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京に比べ、遥かに温暖な西国の地とはいえ、海から吹き寄せる風に、冬の足音が、確かに感じられるようになった秋も終わりの頃……。筑紫にある玄武の宿では、京より下向した弥太と伝六がしばらく逗留(とうりゅう)していた。
「……桔梗は?」
寝起きのしまりのない顔で、土間に下りて来た伝六が辺りを見回して言う。
「さあな……」
弥太は身支度をしながら、気のない返事をした。
「どうせまた、港だろうな……」
欠伸をしながら、ぽつりとつぶやいた伝六に、
「わかっているなら、わざわざ聞くな……」
と、弥太は無愛想に吐き捨てた。
「全く、よく続くよな……。もう半年にもなろうっていうのに……」
竜が行方不明になってからというもの、桔梗は暇を見つけては、しばしば、港へ足を運んでいた。
「行方知れずになったのが俺でも、こんなに心配するかな?」
「さあて、どうだかな……」
伝六の子供じみたやっかみには、弥太もさすがに呆れ顔だった。
「しかし、そろそろ諦めた方がいいかもしれんな……。戻って来るものなら、とうに、戻って来ているだろう……」
「けど、あの竜だぞ。そんな簡単に、くたばるとは思えねえよ!」
伝六は、向きになって、弥太に言い返した。
「誰も、死んだとは言ってねえだろう……。ただ……、ここへは、もう戻って来ないかもしれん……」
「何でだよ!」
「いろいろあったからな……」
「何が?」
「だから……、いろいろだ……」
何かにつけ、奥歯に物の挟まったような物言いしかしない弥太に、伝六は自分一人、蚊帳(かや)の外に置かれているようで、どうもおもしろくない。
「何で、俺らには何も教えてくれねえんだよ! 竜のやつ、京でいったい何があったんだ?」
伝六もとうとう我慢がならず、弥太に噛み付いた。しかし、
「いないやつの話はしたくない……。あいつが帰って来たら……、まあ、その時は教えてやらなくもないが……」
弥太の答えは例によって素っ気ない。
「何だよ! さっき、帰って来ないかもしれねえって、言ったくせに……」
しつこく食い下がる伝六にも、一顧だにせず、表へ出ようとした弥太は、思いがけず、戻って来た桔梗と鉢合わせになり、一瞬たじろいだ。
「朝から何を騒いでいるのよ。大きな声を出して……。表まで筒抜けよ」
しばし、唖然とした面持ちだった弥太も、
「いや……、何でもねえよ。こいつの寝言が、あまりにうるさいんで、眠れやしねえと文句を言っていたんだ」
と言って、やにわに、伝六の肩をぐいっとつかんだ。
「何だって!」
咄嗟に、反論しようとする伝六の背中を、弥太は何度も強く叩きながら、
「さあ、行くぞ! そろそろ船出の支度にかからねえとな……」
大声で言って、無理やり伝六を外へ連れ出した。
「何なんだよ……。痛えじゃねえかよ!」
次の通りまで来た所で、やっとのことで、つかまれた手を振り払った伝六は、目を剥(む)いて弥太に迫った。
「桔梗のやつ……、どこから聞いてやがったんだ……?」
と独りごちた弥太は、もはや、伝六のことなどまるで眼中にない。
「まずいことを言っちまったな……。戻らねえかもしれねえ……なんて……」
「……弥太?」
「おまえが余計なことを言うから、こういう、ややこしいことになるんだろうが!」
急に襟首(えりくび)をつかんで凄(すご)む弥太に、伝六はさっぱりわけがわからず、ただもう、困惑するばかりだった。
「よう。朝っぱらから、えらく威勢がいいな」
いつからそこにいたのか、振り返ると、張梁が目の前に立ちはだかっていた。それに気づくや、弥太は眉をひそめ、伝六もいきり立った。
「いい加減、人の顔を見る度に、そうやって、毛を逆立たせるのはやめてもらいたいものだぜ」
「何が……。竜を見殺しにした奴が、偉そうなことを言うな!」
伝六の罵声にも、張梁はわずかに苦笑を浮かべるだけだった。
弥太と伝六は、筑紫へ下向して間もなく、楊孫徳から竜が行方知れずとなった、その真相を打ち明けられていた。
船子達の暴走―― その凄絶極まる事の顛末(てんまつ)を聞かされ、弥太は、強い衝撃を受けると共に、その場に居合わせた竜の身の不運を歎いた。許より、弥太に楊や張梁を責める気持ちはなかった。もし、仮に自分が同じ立場にあったとしても、暴挙を抑え、全てを丸く治めるなどということは、恐らくできなかったに違いない。
ただ……、竜のことに関してだけは、付き合いの長さの分、自分であれば、竜が次に取るであろう行動をわずかに早く察知して、それを押し留めることはできたのではないか……との思いを弥太も強く持っていた。
「何か用か?」
今にも突っ掛からんばかりの伝六を制して、弥太は努めて平静を装い尋ねた。
「ちょいと、頼みがあってな」
「……頼みだと?」
「言っておくが、これは我が主殿(あるじどの)の願いだ。どうしても、おまえ達の力を借りたいと……」
「楊孫徳殿が……か?」
弥太は訝(いぶか)りつつも、少しの間、考え込んだ。
いかに、わだかまりがあろうとも、楊孫徳は大事な商売相手である。その楊の頼みとあれば、即座に『否』との答えを返すわけにもいくまい。
「いいだろう……。まずは、聞かせてもらおうか……。手を貸すかどうかは、それからの話だ」
と、答えた弥太に、伝六は歯軋(はぎし)りしたが、張梁は余裕の笑みでこれを眺めていた。
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「とにかく、これからすぐに楊孫徳殿の所へ行ってくれ」
ついさっき出て行ったばかりの弥太が慌しく戻って来るや、唐突に切り出したのには桔梗もいささか面食らった。
「何でも、今夜、大事な客人を迎えての宴を催すことになったらしいんだが、どうにも女手が足りないとかで、おまえに手伝ってもらえないものかと相談されてな」
後は、もう、ほとんど追い立てられるように、宿を出て来たものの、事の次第がよく飲み込めない桔梗は、ひどく不安な心持ちで楊孫徳と対していた。
「すまぬな。急に無理を申して……」
「いいえ……。それより、私などでお役に立つのでしょうか……」
恐る恐る尋ねる桔梗に、
「何も難しく考えることはない。気楽に客人の相手をしてくれれば、それでよいのだ」
「はい……」
「しかし、その格好では、いささか具合が悪い。あちらに衣裳も用意してあるゆえ、すまぬが、急ぎそれに着替えてもらいたい」
と、楊が言い終わる前に、二人の侍女が姿を現し、有無を言わせず、桔梗を引っ張って行った。
「どうじゃ? 首尾は?」
楊孫徳がおもむろに声をかけると、弥太がひょいと顔をのぞかせた。
「どうにか間に合ったようで……。全てはお指図のとおりに……」
「それは重畳(ちょうじょう)……」
と言って、ほくそ笑む楊に、
「しかし……、桔梗のやつ、さぞや目を丸くしましょうな……。何せ……」
「その先は申すでないぞ」
たしめられて、弥太も思わず首をすくめた。
「いささか、意地の悪い趣向と思わぬでもないのだ。桔梗がどれほど心を痛めているか……、それもよく存じながら、いたずらに弄(ろう)するような真似を……」
「そのような……」
「随分とつらい思いをさせてしもうたからな……。確かめもせず耳に入れて、要らぬ期待を持たせるよりは……と、今日まで、黙っておったのだが……。ここまで来ると、今度は、今少し、二人の驚く顔が見とうなってのう……。我ながら、大人気のないことを……と、呆れもするが……」
「いいえ、滅相もない。細やかなお心遣い、痛み入りまする」
弥太は丁重に頭を下げた。
「ともかく、後はただ、時を待つばかりか……。玄武のお頭がこの場におられぬのは、いやはや残念ではあるが……。それも、致し方あるまい……」
「伝六には、行き会えば、すぐにも駆け戻るよう申しておきましたゆえ、おっつけ……」
と、そこへ伝六が駆け込んで来た。
「着いたか!」
楊孫徳が咄嗟に尋ねると、伝六は真っ赤に腫(は)らした目で、無言のままうなずいた。
「では、後は頼むぞ」
と言い置いて、そわそわと立ち去って行った楊を見送ると、弥太は伝六に視線を移して、急に噴き出した。
「ひでえ顔だな……」
伝六は慌てて、泣き腫らした目をこする。
「今のうちに、どこかで顔を洗ってこい。桔梗が出てくる前に……」
「ああ……」
珍しく優しい口ぶりの弥太を、伝六は少し不気味に思いながらも、すぐさま、どこへともなく姿を消した。
そして、それからしばらくの後、扉の軋(きし)む音と共におもむろに振り返った弥太は、目の前に現れた匂やかな風情に、思わず我を忘れかけた。
「馬子にも衣装とはよく言ったものだな……」
鮮やかな瑠璃紺(るりこん)の衣装をまとった桔梗を前にして、弥太は驚きと照れの入り混じったような眼差しで、しばし、呆然とこれに見とれていた。
「いったい……、これはどういうことなの!」
次から次へと起こる異変に、桔梗はすっかり混乱していた。
「おまえさんの部屋から、こっそり持ち出して来たのさ。せっかくの上物だ。こうでもしなけりゃ、おまえのことだ、一生、袖も通さないまま、宝の持ち腐れにしちまうだろう」
「……」
「それにしても、いい見立てだな。本当に、よく似合ってるぜ」
弥太の柄にもない誉め言葉に、桔梗も我知らず顔を赤らめる。
「しかし、この姿を見たら……、当の竜のやつも驚き過ぎて、それこそ、声も出ねえかもしれんな……」
「何を馬鹿なことを言ってるのよ……」
と答えて、桔梗はハッとしたように、首をかしげる。
「さあて、皆さんがお待ちかねだ。行くぞ」
言うなり、弥太は急に、桔梗の手を引いて歩き出した。
「……弥太?」
「心配するな。おまえに、これ以上つらい思いはさせねえ……」
一転、大真面目な顔で言う弥太に、桔梗は驚きつつも、ある予感を胸に、無言でそれに従うだけだった。
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