|
翌朝、まだ夜も明けきらぬうちに、船は筑紫を後にした。桔梗は、見送るのはつらいからと、ついに、港に姿を現わすことはなかった。
外海を行く航海ともなると、一行は総勢 7−80人余を下らない大所帯で、ほとんどが宋の者だったが、日本人の船子も、10人余り同行していた。それだけに、船の上では、宋の言葉と日本の言葉が乱れ交い、賑やかそのものであった。
それにしても、絶えず島影を頼りに進む瀬戸内の旅とは違い、今や、後方に筑紫の地がぼんやりと見え隠れする他は、見渡す限り、何も見えはしない。
「順調に行けば、10日で明州に着くだろう……」
楊孫徳が、そうつぶやいた傍らで、竜はなお、いつまでも筑紫の方を眺めていた。
「おまえは幸せなやつだ……」
「えっ?」
唐突に言われ、竜は瞠目(どうもく)して楊を見返す。
「海を渡る男にとって、最も大切なものは、何だかわかるか?」
首をかしげる竜に、楊はさらに続けた。
「己を待つ人がいるということだ……」
「……己を待つ人?」
問い返す竜に、楊は静かにうなずく。
「そうとも……。いかなる航海も常に命がけだ。我らとて、これまでに、幾度も危ない目にも遭って来たものだ……。だが、その度に、いつも、帰りを待つ家族の許に、必ず生きて戻るのだと……、そう心に強く言い聞かせ、切り抜けて参ったのだ」
「……」
「竜……。日本には、おまえの帰りを待つ人達がいる……。それは、この五年の歳月の間に、おまえが、己自身の力で築き上げた立派な財産だ」
そう言って、楊は、笑顔で竜の肩を軽く叩くと、船倉へ下りて行った。
竜は、しみじみとした思いにとらわれていた。
五年前に筑紫に流れ着いた時には、なるほど、自分には何もなかった。それまで、どこで、何をしていたのか……、その記憶さえも……。
得体の知れぬ異邦人と、いわれなき迫害を受け、死よりつらい孤独な日々――。
それが、一人の男との出会いによって、何もかも一変したのだった。
誰かの信頼を得ようとするなら、まずは自らが歩みより、己が心の内をさらけ出さなくてはならない―― そう教えてくれた玄武。
言葉を必死で覚え、その思いを自分の口で伝えることができるようになって、周囲の人間の、自分を見る目が、どれほど変わったことだろう……。そして、そうなってみて、初めて、それまでの己が、いかに頑なであったかを思い知らされたのだった。
心を開けば、いつかは理解し合える――。
玄武のその言葉を信じられるようになった時から、竜にも仲間と呼べるものができた。
今も目を閉じれば、次々と思い浮かぶ愛しき人々の面影――。
(俺には戻る場所がある……)
そう思うだけで、不思議と、穏やかな気持ちにもなれた。
竜は、一つ深呼吸して、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。そして、昇り行く朝日を眺めながら、ひと時、まだ見ぬ明日に思いを馳せる。そう、旅はまだ、始まったばかりなのである。
|
|
|
|
この時期の海は、比較的穏やかで、折りよく、北へ向かう風をうまく捕まえられたこともあり、まずは、順調な滑り出しと言えた。
が、風向きの次第によっては―― 例えば、逆風や凪(なぎ)の折には、船子が交代で櫓(ろ)を漕ぐことになる。そのために、何十人もの男達が、一つ船の上でひしめき合っているのだが、これが、船出から一日、二日と経つうちに、そこかしこで、ちょっとした小競り合いが目に付くようになった。
といっても、皆、根は気さくな者達ばかりで、諍(いさか)いの原因も、およそ愚にもつかない些細なことであったから、時機を見計らって張梁が一喝すれば、大抵は、すぐにおさまってしまうものである。そういう時には、竜も、張梁の存在感の大きさに感心することしきりだった。
が、中には、その張梁ですら手に負えない――、そんな厄介な男も一人いた。
楊孫徳が、筑紫で新しく雇い入れた若い船子で、名を隼人(はやと)と言ったが、これが、一度火がつくと、手がつけられないほどに暴れまくり、その度に、ちょっとしたすり傷を負う者も、後を絶たない有り様であった。
そもそもは、痩せぎすの体型をからかわれ、取っ組み合いの喧嘩を始めたのが最初だった。
体格の良い荒くれ男達を相手に、吹けば飛びそうな貧相な身体つきで向かって行く、その度胸の良さには、始めのうちこそ、賞賛を贈る者も少なくはなかったが、それも度を過ぎれば、皆の顔にも、倦厭(けんえん)としたものが表れるようにもなる。
いつの頃からか、船の上は、ぎくしゃくとした空気に包まれ、自ずと、隼人は孤立した状態になっていた。
「全く、困ったことになった……」
さすがの張梁も、ほとほと、困り果てていた。
「これだから、新しい船子を入れるのは難しい。何が起こるかもわからぬ船の上では、人の和こそが第一だからな。たった一人、勝手をする者がいるだけで、その和が崩れてしまうこともある……」
竜は張梁の傍らで、黙って聞き入る。
「人の心はそれぞれだ。この狭い船の上で、何十人もの人間が、寝食を共にしているんだ。そりゃあ、時には、気に食わねえこともあるだろう。けどな、だからといって、皆が皆、己の我を通そうとしても、そうそう思い通りになるものでもない。折れるべき所は折れる……。そのくらいの努力をしたって、罰は当たらんだろう。たかが、半月やそこらのことだ。無理な話ではないと思うのだが……」
そう言って、頭を抱える張梁を横目に、竜は隼人を見遣った。例によって、今日も一人、船の舳先(へさき)に身をもたせていた。
実の所を言えば、竜としては、内心、隼人を気の毒に思う部分もあった。
張梁は何かというと、隼人にばかり矛先を向けるが、始めにからかった方には、まるで非はないのか? たとえ軽い冗談のつもりであれ、露骨に自分の容姿を論(あげつら)われて、腹を立てない者がいるだろうか……。
ただ、己に正直すぎるがゆえに、周りに敵を作らずにはいられない―― そんな隼人の不器用さが、むしろ、竜の目には、ひどく痛々しく映るほどだった。
「俺が話してみる」
不意の申し出に、張梁も呆気にとられた。
「この船では同じ新入り同士だ。隼人にしても、その方が話し易いかもしれない……」
張梁は腕組みしながら、小さく唸(うな)った。
「それも、そうかもしれんな……。まあ、おまえの好きにするさ……」
既に、半ば諦め顔の張梁に、竜は黙ってうなずいて、ゆっくりと舳先へと向かった。
この時の隼人は、いたって穏やかに、遠い目で、海の彼方を見つめていた。
「いい風だな……」
竜も隼人の隣に立ち、同じように海を見遣る。
「こうしていると、海の果てしない広さを、まざまざと思い知らされる。まるで、この世に俺達だけしかいないような……。そう思わないか?」
話し掛ける竜にも、隼人は相変わらず見向きもしない。
「そんなに一人が好きなのか?」
「……」
「そうやって、みんなから背を向けて……、淋しくないか?」
何を言おうとも、まるで、なしの礫(つぶて)で、何の答えも返っては来ない。
「こうして、一つ船に乗り合わせたのも何かの縁だ。いがみ合ってばかりいては、もったいないだろう?」
竜は、どうにか隼人の気を惹くことができないかと、思いつく限りの言葉を並べてみた。
「俺は、群れるのは嫌いなんだよ」
あまりの執拗さに辟易(へきえき)したか、隼人は捨て鉢に吐き捨てた。
「なぜ?」
竜は次の言葉を引き出そうと、さらに問い掛ける。
「人間なんてものは、所詮一人だ……。生まれてくる時も、死ぬ時も……」
「だが、一人では、生きて行けない……」
竜は真顔で言った。しかし、それを聞いた隼人は、突然、声を立てて笑い出した。
「俺は一人で生きて来たぜ。ずっとな……。俺みたいな半端者を助けようなんていう奇特(きとく)なやつは、あいにくと、俺の周りには、一人もいなかったもんでね……」
「隼人……」
「人のことを気安く呼ぶな! 俺は、おまえみたいなやつを見てると、虫唾(むしず)が走るんだよ! とっとと失(う)せやがれ!」
それ以上は、取り付く島もない。
が、手厳しく突き放されてもなお、竜はなぜか、この隼人が気にかかってならなかった。
一見、野生の狼さながらの獰猛(どうもう)さを剥き出しにしながら、時折見せる翳(かげ)り――、そこには、怯(おび)える子犬のような弱さ、頼りなさも感じられる。そして、実はそれこそが、隼人の真の姿なのではないのか……。
一度、そんな考えが頭をよぎると、口汚い罵声(ばせい)すらも、隼人自身の心の悲鳴のようにも聞こえ、なおのこと、このままにはしておけないような気がした。
しかし、何かを言おうとすれば、余計に、心の壁を高くそびえ立たせ、何者も寄せ付けまいと身構える隼人に、自分はいったい、どんな言葉をかけることができるというのか……。
思いあぐねて、竜は天を仰ぎ見た。と、その時、直感的に、微かな異変を感じ取っていた。
| |