消えぬ残影 (参)
 
   
 
 その日、宿に戻った竜は、楊孫徳から宋への旅に誘われたことを、桔梗には告げなかった。
 
 元より断るつもりだった。
 そもそも、京の玄武に相談もなく、ここを離れるなど、到底考えられることではない。
 しかし、そう思いながらも、楊に明確な返答を避けていたのは、竜自身の心のどこかに、迷いがあったからに他ならなかった。
 
『おまえが、どこからやって来たのかも、わかるかもしれぬ
……
 その一言が、胸の奥に引っ掛かっていた。
 
 己がどこからやって来たのか
……。これまでも、それを考えなかったことはない。
 が、たった一人、異郷の地に流れ着いた頃には、言葉もわからぬ人々の中で、いかにして命を繋いでいくか
……、そのことだけで、とにかく精一杯だった。
 
 それが、玄武に拾われ、何とかこの国で生きられるようになり、そうした疑問も、どこかに置き去りにしてきたのか
……、いつしか思い出すこともなくなっていた。いや、実の所は、やはり、思い出したくはなかったのだろう。
 
 かつて、文覚に言われた通り、ようやく見つけた安息の場所を失うことは恐かった。
 自分が何者で、これまで何をしていたのか
……。なぜ、腕に青龍の紋があるのか……
 
 知りたいと思う心と裏腹に、知れば、二度と、玄武の元には戻れなくなるのではないか
……、そんな得体の知れぬ不安にかられ、竜の思考は、いつもそこで途切れてしまうのである。
 それもこれも、自らの過去に、漠然とながら、不吉な影を感じていたせいかもしれない。
 
 冬を間近に控え、船出の時は、すぐそこまで迫っていた。
 にもかかわらず、煮えきらぬ態度のまま、一日、また一日と、返事を先伸ばしにする竜に、楊孫徳の方も、その苦悩のほどを見て取ってか、とりたてて催促する素振りも見せず、沈黙を通していた。
 
 が、昨日が今日、今日が明日へと移り変わるのが必然である以上、『その時』もまた、必ず訪れるものである。
 
「どうだ? 心は決まったか?」
 出航の日が、明後日にまで差し迫り、楊孫徳は、ようやく最後の返答を求めた。
「そろそろ、答えを聞かせてもらってもよかろう」
 穏やかな表情で促す楊に、竜は覚悟を決めて対峙
(たいじ)した。
 
「やはり、行くことはできませぬ」
 竜は、自らにも納得させるように、きっぱりと答えた。
「玄武の頭の許しもなく、ここを離れることはできない
……
 
 さんざん思い悩んだ挙げ句に、行き着いた答えは、やはりそれしかなかった。
 本音を言えば、大陸への憧れも、自分探しへの執着も、どちらも捨て難い。しかし、それらが、玄武に対する恩義に背いてまでも、真に遂げたい望みなのか
……といえば、その自信もない。
 
 果てもなく自問自答を繰り返した。が、それでも、宋行きを肯定
(こうてい)できるだけの理由を、見つけることができない。ならば、迷うまでもなく、この国に留まるべきなのだ……
 竜は、無理やり、そう結論づけて、自分自身を納得させたのだった。
 
「そうか
……
 楊孫徳も落胆してはいたが、どこかで、その答えを予期していたようだった。
 
「分かった。此度は諦めよう。だが、竜
……。いつかきっと、共に海を越える日は来るだろう……。なぜなら、おまえも、心の奥底では、それを望んでいるのだ」
 言われて、竜は茫然となった。
 
「何、慌てることはない。此度は、天趙を残して行くゆえ、この冬の間に、いっそう商いについての造詣を深めるのも悪くはなかろう。そして、今一度、じっくりと己というものと向き合ってみることだ」
……
「次の春に、私がここに戻って来た時、おまえの考えがどのように変わっているか
……、それを楽しみに待つこととしよう」
 そう言い置いて、楊孫徳は、宋への帰国の途についた。
 
 白々と明けそめし払暁
(ふつぎょう)、大海原へと漕ぎ出だした船を一人見送りながら、竜は、楊の残した言葉を噛み締めていた。
 
(いつか、この海を渡る
……、そんな日が来るのだろうか……
 何処
(いずく)よりか流れついたこの身が、戻るべき場所―― それが、この海の彼方にあるというのか……
 
 一度は、日本に留
(とど)まることを選んだはずの竜の胸に、再び、そんな思いがさざめき立っていた。
 そして、自分が居るべき場所
――、竜は、この時初めて、それを強く意識したのだった。
 
「本当は行きたかったのでしょう?」
 ふいの声に、竜は慌てて振り返った。いつからそこにいたのか
……、桔梗が嫣然(えんぜん)とたたずんでいた。
 
「私が何も知らないと思っているの? あんたが何を考えているかぐらい、とっくにお見通しなんだから
……
 涼しげに言う桔梗に、竜は、無言のまま、視線を落とした。
 
「どうして行かなかったの?」
……
「なんて、聞くだけ野暮
(やぼ)……。頭に言い出せるわけがないものね」
 図星を突かれ、返す言葉もない竜に、桔梗は小さく笑うと、次第に明るみを帯び始めた海を遠く見遣った。
 
「でも、いつか
……、あんたもあの船に乗って行くのよ。私がどんなに止めても、きっと……
 桔梗はどこか淋しげな目で、もはや霞みの向こうに、おぼろげにしか見えない船の影を見つめていた。
 
「この国にいる限り、あんたの苦しみが消えることはないもの
……
 桔梗はそう言って、改めて竜と向き合った。
 
「昨日、京から文が来たわ。黙っていても、いずれわかることだから話すけど
……、平家の姫君の入内(じゅだい)が、正式に決まったそうよ……
 桔梗は落ち着いた口調で告げた。
 
(茜が
……
 わかっていたこととはいえ、竜は、心の動揺を抑えることができなかった。
 
 帝の妃となれば、雲の上の人
――、もはや、二度と会うことは叶うまい。
 あの日、この腕の青龍を、優しく撫でた白く細い手は、ついに永遠に失われたのか
……
 
 自らの内を占める茜という存在の大きさ
――
 決して報われることはないと承知でも、それでも、求めずにはいられぬ己が妄執
(もうしゅう)の強さ――
 これまで、あえて目を背けてきたものを、改めて目の前に突きつけられたようで、竜は愕然とする思いだった。
 
 今さら気づいたところで、所詮、どこにも行き場のない恋情。そんなものを抱えたまま、これから、自分は、いったいどこへ向かえばよいのか
……
 
 深い絶望の中で、迷いの色を露
(あらわ)にする竜に、桔梗はさらに追い討ちをかけた。
 
「新しい世界に飛び出して行くことで、あんたの苦しみが、少しでも軽くなるのなら
……、私には、それを止めることはできない……
 そう言って、なおも、うろたえる竜の瞳を真っ直ぐに見据えた。
 
「あんたは囚人ではないのよ。堂々と、自分の思う通りに生きなさい!」
 この叱咤とも、励ましともつかぬ桔梗の言葉が、竜の心を、再び苦悶の世界へと引き戻していた。
 
 
  ( 2004 / 06 / 30 )
   
   
 
   
 
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