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明けて承安2(1172)年、厳冬の季節には、船の往来もまばらだった筑紫の港にも、春の訪れと共に、再び賑わいが戻って来ていた。
『あんたは囚人ではないのよ。堂々と、自分の思う通りに生きなさい……』
竜はこの冬の間、桔梗の言った言葉に、思い悩む日々を送っていた。
京より遠く離れた、ここ西海の地でも、平相国入道清盛の娘徳子(のりこ)の入内の噂は、至る所で囁(ささや)かれるようになり、竜はそれを耳にする度に、胸の疼(うず)きを覚えずにはいられなかった。
そして、この苦しさから逃れることができるなら、いっそ他国へ……と心が傾きつつある一方で、しかし、拾われた身の上の自分が、それを望むのは、あまりに身勝手なことではないか……と、今度は、ひどい罪悪感にも苛(さいな)まれて……。
そんな八方塞りの袋小路に追い詰められ、そこから抜け出す光明を見出すこともできぬまま、悶々と日を送るしかなかった竜にとって、楊孫徳が宋へ帰国して後も、店へ通い続けることができたのは、せめてもの救いだったかもしれない。
初めに与えられた荷納めの仕事は、とうに片付いてはいたものの、天趙(てんちょう)は次から次へと、新たな雑事を持ちかけてきて、いっこうに竜を解放する様子もない。
あらかたの者が宋に戻り、人手の少ない折のこと、荷運びのような重労働は元より、倉の中の品の手入れに銭勘定、時には、慣れぬ筆を持たされ、目録の書写を言い付けられたり……と、とにかく、毎日が目も回るほどの忙しさであった。
おまけに、以前、張梁(ちょうりょう)もこぼしていた通り、天趙の気難しさは筋金入りで、これに付き合うのも、中々気の張るものである。廊下の歩き方から、扉の開け閉め、言葉遣いにまで一々文句をつけられ、とても気の休まる暇などない。
かくして、毎夜、すっかり疲れ果てた顔をして戻ってくる竜に、桔梗の心配も絶えることはなかったが、それでも、日々、商人らしい立ち居振舞いを身につけて行く様を、どこか頼もしい思いで見守っていた。
やがて、慌(あわただ)しいうちに、桜の季節も過ぎ去り、竜が筑紫に戻って、早一年にもなろうというある日のこと。いつものように、天趙の言いつけで、綾錦(あやにしき)を探しに一の倉に入った竜は、件(くだん)の反物(たんもの)を抱えて出て来た所で、思わず足を止めた。
「……頭(かしら)?」
紛れもない、玄武の姿がそこにあった。
「元気でやっているようだな」
懐かしい笑顔を前にしながら、竜は驚きのあまり声も出ない。
「今朝方、こっちに着いた。丁度、おまえが出掛けるのと入れ違いになってな……。桔梗からここにいると聞かされ、一刻も早く顔を見たいと思い、訪ねて来てしまったが……、邪魔をしたか?」
竜の困惑したような面持ちに、玄武の表情もわずかに曇る。
「いえ……。しばし、お待ち下さりませ」
そう答えて、自分の横をすり抜けて行った竜に、玄武もすぐに、背後の天趙の気配を感じ取っていた。
「今日は、これでもう帰ってよいぞ」
反物を受け取りながら、天趙は無愛想に言う。
「なれど……」
「そなたの主殿(あるじどの)は、どなたであったかな?」
と言いながら、ちらりと玄武を見遣った天趙に、竜もハッとして押し黙る。
「我が主からも、玄武の頭がお戻りになるまで……と、きつく申し付けられておったのだ。もはや、そなたに与える仕事はない。明日からは、玄武殿の従者としてでなくば、ここへ参るには及ばぬ」
そう言って、天趙はいつもの渋面(じゅうめん)に、ほんの少しの微笑を偲(しの)ばせると、玄武に一瞥(いちべつ)して、店の方へと戻って行った。
「では……、そろそろ戻るか」
何か気まずい空気を感じながら、玄武はそそくさと促した。
その声に弾かれたように、「はい」と答えて向き直った竜は、ようやく緊張がほどけたのか、顔つきも随分と和らいでいた。
(俺の思い過ごしであったか……)
顔を見合わせた瞬間から、玄武もまた、直感的に竜の変化を感じ取っていた。しかし、こうして、いつもの、あの人懐っこい笑顔を目の当たりにしていると、それも杞憂(きゆう)に過ぎないことと思い込みたくもなる。
「伝六のやつも、首を長くして待っていよう」
「……伝六も一緒に?」
「ああ。ここへも、自分が迎えに行くと、言ってきかぬのを無理に置いてきたのでな」
玄武は胸を覆う不安をひとまず脇へ押しやり、さも陽気に振舞うと、やがて、竜の肩を抱いて、店を後にした。
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「おまえが京を離れてから、いろいろ大変だったんだぞ……」
その夜、伝六は竜と枕を並べて、京での出来事を語って聞かせた。といっても、もっぱら人手が足りず、自分が扱(こ)き使われた不満ばかりで、始めのうちは、相変わらず子供っぽい伝六の言い草に、竜も思わず笑みをこぼす一幕もあったのだが……。
「平家の姫君の入内の時は、凄かったな……。京の大路での大行列は、壮観だったよ……」
話が徳子の入内に及ぶと、途端に色を失っていた。が、それにもまるで気づかず、いっそう賑々(にぎにぎ)しいばかりに捲(ま)くし立てる伝六に、竜もまた、己の本心を悟られまいと、懸命に相槌(あいづち)を打ち続けた。
入内した徳子は、この年の二月に『中宮(ちゅうぐう)』と呼ばれる、帝の妃の中でも最も高い位に就いていた。
そして、叔父である時忠が中宮権大夫(ちゅうぐう・ごんのだいぶ)に、さらに、重衡が中宮亮(ちゅうぐうのすけ)、維盛が権亮(ごんのすけ)と、中宮に仕える主な役職に、揃って任じられており、これは、何かと風当たりの強い、武家出身の中宮の周りを、一族の者で固めて護ろうとの配慮に他ならなかった。
「重衡様といえば……、おまえが筑紫に発ってすぐの頃に、散々問い詰められて困ったんだぞ……」
「……重衡が?」
「ああ……。何の挨拶もなしに、急に京を離れたものだから……」
小松谷に乗り込んだという話を聞いて、竜にもその姿が目に浮かぶようだった。直情的な重衡の性格からすれば、十分予想もできたことだけに、一言の別れも告げずに京を去ったことには、今さらながら、うしろめたい思いも感じていた。
「それにしても、いったい何があったんだ?」
伝六だけは、竜と茜の仲に、気づいていなかった。それだけに、突然の筑紫下向に加え、その後も、一向に、京へ戻る気配のないことには、大いに疑問を抱いていた。
「ずっと気になっていたんだ……。お頭も、弥太も、おいらには何も教えてくれないし……」
と不満げな顔をする伝六に、竜は一瞬言い淀んだものの、
「何もない……。ただ、頭の考えに従ったまでさ……」
そう答えただけで、後は何も語ろうとはしない。伝六もそれで納得したわけではなかったが、これ以上、問い詰めたところで、白状するはずのないこともわかっていた。
「そうか……」
急に睡魔に襲われたのか、大きなあくびを一つしたかと思うと、伝六は直に寝息を立てていた。
久方ぶりに重衡の名を聞いて、竜は懐かしい思いで一杯だった。しかし同時に、茜の入内も、その目で見たと聞かされては、もはや、現実のものと認めざるをえまい。
(もう二度と会うことはないのだな……)
この夜ばかりは、竜に眠りの時が訪れることはなかった。
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