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「いろいろ世話をかけてすまんな……」
夜もふけて、二人きりになったのを潮(しお)に、玄武は静かに切り出した。
「いつも謝ってばかり……」
と、桔梗は苦笑混じりにつぶやく。
「……そうか?」
「ええ……」
答えながら酒を勧める桔梗に、玄武も盃を差し出した。
「しかし、今日はいささか驚かされた……。竜のやつ、しばらく見ぬ間に、何やら顔つきまで、しっかりとしてきたような……」
玄武の大仰な口振りに、桔梗は嫣然(えんぜん)として、
「それはもう……、毎日、散々しごかれていたようですから……」
と言って、盃に酒を注ぎ入れる。玄武はそれを一気に飲み干すと、一転して、急に真顔になった。
「こっちへ戻った時は……、どんな様子だったのだ?」
その意を察してか、桔梗の顔からも笑みが消える。
「何もなかったような顔をしてましたよ。自分の弱さを、人に見せるような子じゃないから……。本当のところは、随分苦しんでいたんでしょうけど……」
「そうか……」
玄武は、ふうっと吐息をもらした。
「来る日も来る日も、朝から晩まで、それこそ息つく間もなく、働きどおしで……。そうでもしていないと、とても自分の気持ちを抑えきれなかったのでしょう……」
そう言って、桔梗はまた、玄武の盃を満たした。
「そもそも、忘れろと言う方が無理な話だわ。あの子が、そんな中途半端な恋心を抱いていたとは思えないもの。想いが深ければ深いほど……、それを忘れるにも、それなりの時間が必要だわ……」
「……」
「お頭にも、身に覚えがおありのはず……」
玄武も桔梗も、ふと、かち合った瞳を互いに見交わした。
「そういうおまえこそ……」
逆に水を向けられて、桔梗は少し困ったように目を伏せた。
「忘れようとすれば、その度に、思いが甦(よみがえ)って来て……。それで、忘れられるはずはないですもの……」
「……」
「思い出そうとすることも、忘れようとすることも、結局は同じことだわ……」
「桔梗……」
「忘れるということすら、意識しなくなった時……。その時こそ、本当に忘れられたと言えるのでしょう……」
桔梗の述懐を聞きながら、玄武は二度三度とうなずくと、かすかにうるむ瞳を見つめて小さくつぶやいた。
「そろそろ……、一度京に戻るか?」
「……」
桔梗は危(あや)うく瓶子(へいじ)を取り落としそうになった。
「このまま、ここで一生を終えさせるのは不憫(ふびん)だと……、ずっと思っていた……」
「……」
「もう十年以上経った……。今の京には、もはや、あの戦の面影などどこにもない。この際、一度、その目で見て……。そうでないと、いつまでも、心の区切りがつかぬのではないのか?」
玄武は穏やかな口調で、なおも続ける。
「ゆかりの人達の供養もしてやりたいだろう……」
桔梗はしばらく瓶子を抱えたまま、じっとうつむいていた。が、やがて、ゆっくりと顔を上げると、
「忘れずにいることが、供養だと……、そう思っていますから……」
そう答えて、玄武を見つめ返した。
「ここが好きなんです……」
「……」
「そりゃ、初めて連れて来られた時には、海しかない……、本当に何もない淋しい所だと思いましたけど……。今は、どこよりも落ち着くんです……。ここでなら、どんなつらい思い出にも、心を乱さずにいられるわ。目の前に広がる大きな海が、この胸の悲しみの半分は受け止めてくれるから……」
その目に悲愴(ひそう)の色はなかった。今なお心を縛る、遠い過去の記憶から、決して目を背けることなく、真摯(しんし)に受け止めようとする―― そんな桔梗の潔(いさぎよ)さには、玄武も頭が下がる思いだった。
「本当に、ここに来てよかったと思っているんです。だから、京に戻れだなんて……、どうか、おっしゃらないで下さい……」
「そうか……」
桔梗にそこまで言われては、玄武も、これ以上、口にできることなど、何もなかった。
「第一、私がここを離れたりしたら、それこそ、大変なことになりますよ。この宿をどうやって、切り盛りするおつもりですか?」
「そうだったな……」
しんみりとしていた二人に、束の間、笑いが戻る。
「私のことは、どうかもう、お気になさらずに……。本当に、もう大丈夫ですから……」
「ああ……」
「それより、今は竜のことを……」
話が再び竜のことに戻るや、玄武はまたも、沈痛な面持ちになった。
「しかし、俺にはどうしてやることもできぬ……」
「……」
「真は、もっと何か……、気の利いた言葉の一つも、かけてやりたかったのだ……。だが、いざ、あいつを目の前にすると……、結局、何も言えなかった……」
玄武は自らの不甲斐なさに、苛立ちすら覚えていた。
もっと他に、手立てはなかったか……。何も言えぬのは、心のどこかに、己が保身のために理不尽を強(し)いた―― その呵責(かしゃく)の念があるからではないのか……。
「俺も意気地がない……。全く、情けない限りだ……」
口をついて出てくるのは、もはや自嘲の言葉ばかりである。今さら己の無力さに毒づいたところで、どうなるものでもないものを……。
「それは、竜も同じだわ……。心に思うことがあっても、打ち明ける勇気も持てずに……」
急に一人ごちた桔梗に、玄武もそれを聞き逃さなかった。
「どういうことだ? 竜が……何と?」
問い返す玄武にも、桔梗は力なく首を振る。
「それは……。竜から直にお聞きになって下さい。あの子自身が、結論を出すべきことですから……」
言葉を濁して多くを語ろうとしない桔梗に、玄武はその真意を解しかね、首をかしげるばかりであった。
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