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すぐさま父清盛の許に赴いた重衡は、唐突に、五条中納言藤原邦綱(くにつな)の館への遣いを命じられた。
藤原邦綱といえば「大福長者」とも称される指折りの富豪で、清盛とは長年に渡り盟友関係にあったが、いかに富裕といえども、権門の出ではなく、文章生(もんじょうしょう)出身の邦綱が、やがて、朝政において重要な位置を占めるに至ったのは、ひとえにその財力と、時流を的確に読み取る才覚の賜物に他なるまい。
それにしても、ただの文遣いとはいえ、いつもは、兄の宗盛や知盛に当てられる役目が、なぜ自分に回ってきたのか……。
使者を務めるにあたり、父清盛からは、口やかましいほどに様々な指図や注意を与えられ、重衡は気の重い役目を負わされたことに、いささか憂鬱(ゆううつ)な心地になりながら、ともかくも五条第へと向かった。
「これは重衡殿、よう参られた……」
緊張に顔を強張らせる重衡を、邦綱卿はにこやかに迎え入れた。
「中納言様には、御機嫌うるわしゅう、恐悦至極(きょうえつしごく)に存じます。本日は、父入道相国よりの書状を、持参致しましてございます」
父に言い含められた通りに、四角四面の口上を述べて、重衡は携えて来た文箱を、取り次ぎの者に託した。卿はそれを手にするや、早速、書状に目を走らせる。
「父より何卒(なにとぞ)よしなにと……、そのようにお伝えするよう、申し付けられましてございます」
やがて、書状を読み終えた邦綱は、ゆっくりと、その視線を重衡に向けた。
「入道殿には、委細承知致しましたと……、そうお伝え下され」
「はっ」
邦綱の返答に、重衡は深々と頭を下げた。
「六波羅は……、入内の御支度で、さぞや大変なことでございましょうな……」
邦綱は書状をたたみ直しながら、気さくに声をかけてくる。
「はい……。もはや、一月もありませぬゆえ……」
入内が決まってからの慌しさには、想像を絶するものがあった。
全てが内密に運ばれていただけに、決定が下りるまでは、表立った準備もできず、その不足が、入内の日までの日数の短さも相まって、混乱を招いたためでもある。
「実は、入道殿より、女御(にょうご)様にお仕えするにふさわしい女房の人選を頼まれましてな。僭越(せんえつ)ながら、某の娘をと申し送りましたのじゃ……」
「中納言家の姫君が、姉の女房に……でございますか?」
重衡は、何も知らされておらず、驚くばかりだった。
「末の姫が、丁度女御様と年の頃も近しく、お話相手ぐらいは務まろうかと、ふと思いつきましてな……」
邦綱はこれまでにも、二人の娘を先帝六条院と今上高倉帝の乳母にするなど、後宮人事には、一方ならぬ執着があり、それこそ、身分低く生れついた卿が、異例づくめの昇進の末に、ついには公卿にまで昇りつめた、その原動力でもあった。
今回の件も、当然のことながら、単なる親切心などではなく、次代への布石をいち早く打っておこうとの魂胆は明らかなのだが、この時の重衡は、まだまだ、そうした貴族間の駆け引きの機微には疎く、加えて、その真意をくみ取れるだけの才量もなかった。
「それは有り難きご配慮、いたみいります……」
重衡は、どうにか型通りの謝辞を述べた。
「娘が内裏に上がりました折には、時折、気にかけてやって下され……。何せ、世間知らずの姫。親としては、どうにも気がかりでなりませぬゆえ……」
「はっ。某にできることなど、たかがしれておりますが……。お力になれることがありましたなら、何なりと仰せ下さりますよう、姫君にも、どうぞお伝え下さりませ……」
どこかぎこちなさの漂う重衡の返答にも、邦綱は顔を綻(ほころ)ばせた。
「頼もしきお言葉……。この邦綱、胸の支(つか)えが下りる心地にございます」
相手が公卿ということで、始めのうちこそ、どこか身構えていた重衡だが、卿の気の置けない応対に、幾分気負いもとれ、いつしか、座は和やかな空気に包まれていた。
「重衡殿はいくつにおなりか?」
「十六になります」
邦綱が従者を退がらせたため、その場は重衡と二人きりになっていた。
「さようか……。もう立派な公達にございますな……」
目を細める卿に、重衡は恐縮しつつ頭(こうべ)を垂れた。
「ありがとうございます。しかし、母や兄達には、いつまでも頼りにならぬと、散々に、言われております……」
重衡が何気なく本音を漏らすと、邦綱は朗(ほが)らかな笑い声を立てた。
「お気になさることはありますまい。入道殿とて、若い頃は、それこそ、隙(すき)だらけのお方でしたからな……」
「父が……でございますか?」
怪訝に尋ね返す重衡に、卿は大きくうなずいた。
「政(まつりごと)には、とても向かぬお方と思うておりました。あまりに純粋で、あの一本気なご気性では……」
(……純粋? ……あの父が?)
物心ついた頃には、父清盛は既に権力の中枢に身を起き、そんな姿を当り前のように見てきた重衡である。
傲慢(ごうまん)と謗(そし)られれば、良い気はしないが、否定もできない。ましてや、邦綱が語る所の朴訥(ぼくとつ)たる平清盛という人物像は、どう想像力を働かせても、今の父には重なり合わないような気がした。
「宮廷と申す所は、魑魅魍魎(ちみみょうりょう)の巣食う温床――。摂関家一門が、己が保身の為に、時に、口に出すのもおぞましき所業を公然と為す。そして、それを見て見ぬ振りでやり過ごす他の公卿連中――。某も歯痒(はがゆ)う思いながら、何も出来ませなんだ……」
そう言って、ふと卿は、苦渋に顔を歪(ゆが)めた。
かつては摂関家の家司も務め、いわば、政界の表も裏も、つぶさに見てきた人物だけに、その言葉には重々しい説得力がある。
「入道殿は、それら諸々のものを、打ち壊そうとなさっておいでじゃ……。自らが悪者になってでも、世の政(まつりごと)を正しい道に戻そうと……」
「政を正しい道に……でございますか?」
「正しいことを成そうとすれば、強い力を持たねばなりませぬ。誰にも有無を言わせぬほどの……」
卿の話は、核心に迫っていた。
これまで重衡が知りたいと思いながら、誰も教えてはくれなかったこと―― それを卿は次々と、その口から語って聞かせてくれる。おかげで、これまで非難することしかできなかった父の強引なやり方が、少しは理解できるような気にもなっていた。
「では、そのための入内にございますか?」
重衡も、思わず身を乗り出した。
「いかにも……。皮肉なことだが、摂関家が繰り返し行ってきた道筋をたどることこそ、一番の早道……」
天皇家へ娘を嫁がせ、生まれた皇子が皇位に就けば、天皇の祖父という名の許、並びない権勢を誇ることができる――。それが、いにしえの時代より、国政を欲しいままにした摂関家の常套(じょうとう)手段であり、これに習おうとする向きがあるのも、もっともなこととは重衡も思う。
が、なぜ、それを、よりによって武門の、しかも、今は僧籍に下った身で……。
周囲の猛反発を承知で、それでも、父を突き動かして止まない、その情熱の正体とは、いったい何なのであろうか……。
重衡は、いっこうに消えやらぬ疑問を、卿に尋ねずにはいられなかった。
「そうまでして、父が求める正しい政の姿とは、いかようなものなのでしょうか?」
意外な問い掛けだったのか、卿は、まじまじと重衡の顔をのぞき込んだ。そして、莞爾(かんじ)と微笑むと、
「そればかりは……、某の口からお答えするのも何やら筋違い……。ご自身で、直に入道殿に、聞いて御覧になられるのがよろしかろう……」
と応じただけで、体よくこれを躱(かわ)した。
「重衡殿になら……、入道殿もきっと、御心の内を明かされましょうぞ」
結局、真に求める答えは得られぬまま、重衡は、後一歩の所まで追い詰めた獲物を射損じ、逃したような未練を抱いて、五条第を後にした。
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