われ、何とかこの国で生きられるようになり、そうした疑問も、どこかに置き去りにしてきたのか……、いつしか思い出すこともなくなっていた。いや、実の所は、やはり、思い出したくはなかったのだろう。
かつて、文覚に言われた通り、ようやく見つけた安息の場所を失うことは恐かった。
自分が何者で、これまで何をしていたのか……。なぜ、腕に青龍の紋があるのか……。
知りたいと思う心と裏腹に、知れば、二度と、玄武の元には戻れなくなるのではないか……、そんな得体の知れぬ不安にかられ、竜の思考は、いつもそこで途切れてしまうのである。
それもこれも、自らの過去に、漠然とながら、不吉な影を感じていたせいかもしれない。
冬を間近に控え、船出の時は、すぐそこまで迫っていた。
にもかかわらず、煮えきらぬ態度のまま、一日、また一日と、返事を先伸ばしにする竜に、楊孫徳の方も、その苦悩のほどを見て取ってか、とりたてて催促する素振りも見せず、沈黙を通していた。
が、昨日が今日、今日が明日へと移り変わるのが必然である以上、『その時』もまた、必ず訪れるものである。
「どうだ? 心は決まったか?」
出航の日が、明後日にまで差し迫り、楊孫徳は、ようやく最後の返答を求めた。
「そろそろ、答えを聞かせてもらってもよかろう」
穏やかな表情で促す楊に、竜は覚悟を決めて対峙(たいじ)した。
「やはり、行くことはできませぬ」
竜は、自らにも納得させるように、きっぱりと答えた。
「玄武の頭の許しもなく、ここを離れることはできない……」
さんざん思い悩んだ挙げ句に、行き着いた答えは、やはりそれしかなかった。
本音を言えば、大陸への憧れも、自分探しへの執着も、どちらも捨て難い。しかし、それらが、玄武に対する恩義に背いてまでも、真に遂げたい望みなのか……といえば、その自信もない。
果てもなく自問自答を繰り返した。が、それでも、宋行きを肯定(こうてい)できるだけの理由を、見つけることができない。ならば、迷うまでもなく、この国に留まるべきなのだ……。
竜は、無理やり、そう結論づけて、自分自身を納得させたのだった。
「そうか……」
楊孫徳も落胆してはいたが、どこかで、その答えを予期していたようだった。
「分かった。此度は諦めよう。だが、竜……。いつかきっと、共に海を越える日は来るだろう……。なぜなら、おまえも、心の奥底では、それを望んでいるのだ」
言われて、竜は茫然となった。
「何、慌てることはない。此度は、天趙を残して行くゆえ、この冬の間に、いっそう商いについての造詣を深めるのも悪くはなかろう。そして、今一度、じっくりと己というものと向き合ってみることだ」
「……」
「次の春に、私がここに戻って来た時、おまえの考えがどのように変わっているか……、それを楽しみに待つこととしよう」
そう言い置いて、楊孫徳は、宋への帰国の途についた。
白々と明けそめし払暁(ふつぎょう)、大海原へと漕ぎ出だした船を一人見送りながら、竜は、楊の残した言葉を噛み締めていた。
(いつか、この海を渡る……、そんな日が来るのだろうか……)
何処(いずく)よりか流れついたこの身が、戻るべき場所―― それが、この海の彼方にあるというのか……。
一度は、日本に留(とど)まることを選んだはずの竜の胸に、再び、そんな思いがさざめき立っていた。
そして、自分が居るべき場所――、竜は、この時初めて、それを強く意識したのだった。
「本当は行きたかったのでしょう?」
ふいの声に、竜は慌てて振り返った。いつからそこにいたのか……、桔梗が嫣然(えんぜん)とたたずんでいた。
「私が何も知らないと思っているの? あんたが何を考えているかぐらい、とっくにお見通しなんだから……」
涼しげに言う桔梗に、竜は、無言のまま、視線を落とした。
「どうして行かなかったの?」
「……」
「なんて、聞くだけ野暮(やぼ)か……。頭に言い出せるわけがないものね」
図星を突かれ、返す言葉もない竜に、桔梗は小さく笑うと、次第に明るみを帯び始めた海を遠く見遣った。
「でも、いつか……、あんたもあの船に乗って行くのよ。私がどんなに止めても、きっと……」
桔梗はどこか淋しげな目で、もはや霞みの向こうに、おぼろげにしか見えない船の影を見つめていた。
「この国にいる限り、あんたの苦しみが消えることはないもの……」
桔梗はそう言って、改めて竜と向き合った。
「昨日、京から文が来たわ。黙っていても、いずれわかることだから話すけど……、平家の姫君の入内(じゅだい)が、正式に決まったそうよ……」
桔梗は落ち着いた口調で告げた。
(茜が……)
わかっていたこととはいえ、竜は、心の動揺を抑えることができなかった。
帝の妃となれば、雲の上の人――、もはや、二度と会うことは叶うまい。
あの日、この腕の青龍を、優しく撫でた白く細い手は、ついに永遠に失われたのか……。
自らの内を占める茜という存在の大きさ――
決して報われることはないと承知でも、それでも、求めずにはいられぬ己が妄執(もうしゅう)の強さ――
これまで、あえて目を背けてきたものを、改めて目の前に突きつけられたようで、竜は愕然とする思いだった。
今さら気づいたところで、所詮、どこにも行き場のない恋情。そんなものを抱えたまま、これから、自分は、いったいどこへ向かえばよいのか……。
深い絶望の中で、迷いの色を露(あらわ)にする竜に、桔梗はさらに追い討ちをかけた。
「新しい世界に飛び出して行くことで、あんたの苦しみが、少しでも軽くなるのなら……、私には、それを止めることはできない……」
そう言って、なおも、うろたえる竜の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あんたは囚人ではないのよ。堂々と、自分の思う通りに生きなさい!」
この叱咤とも、励ましともつかぬ桔梗の言葉が、竜の心を、再び苦悶の世界へと引き戻していた。
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