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承安2(1172)年4月、竜の旅立ちの時は、すぐそこまでやって来ていた。
宋行きが決まって以来、また、元のように楊孫徳の店へと通い始めた竜は、出航を目前にしたここ2−3日は、張梁の指揮の許、多くの人足達に紛れ、唐船に積荷を運び入れる作業に携わっていた。
「おい、竜」
蒸し暑いばかりの船倉から這(は)い出て、しばし涼をとっていた竜を、ふいに張梁が呼び止めた。
「ここはもういいから、店の方へ戻ってろ」
「……」
「天趙のヤツから、おまえを寄越すよう使いが来た」
「……天趙が?」
竜は、いぶかしげに張梁を見返す。
「どうせ、また、何か厄介な用事でも言いつけるつもりじゃないのか?」
「……」
「しかし、おまえも苦労するよな。えらいのに気に入られちまって……」
そう言って、茶化す張梁を、竜は目の端で軽くにらみつけたが、
「ほら、さっさと行った方がいいぞ。待たせると、こっちにまで、とばっちりが来るからな」
と、最後は追い立てられるように、陸へ戻る小舟に押し込まれていた。
春先に玄武が下向して以来、天趙から直に仕事を言いつけられることはなくなっていた。これは、渡宋にあたり、他の人足達との関係を深めておく必要性から、暗に楊が図ってのことであった。竜もその意は理解し、以前の失敗を踏まえて、できる限り、彼らに合わせるよう努めたし、その甲斐あってか、今では他愛もない世間話の輪にも、自然と加わることも多くなっていた。
が、その反面、荷運びなどの単調な作業に終始する毎日には、正直な所、少し物足りなさを感じ始めていたのも事実だった。
何かに追い捲(まく)られるような目まぐるしさの中で、なぜか、心は期待感に満ち溢れていたあの日々―― それを、懐かしく思わない日はなかった。
と、そこへ、この急な呼び出しである。舟に揺られながら、何事かと不安に思う一方で、ある種の期待に、心逸る部分も少なからずあったが、いざ店の方に赴いてみると、そんな竜の思惑とは、いささか異なる展開が待ち受けていた。
裏口で、荷出しの算段をつけていた天趙は、竜の姿を見つけるや、軽く手招きした。
「何か御用がおありとか?」と尋ねる竜にも、
「主殿(あるじどの)がお待ちじゃ」
と答えて、天趙は目配せするだけで、ひどく素っ気無い。自分を呼び寄せたのが楊孫徳だと知ると、竜はまた別の予感を胸に、今度は少し憂鬱(ゆううつ)な心地を抱いて、店の奥へと入って行った。
「やっと参ったか……」
楊孫徳は待ちかねた様子で、竜を快く部屋へ迎え入れた。
「何か御用と伺いましたが……」
竜が言い終わる前に、楊は、一抱えはありそうな銅銭の束を広げていた。
「これを渡しておかねばと思うてな……。この半年余り、よく働いてくれた」
竜は『やはり……』との思いを隠せなかった。
「以前にも申したことだが、おまえにはこれを受け取る義務がある」
「されど……、これは多すぎまする」
と、竜は咄嗟(とっさ)に言い返したが、楊はまるで取り合おうとはしない。
「何を言うか。これでもまだ少ないぐらいぞ。何せ、私は玄武の頭に、あの白磁の香炉と引き換えにしても、おまえを欲しいと願い出たほどなのだからな」
「……」
「まあ、その話は、あっさりと突っぱねられたが……」
唖然としている竜に、楊は言いながら、苦笑いを浮かべていた。
「ともかく、何が何でも、これは受け取ってもらうぞ。さもなくば、張梁の手当ても半分に減らさねばならぬ。そのようなことになれば、あれにどれほど恨まれるか……」
と、意地悪くささやく楊に、竜は一しきり考え込んだ。そして、ややあって、
「仰せのとおり、これは有り難く頂戴いたします」
そう答えて、深々と頭を下げると、楊はホッとしたように、目尻を下げた。
「して、これをいかようにする?」
思えば、竜にとって、初めて自分の力で得た報酬である。それをいったいどのように使うか……、楊の一番の興味も、実はそこにあった。
「ただし、ゆめゆめ、船に持ち込もうなどと考えるでないぞ。これ以上、重くするわけにはいかぬからな。向こうで必要な金子(きんす)は、また、おいおい渡すゆえ、そのつもりでな」
楊はあらかじめ釘をさした。が、竜もその辺りのことは心得ていたようで、一つため息をついてはみたものの、別段、慌てる素振りは見せない。
しばらく沈黙が続いた後、
「これで一つ、買い求めたい品があるのですが……」
と、切り出した竜に、楊はいっそう身を乗り出して、その申し出に耳を傾けた。
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その夜、桔梗はささやかな膳を用意して、竜の帰りを待っていた。
心づくしの手料理を前にして、出航前の昂(たか)ぶりがちな竜の心もしばし和む。
さらには、餞別(せんべつ)の品だと言って、真新しい上着まで手渡されて……。それは、もちろん、桔梗が一針一針、手ずから仕立てたものだった。
「羽織ってみて……」
竜は、照れくさそうに、搗色(かちいろ)の衣に袖を通した。
「よく似合ってるわ……」
桔梗は小さくつぶやくと、その姿を、目に焼きつけるように、じっと眺めていた。
「ありがとう……」
心からの礼の言葉を聞きながら、桔梗は、初めて竜がここに足を踏み入れた日のことを思い出していた。
野良犬でも拾うように、何の気も無く、玄武が連れてきた正体不明の異国の若者――。
しかし、その心根の優しさは、周りの者の心を和ませ、いつしか、仲間内でも、なくてはならない存在にまでなっていた。それだけに、今、こうして新たな一歩を踏み出そうとしていることにも、晴れの門出を祝う思いよりも、淋しさばかりが先に立った。
「桔梗には、世話をかけてばかりだったな……。初めてここに連れて来られた日から……」
「……」
「ボロボロの身なりの俺にも、嫌な顔一つせず、接してくれた……。あの時は、どんなに嬉しかったか……」
「竜……」
「それなのに、まだ、何の恩返しもしていない……」
ぽつりぽつりとつぶやく竜に、ふいに、桔梗は胸にこみ上げて来る思いをこらえ切れなくなった。
「何を言ってるの! 無事にここに戻って来ることが……、それが、何よりの恩返しだわ!」
桔梗は、思わず真顔になって、竜に訴えかけていた。
「あんたの家はここなのよ。何があっても帰って来るのよ! 私は……、いつだって、待っているわ……」
最後の方は声にならなかった。肩を震わせ、むせび泣く桔梗に、竜も切ない思いでその肩を抱いた。
「他に帰る場所があると思うのか?」
いつもの人懐っこい瞳が、桔梗の顔をのぞき込む。
「……そうね」
どこか悪戯(いたずら)っぽく見つめる竜に、桔梗も、いつしか泣き笑いになっていた。
「実は、桔梗に頼みがあるんだ……」
竜はそう言って、急に桔梗から離れると、座の傍らに置いていた細長い包みを差し出した。
「……何なの?」
「いいから、開けてみて……」
促されるまま、桔梗が包みを開くと、鮮やかな瑠璃紺(るりこん)に、胡蝶(こちょう)の縫い取りをあしらった錦の反物が露わになった。
「これは……?」
呆然としている桔梗をよそに、竜は慣れた手つきで、さっと反物を広げると、桔梗の肩の辺りに当てて見た。
「思ったとおりだ……」
「……」
「初めて見た時から、きっと、桔梗に似合うと思っていた……」
竜は一人悦にいった面持ちで眺めている。
「こんな高価なものを……、どうして?」
桔梗は、むしろ、咎(とが)めるように、竜に問い質(ただ)した。
「今日、楊孫徳殿から、これまでの手当だと、銭をいただいたんだ。でも、あまりにたくさんで、いったいどうしたものかと途方にくれていたら……、その時、ふと、ひらめいたんだ。これを桔梗にって……」
「何を言っているの! あんたが一生懸命働いて得たお金じゃない。自分のことに使わなくてどうするの」
もっともらしく諭す桔梗にも、竜は静かに首を横に振り、
「別に欲しいものなんて何もない……」
「竜……」
「それより……、俺のいない間に、これをきちんと着物に仕立てて、今度戻って来る時に、それを着て迎えてほしいんだ……」
「……」
「俺の選んだ反物で作った晴れ着を桔梗に着てほしい……。その姿を見たい……。そういう望みを持つのも、悪いことではないだろう?」
それを聞いて、桔梗もついに感極まった。
「どうして、あんたはいつもそうなの? 人のことばかり考えて……。自分のことはいつでも後回し……」
「……」
「もっと、欲を持ちなさい。自分のために……。そうでないと、これからは、とてもやっていけないわよ!」
桔梗のいささかきつい口調に、竜は驚きつつも、神妙な顔つきになった。
「ごめん……」
「だから……、どうしてそこで謝るの? あんたは何も悪くないでしょう? そうやって、むやみに頭を下げたり、謝ったりするものではないわ。あまりにも従順すぎる態度は、時に、人を苛立たせることもあるのよ」
そこまで捲くし立てて、桔梗もはたと我に返った。竜はうつむいたままじっと聞き入っていた。
「いやだわ、私ったら……、何を言っているのかしら。せっかくの門出だというのに、お説教じみたことを……」
さすがに桔梗も、旅立ちを控えた者を前にして、口にすべきことではなかったと、ひどく悔やんだ。
「そんなことはないさ。ありがとう、桔梗……」
「だから……」
「嬉しいんだ。そんなにも俺のことを案じてくれる……、その桔梗の心遣いが……」
向けられた眼差しの温かさに、桔梗はむしろ、自らの内に潜む頑な部分が、緩やかに解けて行くような、そんな奇妙な感覚に襲われていた。
(もう何も言うまい……)
自分の不安を、これ以上、竜に押し付けてはならない……。
そう悟った桔梗は、努めて心を落ち着けると、改めて竜と向き合った。
「竜……。あんたの言いたいことは、よくわかったから……」
「桔梗……」
「これは確かに預かったわ」
と言って、桔梗は、反物を大事そうに抱え込んだ。
「でも、きっと約束は守りなさいよ。もし違(たが)えたりしたら……、その時は、承知しないから!」
桔梗は、再び涙声になっていた。
「もちろんさ。必ず帰って来る。約束するよ」
と、力強く答える竜に、
「ええ、ええ……」
桔梗は何度もうなずきながら、やはり、こぼれる涙をこらえることができなかった。
「どんなことがあろうと……、ここに戻って来る。桔梗の許に……、必ず!」
胸に縋(すが)りつく小さな肩を抱きながら、竜自身もまた、そう心に固く誓っていた。
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