訣別の涙 (参)
 
   
 
 六波羅に戻る頃には、既に日も暮れ、木枯らしの吹きすさぶ曇天(どんてん)には、星の瞬きも見えなかった。
 館の一角では、今宵も酒宴が開かれているようであったが、それには目もくれずに、自分の曹司へと向かった重衡は、廊に一人、ひっそりとたたずむ相生の姿を見つけて、ふと足を止めた。
 
「いかがしたのだ?」
 重衡の声に、相生が慌てて振り返る。
……重衡様」
 どこかしら沈みがちな相生の様子に、重衡は何かいつもと違う気配を感じた。
 
……姉上が、また何か?」
「いいえ
……
 相生は小さく頭
(かぶり)を振ると、手をかざし、その手に触れては消えて行く白いものを、重衡に示した。
 
「雪か
……
 重衡も相生の傍らに立ち、同じように手をかざしてみる。
 
「そう言えば
……、子供の頃、よくこの庭で、雪を転がして遊んだなあ……
「はい
……。雪投げをして、駆け回ったことも……
 相槌
(あいづちを打ちながら、重衡はつい思い出し笑いを浮かべた。
 
「そうであったなあ
……。何かと言えば、姉上とおまえは、二人がかりで向かって来るゆえ、真に往生したぞ」
「重衡様!」
 急に顔を赤らめた相生に、重衡は、ひとしきり、声を立てて笑った。思えば、随分と久方ぶりのような気もする。
 
「あの頃は良かった
……。何にとらわれるでなく、心に思うことを素直に表すことができた……
 
 唯々、無邪気だった子供時代
――
 少年の小さな胸には、とても収まり切らぬほどの、たくさんの夢や憧れを抱いて
……。あの頃は、その全てが叶うものと……、そう信じて疑うことはなかった。
 
 しかし、実際には、年を経
(ふ)るごとに、さながら、この手の中の淡雪(あわゆき)のように、跡形も無く消え去っていた。それどころか、代りに、この手に足に、鉛の錘(おもり)のついた枷(かせ)を嵌(は)められ、どんどん身動きが取れなくなって行くのを、逃れるすべもなく、ただ、甘んじて受け入れることしかできない。
 
 今の重衡には、何もかもが幻想のように思われた。そして、どんな絶望の淵に追いやられようと、それでも、一筋の光を求めて、人は夢を見るのだろうかと
……
 
「明日の朝は、辺り一面、銀世界やもしれぬな
……
 重衡の言葉にも、相生は、なおも切なげに、舞い散る雪を眺めていた。
 
「このお館での雪も、これで見納めにございます
……
 小さくつぶやいた相生に、重衡は何の考えもなしにうなずいた。
 
「そうか
……。しかし、内裏の庭にも雪は積もろう……
 相生は答えなかった。長い沈黙の間をいぶかり、向き直った重衡は、目の前の瞳に深い憂いの色を認め、ひどく困惑した。
 
……いかがしたのだ?」
 重衡の声にハッとして、相生は慌ててうつむく。
 
「気分でもすぐれぬのか?」
 重ねて問う重衡に、なおも、しばらく無言を通した相生だったが、ようやく顔を上げると、まっすぐに重衡の目を見つめ返した。
 
「私が、内裏に上がることはありませぬ」
……どういうことなのだ?」
 意外な答えに、重衡はさらに首をかしげる。
 
「私の身分では、到底、叶うことではございませぬ
……
 重衡は絶句した。
「姫様の御入内の日を最後に、相生は
……、お暇(いとま)をいただくことになっておりまする……
 そう答えて、再び視線を落とした相生の肩を、重衡は急に荒々しく掻
(か)い抱(いだ)いた。
 
「何を申すのだ! 姉上がそのようなことをお許しになるはずがない。おまえとは、もう何年も、姉妹のように、睦
(むつ)まじうしてこられたのではないか! 勝手知らぬ宮中に上がる姉上に、おまえは必要なはずだ!」
 
 何を向きになっているのか
……。重衡自身にも、実の所、己の言動がよく理解できなかった。
 ただ、これまで当然であり、不変とも信じていたことが、次々と崩れて行く現実を前にして、このままにはしておけぬ
……、この流れをどこかで堰(せ)き止めねば……、そんな切羽詰った思いが、重衡を突き動かしていた。
 
「私が姉上にお願いしてやる。心配致すな。悪いようにはせぬ!」
 大声で言い放つや、重衡は茜の部屋へ向かっていた。
 
 そして、相生は茫然
(ぼうぜん)……、しかし、何もかも悟っているような淋しげな目で、重衡の後ろ姿を、いつまでも見つめ続けていた。
 
 
「姉上、よろしいでしょうか?」
 部屋に入って来た重衡の険しい形相に、茜は目を丸くした。
 
「何か
……ありましたか?」
 重衡の顔色を伺いつつ、茜は恐る恐る尋ねてみる。
 
「相生を内裏に連れて行かぬとは、真にございますか?」
「そのことですか
……
 憤懣
(ふんまん)やる方無いといった様子の重衡に対して、茜はいたって、落ち着いたものだった。
 
「真のことなのでございますか!」
 重衡の口調がさらにきつくなる。
「ええ、そうですとも」
 はっきりと言い切った茜に、重衡は猛然と身を乗り出した。
 
「何ゆえにございますのか! 幼い頃より、もう何年もお側に仕えて参ったのではありませぬか。父上も母上も、ましてや、この重衡とてお目にかかることも難しくなる内裏での暮らしに、相生すらお側におらぬとなれば
……、姉上の御心(みこころ)の休まる暇もありますまい……
……
「身分のことならば、いかようにもできるではありませぬか。どなたかの養女とするとか
……
 
「連れて行かぬと決めたのです!」
 重衡の言葉を遮って、茜は急に声を荒げた。
……姉上?」
「相生のためにも
……。窮屈な内裏の世界に、あの子まで巻き込みたくはない……。私一人でたくさん!」
 その激しい語気には、さすがに重衡もたじろいだ。
 
「身分ある女房が大勢かしずく中では、相生がどれほど苦労することか
……。だからといって、私が特に目をかけるようなことをすれば……、それこそ、あの子にいっそうつらい思いをさせることになる……
……
「可愛い妹と思えばこそ
……、相生を連れては行けない……
 
 重衡は愕然
(がくぜん)とする思いだった。
 確かに、女御の入内となれば、これまで、姉と同様、姫として育てられた娘達が、多く女房として仕えることになる。
 教養も品格も、非の打ち所のない、選
(え)りすぐりの女人達の中にあっては、相生が肩身の狭い思いをするであろうことは、容易に想像のつく所であった。
 
「今日、五条中納言様をお訪ねしたのでしょう?」
……はあ」
「姫君のお一人が、女房として、内裏に上がられるという話を聞いたはずです
……
 
 重衡は、改めて姉の変化に驚かされていた。少なくとも、竜の筑紫下向を知らされ、身も世もなく取り乱したあの頃の姿など、どこにも見受けられない。
 あるいは、初恋をあきらめ、心ならずも入内を受け入れねばならぬ運命を背負わされたことで、大人としての自覚に目覚めたのか
……
 
「せめて
……、相生には、ごく普通の女人の幸せを手にしてほしい……。それが私の願いです」
 そう語る茜の表情は、凛
(りん)としていながらも、やはり、どこかしら淋しさを湛(たた)えていた。
 
(姉上は、今でも竜のことを
……
 本当は、重衡もそう尋ねたかった。しかし、それを口にすることは、未だ傷の癒えきらぬ姉の心に、土足で踏み込むに等しい愚行というものであろう。
 
「真に、それでよろしいのですね」
 姉の答えを予期していながらも、重衡はあえて問うた。
 
「ええ」
 毅然と言い切った茜の目に、もはや迷いの色は見えなかった。
 
 
 この日より時経ずして、茜は六波羅の館から、院御所 法住寺殿(ほうしゅじどの)に移ることとなった。後白河院の養女として、入内することになっていたためである。
 
 長年住み慣れた館を去る日の朝、奥庭に、一人たたずむ茜の姿があった。
 幾度となく、楽しく語らった場所だった。いつも、竜のもたらす不思議な話に心躍
(おど)らせ、重衡や相生と共に歓声を上げて……、あれは、つい昨日のことではなかったか……
 
(あの日々は二度と戻っては来ない
……
 
 一抹の淋しさが沸き起こる茜の脳裏に、今度は、雨の中、町の小路をひた走った、あの過ぎし春の日の記憶が、鮮明に甦っていた。
 町の市に忍び出て、不意の雨がもたらした二人きりの時
――。竜の腕の中で、心臓が飛び出しそうなほどに胸が高鳴り、自分ではどうしようもないほどに心乱れて……
 
 しかし、今こうして思い返してみると、それは、少女の頃の
……、あの厳島での、初めての出会いで受けた衝撃と、何ら変りのないものではなかったか……
 
(もっと早く気づいていれば
……
 今さらながら、あまりに幼すぎた自分自身を茜は責めた。
 
(引き返すことはできないのよ
……
 自らの意思で決めたこととはいえ、やはり、切なさが込み上げて来る。
 
(でも、もし再び、あの日に戻れるのなら
……
 
 六波羅の茜姫
――、その名も父母も捨てて、恋人の腕に飛び込み、共に西海をめぐる旅に出る……、そんなもう一つの人生に思いを馳(は)せてみる。
 紺碧の絶海を渡る小舟に、竜とただ二人
……。けれど、そこに広がるのは、眩いばかりの輝きに満ちた世界――
 
 ほんの少しの勇気を持てば、あるいは、叶ったのかもしれない夢
――。それを夢のままにしてしまったのもまた、他ならぬ茜自身であった。
 
(竜
……、おまえは知っているの? こんなにも、狂おしくおまえを求めて続けていた……、この私の激しい恋心を……
 
 一度として、口にすることもできずに、終わりを告げた恋
――。その骸(むくろ)を今、茜はいとおしみ、そっと胸に抱きしめていた。
 
(私がこれから歩むのは、紛れもない修羅の道
――。それでも、きっと耐えてみせるわ。だから……、竜、おまえも生きて! 生きて、この世の生き地獄とやらを、私と共に歩んで! おまえが同じ世を生きていると思うだけで、私は強くなれるもの……。いつでも、私の願いは聞いてくれたでしょう? もし、私を置いて先に逝(い)ったりしたら……、決して許さないから!)
 
 その心の叫びを封じ込めるように、この日の雪は、しんしんと降り積もり、全てを覆い隠して行った。
 
 
 承安元(1171)年12月14日、平相国入道清盛の娘平徳子(のりこ)入内。
 
 その夜、平家一門の威信をかけて、豪奢
(ごうしゃ)に飾り立てられた大行列が、内裏に向けて法住寺殿を後にした。それは、月明かりに映え、さながら、月に昇るなよ竹の姫のそれを描いた、絵巻物を目の当たりにしているような、華麗さであった。
 
 しかし、これが、劫火
(ごうか)燃えさかる煉獄(れんごく)へ向かう、葬送の列であることなど、この世の誰一人として、知る者はなかった。
 
 重衡は、随身として、その列に加わりながら、姉の心中を慮
(おもんばか)った。
 真実の愛をその胸に封印しての入内
――
 これからの姉の前途が、平安であろうはずのないことを悟りつつも、それでも、幸多かれと祈らずにはいられなかった。
 
 
  ( 2004 / 08 / 26 )
   
   
 
   
 
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