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「随分とご熱心にござりますな……」
華やいだ香りと共に運ばれてきた声に、重衡は、琵琶を掻き鳴らしていた手を止め、つと返り見た。
「これは隆房(たかふさ)殿……」
冷泉少将藤原隆房。権大納言藤原隆季(たかすえ)の嫡男で、重衡より八つばかり年上になるが、一つ違いの異母妹公子(きみこ)の婿であるから、形式上は義弟にあたる。
隆房の祖父は、受領(ずりょう)を歴任する中流貴族の出にありながら、鳥羽院の御世には、その第一の寵臣として、一方ならぬ権勢を欲しいままにした藤原家成(いえなり)であり、重衡の父清盛にとっては、地下侍(じげざむらい)と不遇をかこっていた時代に引き立てられ、現在の平相国入道と恐れられる地位に至る大出世の糸口を示した、恩人ともいうべき人物でもあった。
そのためか、元来、情に厚い清盛は、家成の死後も、その跡を継いで善勝寺長者となった息男の隆季を遇し、入内した徳子の立后の際には、中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)という要職にも任命している。さらに、この春には、その嫡子隆房に娶(め)わせた娘公子の腹に、清盛の外孫にもなる待望の男子も誕生し、両家の交誼こうぎ()は、いっそうの親密さをもって、世間にも広く知られるようになっていた。
「今宵はこちらにお渡りでしたか……」
重衡は琵琶を傍らに置くと、年上の義弟に座を勧めた。
「そういう重衡殿こそ……、こちらにはさっぱり寄り付かれぬと、二位殿も歎いておいでにございましたが……」
ここ西八条亭は、祖父忠盛の代からの平家伝領の館で、中宮徳子の里内裏とすべく、盛大な改修も施され、今は、母の二位尼こと時子を主人に、腹違いの妹達が打ち揃い住まっているが、女ばかりの集う館は、どこか気詰まりでもあり、重衡自身は、専ら六波羅に起居することの方が多かった。
片やの隆房の方はといえば、妻の実家を訪(おと)なう通い婿の身の上にあったが、結婚前には流した浮名も数知れぬ名うての色好みで通っており、その容貌を見れば、確かに、多くの女達が心をときめかすのも道理――、絵巻物から抜け出たような雅やかな風情には、これが生まれながらの貴族というものかと、重衡も納得の行く貴公子ぶりであった。
それでも、結婚してしばらくは、隆房もまめまめしく西八条へ通い詰め、傍目(はため)にも善良な夫と映るほどであったのだが、やがて、公子の懐妊が知れ、月満ちる間に、生来の浮気の虫がうずき出したのか、次第に外泊も目立つようになった。
母の時子は、なさぬ仲の娘とはいえ、幼な子の頃から、我が子同然に慈しんできた公子の婿に、数寄者(すきもの)の噂高い隆房を迎えることには、元々、あまり乗り気ではなく、案の定、その不実を歎いたことは言うまでもないが、兄の知盛なども、その軟弱ぶりをあからさまに批判して、近頃はどうも、隆房への風当たりが強い。
ただ、当の公子が、おっとりとした性質のゆえか、それとも、武家の娘らしい気丈さゆえか、夫の素行の悪さにも、さして気にする風でもなく、表面上、二人の夫婦仲に波風が立つというようなこともなかったし、重衡にしても、異母妹を不憫(ふびん)に思う気持ちがないわけでもないが、むしろ、少しも悪びれた様子も見せず、針の筵(むしろ)ともいえる西八条にも、のこのことやって来るこの男の大らかさには、いささか敬服する思いもあり、いずれにせよ、この冷泉少将隆房という人物が、未だ世間知らずの重衡に、多くの刺激をもたらしていることは確かであった。
「それにしても、さすがは、妙音院(みょうおんいん)殿、直々のお仕込みにござりますな。わずか半年足らずの間に、これほど腕を上げられるとは……」
妙音院殿とは、かつて、保元の乱を引き起こした悪左府藤原頼長を父に持ち、自身も一時期配流の憂き目も見た藤原師長(もらなが)のことだが、程なく許され、都へ召し返されて後は、晴れて官界にも返り咲き、後白河院の寵臣の一人として厚遇を受け、今は大納言の位にある。
ちなみに、妙音院の号は、とりわけ管絃の才に優れた逸物との世評から、いつの頃からともなく、音曲の神―― 妙音天(弁財天)になぞらえ、称されるようになったものである。
その妙音院師長から、重衡が琵琶の指南を受けるようになったのは、姉の徳子の入内が決まり、これに近侍するようにとの、内々の命が下ってすぐの頃のことであった。
宮仕えする身となれば、管絃などの催しは、どうにも避けて通れぬ道であり、これまで、武芸に興味を示しても、そうした類(たぐい)のものには、まるで見向きもしなかった重衡を、叔母にあたる建春門院が大そう案じ、せめて、恥をかかぬ程度には身につけておくようにと、当代随一の上手で知られる師長について、琵琶を習うことを強く勧めたのである。
しかし、いかに女院のお声がかりとはいえ、始めは琵琶を構えることも、撥(ばち)を握る手つきもぎこちないばかりの重衡に、師長も首を捻(ひね)ることしきりであったが、それでも、根気強い教授に、重衡自身の持ち前の負けん気も相まって、三月を過ぎる頃には、付け焼刃ながら、一曲二曲は、それらしく弾き切ることができるようになっていた。
「公子も、いずれ、お兄上と合奏なぞいたしたいものと、しきりに申しておりまする」
「それは……。あの異母妹の筝(そう)に合わせられるようになるには、まだまだ……」
重衡は慌てて頭(かぶり)を振った。
「何をご謙遜召さるか。あれも、兄上の琵琶の音には、何やら、心惹かれるものがあると、近頃は、大そう誉めそやしておりますものを……」
筝の上手で知られる妹に、そのようなことを言われれば、たとえ世辞であれ、重衡とて悪い気はしないが、さすがに人前で奏じ切れるほどの自信はない。
「真に、いつの日か、そのような時が参るよう、努めて精進いたしますが……」
と、当り障りのない返事をするに留めた重衡に、隆房も優しげな笑みを浮かべてうなずいた。
「しかし……、重衡殿には、何か、気掛かりなことでもおありなのですかな?」
「……はあ?」
隆房の唐突な問い掛けに、重衡は首をかしげる。
「今宵の音色は、心なしか、苛立っておられるように拝しましたが……」
「……いえ、取り立てて、そのようなことはござりませぬが……」
重衡はわずかに瞳を曇らせ、伏目がちに答えた。
「さようにござりますか? 身共(みども)は、てっきり、思うにまかせぬ片恋にでも、悩んでおいでとばかり……」
それを聞くや、重衡は唖然とし、やがて、苦笑いを浮かべた。
「何を仰せになるかと思えば……」
「違いましたか?」
隆房の茶目っ気たっぷりな目を見て、重衡は思わず噴出しそうになるのをこらえた。
「今の私に、恋などしておる暇(いとま)はありませぬ。日々の勤めに追われるばかりで……」
「これは異なことを……。そういう暇は、苦心いたして作り出すもの。そもそも、重衡殿はいささか生真面目に過ぎまする。公務にご熱心なのもよろしいが、少しは下の者に任せて、息抜きぐらいなさらねば……、とても身がもちませぬぞ」
と、したり顔で言う隆房に、
「なるほど、貴殿はそのようにして……」
重衡がまじまじと見返すと、隆房は急に目を泳がせて、一つ咳払いをした。
「無論、公子はこの上もない良き妻。あだや、おろそかにするものではござりませぬ。したが……、野辺に咲く名もなき花にも目を向けておればこそ、大輪の牡丹の艶やかさ、美しさが身に染みるものにござります。まだまだお若い重衡殿には、おわかりにはなるまいが……」
などと、隆房はもっともらしい講釈を垂れた。
「重衡殿も、多くの恋をなさりませ。付き合うた女子(おなご)の数だけ、男の器量も上がると申すもの。もっとも、かように、みめ麗しき公達を、周りが放ってはおきますまいが……。それこそ、あちこちの女房どもが、今か今かと、手ぐすね引いて待ち構えておりましょうぞ……」
冷やかし半分の物言いにも、我知らず頬を紅潮させる重衡を、隆房は明らかに面白がっていた。
「ほれ、かようなことぐらいで顔を赤らめておるようでは、まるで修行が足りませぬな。これでは、魔物の住まう禁裏(きんり)で生き抜くことなど、とてもできませぬぞ」
すっかり隆房の調子に巻き込まれて、重衡はさしずめ、ぐうの音も出ないといった所だった。
「まあ、その辺りの話は、今度、酒など酌み交わしながら、ゆっくりと致すとして……」
隆房はおもむろに立ち上がった。
「それにしても……、重衡殿の御心を悩ませるのは、いかなる女性か……。いずれは、この不肖の義弟にも、打ち明けて下さりますでしょうな」
そう言って、隆房は軽く目配せすると、妻子の待つ対の屋へと引き上げて行った。
「やれやれ……、とんだ誤解をなされたものよ……」
重衡はため息をつきながら、小さくつぶやくと、再び、傍らの琵琶を手繰(たぐ)り寄せた。
しかし、あれで、隆房の勘も、あながち、はずれてばかりでもない。ここの所、片時も、脳裏を離れることのないある残像―― それが、重衡の心をひどく落ち着きなくさせていたのは、紛れもない事実であった。
そう、あれはもう、かれこれ一月余り前のことになるか……。
ひどく蒸し暑く、寝苦しいばかりの夜に、重衡は、ようやく眠りに就いたと思ったそばから、悪い夢にうなされ、慌てて飛び起きたのだった。
「竜!」
思い出すだけでも、何とも気味の悪い……。
一寸先すらおぼつかない、真っ暗闇の只中に、突如として浮かび上がった、もがき苦しむ竜の姿――。
何度も手を差し伸べようと試みるものの、その度に、竜は己が手の先をすり抜けて行き……。そして、とうとう、闇の奥深くへと、引きずり込まれるように、その姿が消え去ったところで、不意に、目が覚めたのだった。
(竜の身に、何か起きたのではあるまいか……)
じっとりと汗ばむ身体を両の脇で抱え、重衡は薄ら寒い予感に打ち震えた。
それは、折りしも、竜が宋に渡ることになったとの知らせを、伝六から聞かされたばかりの頃のことで、重衡は、矢も盾もたまらず、翌朝には、急ぎ玄武の宿に使いの者を遣わし尋ねさせたのだが、あいにくと玄武は福原に下向中で、留守を守る弥太にしても、寝耳に水の話に、その返事はまるで要領を得ない。
何もわからぬままに、時ばかりが虚しく打ち過ぎ、重衡の忍耐もそろそろ限界に近づきつつあった。
(竜……、おまえは今、いかがしておるのだ……)
心の乱れのままに、つい撥(ばち)を握る手にも力が入る。そして、最高潮にさしかかった琵琶の音が、何の前触れもなく、ふつりと途切れたその瞬間――。
「申し上げまする!」
重衡の耳に響いた声―― それは、長く待ちかねた、玄武の来訪を告げるものであった。
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