波涛を越ゆ (参)
 
   
 
「嵐になるかもしれない!」
 急ぎ張梁の許へ戻った竜は、切羽詰った様子で告げた。
 
……嵐だと?」
 張梁も空を仰いでみるものの、そんな気配など、微塵も感じられはしない。
「おい、竜
……。今の時期に嵐など、そうはないぞ」
 と、軽く笑い飛ばして、取り合おうともしない張梁に、竜はなおも食い下がる。
 
「わずかだが、風の流れが変わった気がする。それも、生暖かくて、湿りを帯びた
……。何より、あの雲が気にかかってならない……
 竜は真剣な面持ちで、沈み行く夕日に照らされ、鮮やかに彩られた雲を指差した。
 
「いつもと同じように思うが
……
 張梁は困惑を見せつつ、楊孫徳の顔色を伺う。楊も腕組みして、しばらく考え込んでいたが、
「念のため、用心にこしたことはなかろう
……
 と答えて、張梁に目配せした。
 
 主人の命となれば、張梁とても従わぬわけにはいかず、やむなく、帆を降ろすよう指示を出した。が、予定外の減速を余儀なくされ、少しでも家路を急ぎたい船子達の不満は、如何ともしがたく、張梁は必死にこれを説き伏せながらも、竜に対して、一抹、恨めしい思いを抱いた。
 
 ところが、それから一刻も経たないうちに、果たせるかな、天候は豹変することとなった。
 暮れかけた空が厚い黒雲に覆われ、完全に風向きが変わった。見る間に、波は大きなうねりとなり、襲い掛かってくる。叩きつけるような雨に視界を遮られ、激しい横波に舵もきかず、いつしか、船はどうにも身動きのとれない状態に陥っていた。
 
「こんなことになるとは
……。しかし、先に帆を降ろしておいたのは、正しかったようだな……
 楊孫徳の、緊張感の中にも、どこか安堵の思いも偲
(しの)ばれる口振りに、張梁は自らの判断の甘さを悔やむと共に、一時でも、竜を疎(うと)んじた己を心から恥じた。
 
 それにしも、逆巻く波に翻弄される船の上は、とても立ってはいられぬほどで、風も次第に激しさを増し、打ち寄せる波が船を洗う。船子達は、船倉になだれ込む海水をせっせとかい出すものの、とても追いついたものではない。現に、船べりから望む海面は、先ほどに比べ、明らかにせり上がっていた。
 
「荷を捨てるわけにはゆかぬのか!」
……
「このままでは、船が沈む! それぐらい、あんただってわかっているはずだろう!」
 風雨にかき消されそうな中で、竜は張梁に向って大声で叫んだ。しかし、張梁は何の返事も返そうとはしない。
 
「どの道、水に浸かった品は、あらかたが使い物にならなくなる。今はとにかく、少しでも、船を軽くすることを考えるべきではないのか!」
 そう言い放って、厳しく見据える竜に、張梁は顔を強張らせながらも、しかとうなずくと、二人して、急ぎ楊孫徳の許へ赴き、積荷を投棄するよう進言した。
 
「何と
……?」
 楊孫徳は信じられないという顔つきで、二人を交互に見つめる。
「船を
……、いや、皆の命を守るためには、もう、それしか手立てがねえ」
「しかし、荷を捨てることなど
……
 いつもの楊らしくもなく、ひどくうろたえ、口籠もってしまっている様に、竜の堪忍
(かんにん)もついに切れた。
 
「待っている人の許に、どんなことをしても、帰るんじゃなかったのか!」
 乱暴なまでの言葉の礫
(つぶて)をぶつけられ、楊もようやく腹を括(くく)った。
「そうであったな
……
 
 すぐさま船倉に向かった楊孫徳は、毅然と、皆に積荷を海へ投げ入れるよう命じた。
 日本からの品々が詰まった夥
(おびただ)しい数の木箱が、波間に浮かんでは消えて行く……。それを眺めながら、張梁は一つ、力ないため息をついた。
 
「天趙のヤツが知ったら、また、嫌味ったらしく恨み言を吐きやがるんだろうな
……
 と言いながら、呆れ笑いを竜に向ける。
 
「なに、生きてさえいれば、いつでも取り返すことはできる
……
 覚悟を決めた楊は、淡々とした表情で、張梁の肩に手を置いた。
「こうなったら、何をおいても、必ずや生きて戻らねば
……
 楊と張梁、そして竜は、それぞれ顔を見合わせ、互いにうなずき合った。と、その時、ふいに背後で怒号が飛んだ。
 
「おまえのせいで、こんなことになったんだろう!」
 竜は咄嗟
(とっさ)に振り返った。
「この疫病神
(やくびょうがみ)め!」
 船べりに何人かの船子達が集まり、何やら言い争っている。
 
「こんな時に、いったい何をもめてやがる!」
 張梁は慌てて諍
(いさか)いの場へ駆けつけた。
「こいつのせいで、海神様がお怒りになったに違いねえ!」
 ひときわ大柄の男が、隼人の胸座
(むなぐら)をつかんでいた。
「よさねえか!」
 
 張梁が止めに入ろうとした瞬間、まぶしい閃光
(せんこう)が走るのと同時に、耳をつんざくような轟音(ごうおん)が突き抜けた。その強い衝撃に、足許が激しく揺らぎ、誰も彼もが一様に倒れ伏した。何が何やらわからぬままに、ようようと振り仰げば、帆柱が真っ二つに折れ曲がり、その部分から、白い煙が立ち上っていた。
 
「もう何もかもお終いだ!」
 一人の男がそう叫んで、頭を抱え込むや、その動揺は、瞬く間に、深い絶望となって船全体を覆い尽くし、やがて、誰の口からともなく、恐ろしい言葉がつぶやかれ出した。
 
「生贄
(いけにえ)を差し出そう……
「そうだ
……、生贄だ!」
 
 突如として光明を見出したが如く、その叫びはこだまのように船上を駆けめぐる。皆の視線は、自ずと、隼人に向けられていた。狂気の沙汰としか思えない男達の変貌ぶりに、竜は、たとえようのない恐怖を覚えた。
 
「やめろ! そんなことをした所で、どうなるものでもない!」
 隼人を取り囲もうとする男達の間に、竜はあえて立ち塞がった。
「どけ! 海神様が生贄を望んでおられるのだ! 邪魔をするな!」
 
 いつの間にか、竜も羽交い絞めにされ、自由を奪われていた。もはや、完全に理性の箍
(たが)がはずれた暴徒に、何を言っても通じはしない。張梁とても、無力な傍観者に成り下がるより他なかった。
 
「さあ、生贄を捧げようぞ!」
 
 屈強の男達に四肢をがっしりと押さえ込まれ、隼人は抵抗する間もなく、海に放り込まれていた。その瞬間、歓喜の声が船上に沸き上がり、張梁も楊孫徳も、思考が止まったように、それを無表情で眺めていた。
 しかし、程なく、もう一つの影が、勢いよく身を躍らせ、直に暗い水面に吸い込まれて行ったのを認めるや、二人はそろって血相を変えた。
 
「あの馬鹿!」
 張梁は、慌てて身を乗り出し、辺りを見回した。が、不気味な生き物のようにうごめく暗黒の波間には、どんなに目を凝らしてみても、もはや、人影一つ見つけることはできない。
 
「竜!」
 張梁はあらんかぎりの声を振り絞り、その名を叫び続けた。しかし、それも、怒涛
(どとう)の如く打ち寄せる波に、悉(ことごと)くかき消され、ただ、虚しく時が過ぎて行くばかりであった。
 
 
 
 嵐の一夜が過ぎると、前夜の狂乱も悪い夢であったかと錯覚するほどに、波も人の心も、穏やかすぎるほど、静かな朝を迎えていた。
 
 船はかろうじて転覆を免れたものの、帆柱が折れた上に、至る所で損傷が激しく、自力の航行は、とてもままならぬ状態にあった。場合によっては、そのまま漂流という最悪の事態もあり得たが、幸いにも潮の流れが味方したこともあり、わずか数日のうちに、奇跡的に、筑紫の港へ戻ることができた。
 
 急を聞き、港へと駆けつけた桔梗は、無残な船の様を見て、絶句した。
「桔梗
……
 張梁に両脇を抱えられて姿を現した楊は、まるで、別人と見紛
(みまご)うほどに、すっかり憔悴(しょうすい)しきっていた。
 
「大変なことに
……。でも、ご無事で何よりでした……
 そう桔梗が声をかける間に、楊はがくりと肩を落として、その場にうずくまっていた。
 
「主殿
(あるじどの)!」
 張梁が制する前に、楊は桔梗の前に手をついていた。
「すまぬ
……
 それだけ言って、楊は、何度も頭を下げた。そのあまりの悲愴
(ひそう)さに、桔梗もハッとする。目は、無意識の内に、竜の姿を探し求めていた。
 
「竜はどこです? 竜は
……
……
「竜は
……どうしたんです?」
 青い顔をして頭を抱える楊の姿に、桔梗も、竜の身に只ならぬことが起きたことをはっきりと悟った。
 
「突然の嵐であった
……。我等も今までに遭ったことのない、それはもう、凄まじいばかりの……
……
「難破を免れたのは
……、これはもう、竜のおかげとしか言いようがない。天候の異常にいち早く気づいて、帆を降ろさせた。荷を捨てることをためらう私に『生きて帰るためだ』と叱咤(しった)した。竜がおらねば……、我等は皆、間違いなく、海の藻屑となっていたろう……
 楊は涙ながらに語った。
 
「それで、竜は
……?」
 言い淀む主人を見かねて、張梁が二の句を継いだ。
 
「嵐の最中、船子の一人が海に投げ出されて
……。竜はそいつを助けようと、自分から海へ飛び込んだ……
 張梁もさすがに、あの夜起きた悪夢を、ありのまま話すことはできなかった。
 
「まさかこんなことに
……。一瞬のことで、止める間もなかった……
 桔梗の顔からは、既に血の気が消え失せていた。
 
「嵐が治まってからも、辺りを随分探してはみたが
……、とうとう、見つけることはできなかった……
 無念の思いも露わに、張梁は視線を落とした。
 
「真にすまぬ! 私が宋に連れて行こうなどと、余計なことを申したばかりに、このようなことに
……。玄武のお頭にも、とても顔向けができぬ!」
 そう言ったきり、とうとう楊孫徳は泣き伏した。
 
 あの日、いつもの笑顔を残して、宿を後にした竜の姿が、桔梗の目に浮かんだ。あれからまだ十日と経っていない。それなのに、もう二度と戻っては来ないというのか
……。あまりに突然の悲報に、桔梗は涙を流すこともできず、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
 
(どうして、こんなことに
……
 
 迷う竜の目を宋に向けさせたのは、他ならぬ自分ではなかったか
……。そのつらい胸の内を思えばこそ、せめて、束の間であれ、夢中になれる何かを見つけることができるなら……などと気安く考えて……。それが、よもや他ならぬ竜の命をも奪うことになろうとは……
 
(生きてさえいれば、また、新たな希望も見つけられたかもしれないのに
……
 
 今となっては、後悔ばかりが先に立つ。確かにその不安を感じていながら、それでも、結局、止めることをしなかった己の何と恨めしいことか
……
 桔梗は、虚ろな目で海を見遣った。目の前に広がる真っ青な大海原は、波一つ立たず、実に、穏やかそのものだった。
 
(この同じ海が、竜の命を奪い取って行ったというの?)
 やり場のない思いに、ちぢに乱れる心を抱えながら、しかし、その時、ふと、空耳とは思えないほど、はっきりとした声を、桔梗は聞いたような気がした。
 
『どんなことがあろうと
……、ここに戻って来る……、桔梗の許に……、必ず!』
 
 暖かい声音が、そっと包み込むように、桔梗にまとわりついてくる。
『必ず帰って来る。約束するよ!』
 声のありかを探るように、つと天を仰いだ桔梗を、張梁は怪訝
(けげん)に見つめた。
 
(そうだったわね
……
 瞬く間に、桔梗の目には、生気が戻ってきていた。
 
「どうか、手をお上げ下さい
……
 桔梗はそっと楊を抱え起こす。
 
「竜は、生きています」
……
「きっと、生きてここに
……、私の許に戻って来ます……
「桔梗
……
 楊は呆けたような目で、桔梗を見返した。
 
「約束したんです。必ずここに帰って来ると
……。私はその言葉を信じます。あの子は……、どんなことがあろうと、約束を違(たが)えたりはしませんもの……
 桔梗はそう楊に語りながら、自らの心にもまた、強く言い聞かせていた。
 
(竜は必ず生きている
……。私だけでも、そう信じなくては!)
 
 この日、楊孫徳の船が嵐に遭い、竜の行方がわからなくなったことを記した玄武宛の便りを、桔梗は京に向かう知り合いの船に託した。
 そして、それは桔梗にとって、つらく長い夏の始まりでもあった。
 
 
  ( 2004 / 10 / 21 )
   
   
 
   
 
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