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「よくぞ、無事でいてくれた……」
楊孫徳は片手で目頭を押さえながら、もう片方の手で、節くれだった手を強く握り締めていた。
「全く、恐れ入ったぜ。おまえみたいに悪運の強いやつもそうはいるまい……」
張梁もそう言って、一段と逞しくなった肩をポンと軽く叩いた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませぬ」
深々と頭を下げ、慎ましやかに答える声にも、
「俺らは別に、何も心配なんてしてなかったぜ」
と、減らず口を叩く伝六の顔には、またもや、涙の跡がくっきりと現れていた。
「よく言うよな。この俺様に、真っ先に食ってかかって来たのは、どこのどいつだったかな?」
「あれは……、弥太の方が先だったろ!」
などと、張梁と伝六の二人が言い合っていると、
「おい、俺がどうしたって?」
戸口で仁王立ちになる弥太に、振り返った顔は莞爾(かんじ)と微笑み、そのまま、まっしぐらに歩み寄った。
「よく帰って来たな……、竜……」
竜は従容(しょうよう)としてうなずくと、差し出された手を万感の思いで握り締めた。
「また、えらく日に焼けたんじゃねえのか?」
「ああ……。ずっと、漁に出ていたから……」
照れくさそうに答える竜に、弥太もわずかに目を潤ませていた。
「さて……と。桔梗! いつまで、そんな所に突っ立っているつもりだ?」
弥太の大声にも、何の返事も返ってこない。
「仕方のないやつだな……」
呆れたふうにつぶやいて、弥太は一旦扉の向こうへ消えると、程なく、桔梗を抱え込むようにして、再び姿を現した。
向かい合った二人は、一瞬、互いに目を見開いた。が、次の瞬間、
「ただいま……」
出て行った時そのままの……、何度も夢に思い描いた笑顔を前にして、桔梗も思わず肩を震わせた。
「お帰りなさい……」
そう答えるのがやっとだった。そのまま、ふっと倒れそうになる桔梗を、竜は慌てて抱き止め、これを支えた。
「桔梗!」
「大丈夫よ……。驚き過ぎて、気が抜けてしまっただけ……」
と、小さくつぶやく桔梗の、ひどくやせ細った両の肩に、竜は愕然とした。
「何だか、夢のよう……。これがもし夢なら……、お願い、覚めないで……」
必死に胸に縋り付いて来る桔梗に、竜はいっそう力を込めて、強く抱きしめた。
「夢なものか! 約束どおり、帰って来たんだ! 桔梗の許へ……」
「そうね……。夢のはずがないわね。信じていたもの……。きっと、生きて帰って来るって……」
桔梗の涙声に、竜もまた、胸がカッと熱くなるのを感じていた。
(俺なんかのことを、こんなにも心配してくれていた……)
俄かに胸を覆う悔恨の念――。あんなにも、戻ることをためらっていた自分は、何と愚かであったか……。
竜は桔梗を抱きしめながら、その実、いつも不安に揺れ動き続けてきた己の心こそ、その暖かな胸に、しかと抱きとめられたような深い安堵を覚えていた。あるいは、これが、今の自分には、記憶のかけらすらもない、母の温もりというものなのだろうか……と。
「すっかり驚かせてしまったようで……、誠に申し訳ない……」
楊孫徳は、改めて桔梗に詫びの言葉を掛けた。
「主殿は、あの嵐の後も、方々に手を尽くして、ずっと、竜の行方を追っておられたんだ……」
張梁が得意げに謎解きをすると、竜も桔梗も驚きを露わに、楊を返り見た。
「必ず生きていると……、その桔梗の言葉を私も信じたいと思うてな……。肥前、肥後、薩摩……と、商いを通じての知己(ちき)をたどり、文を遣わしておいたのだ。それで、肥前の松浦から、それらしき者の所在を知らせる便りが舞い込んで来たのが、一月ばかり前のことであった。しかし、確たる証があるわけでなし、また仮に、それが事実、竜に間違いなかったとして、それならば、何ゆえすぐに戻っては来ぬのか……、その意味を考えてみたのだ。どれほど皆が案じていることか……、それがわからぬ竜でもあるまい。恐らくは、やむにやまれぬ事情があるのに相違ないと……」
楊の的を射た推測を、竜は忸怩(じくじ)たる思いで聞いていた。
「したが、とりあえずは、確かめるだけでもと、竜の顔を見知った者を松浦へ遣った所、丁度、こちらへ向かうのと行き会ったらしく、それを知らせる早馬が、昨夜遅くに参ってな……」
「なれば、すぐにも、お知らせするようにと申し上げましたものを……、主殿が妙な悪戯心を起こされるゆえ……」
と、咎め立てる天趙にも、楊は意味ありげに、ほくそ笑んで、
「そう申すそなたこそ、いそいそと帯を見立てておったくせに……」
それを聞いて、竜も初めて気がついたようで、桔梗の腰に結わえられた、鮮やかな紅の地に、金糸で精緻(せいち)な文様が織り込まれた帯紐を見て、急に目を輝かせた。
「あの時には、これと思うものがなくて、宋から戻る時に、持ち帰るつもりだったんだ……」
そう言って、竜が天趙を見返すと、
「いや、何……。先月入った荷の中に、丁度、似合いそうなものを見つけたのでな……」
やけに気まずそうな返事が返って来た。
「もし、気に入らぬようなら……」
「いいえ、これ以上のものはありませぬ」
竜は即座に答え、桔梗も頭を下げた。
「そうか……。ならばよかった……」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、心なしか頬を緩めた天趙に、張梁は楊孫徳と顔を見合わせて、
「どういう風の吹き回しかね? やけに気の利いたことをするじゃねえか……」
からかい半分に言ってやると、天趙は一つ咳払いをして、張梁をじろりと睨みつけ、それを見た一同の間には、誰からともなく、朗らかな笑い声が上がっていた。
と、その時、
「おい、一人で何やってんだ?」
何の前触れもなく、唐突に飛んだ弥太の声―― それにつられて、皆が一斉に振り返ると、いつの間にやら、伝六が並べられた料理を口一杯に頬張っていた。
「おまえな……、こういう時に、そういうことをして、許されるとでも思ってんのか?」
呆れ返る弥太に、伝六がばつが悪そうに頭を掻くと、さらに場はドッと沸いた。
「構わんぞ。さあ、どんどんやってくれい」
楊孫徳の声をきっかけに、心づくしの宴も幕を開ける。その頃には、桔梗にもいつもの笑みが戻っていた。
「しかし……、いったい、今まで、どこで、何をしてやがったんだ?」
ほんの少しの酒で、既にほろ酔い気分の伝六は、この半年の間のことを、しきりに聞きたがった。竜は、嵐で孤島に流れついたこと、隼人のこと、佐古や匡・沙希の兄妹のこと、そして島での暮しなど、思いつくままに話した。
「馬鹿じゃないのか? 人のことばっかり考えて……」
聞きながら、伝六は横柄に言い捨てる。
「一歩間違えたら、死んでたかもしれねえんだぞ! お節介も、ここまで行くと、ほとんど病気だぜ……」
などと、矢継ぎ早にまくし立てる伝六に、竜も神妙な面持ちで、黙ってこれを聞いていた。が、
「おい、伝六。そのくらいにしておけ」
見かねた弥太が、間に入って諌めた。
「こいつらしくていいじゃないか……。何はともあれ、こうして、無事に、戻って来たんだから……」
「弥太も、いつから竜にそんなに甘くなったんだよ!」
伝六と弥太の、相変わらずのいつもの遣り取りに、改めて竜も帰って来たのだと実感していた。そして、この半年の間の空白の時も、一瞬にして埋められたような、そんな心地さえしていた。
「二人とも、いい加減になさいよ」
最後は、桔梗がその場をおさめるのも、お定まりのことだった。
(本当に帰って来てよかった……)
多くの笑顔に囲まれて、この夜は、竜にとって至福の時となった。
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楽しい宴も果てた、その三日後には、楊孫徳の一行は宋への帰国の途につき、さらに、その二日後には、弥太と伝六も、予定通り、京に向けて旅立って行った。
竜にしても、すぐさま玄武に会いたい思いは、もちろんあったが、今しばらくは、桔梗の側にいようと、結局、筑紫に残ることにしたのである。
「一緒に行けばよかったのに……」
「……」
「私は、あんたが生きているってわかったら、それでよかったのよ……」
桔梗は、竜の気遣いを察し、無理に強がって言った。
「別に、桔梗のためだけに、残ったわけじゃない……。本当のことを言うと、今はまだ、京に戻って、やって行ける自信がないんだ……」
「……」
「島を出る時、もう二度と逃げないと、心に決めたんだ……。けど、いざとなると、また不安になって……」
竜は、今なお揺れるその心中を、素直に打ち明けた。
「どんなに遠く離れても、簡単には、思いを断ち切ることはできない……」
「そうね……」
しみじみと桔梗もうなずいた。
「無理に、忘れようとすることはないわ……」
「……」
「別れを悲しむのではなく、出会えたことを喜びと感じられれば……、人は生きて行けるものよ」
「出会えたことが……喜び?」
「誰かを真剣に想い続けることができるって、それだけでも素晴らしいことよ。たとえ、実を結ぶことはなくても、そこから、かけがえのない何かを受け取っているはずだから……」
「桔梗……」
「竜にとっても、そうではなくて? それとも……、出会わない方が良かった?」
そう言って顔をのぞき込む桔梗に、竜は少しの間をおいて、やがて、静かに首を横に振った。
「だったら、済んだことをくよくよ考えずに、真っ直ぐ前を向きなさい。あんたの目の前には、大きな世界が広がっているのよ。いつまでも、こんな所に留まっていないで、この大空に飛び立って行かなくては……」
「……」
「それで、もし、また傷ついたら……、その時は、いつでも翼を休めに戻ってらっしゃい……」
「桔梗……」
「ここは竜の故郷(ふるさと)だもの……」
暖かい響きだった。
(故郷……)
いつも、己の居場所を探し、さまよい続けて来た竜にとって、初めて見つけた、確かな拠(よ)り所だった。
どんなにさすらい、身も心もボロボロになったとしても、暖かく迎え入れてくれる場所がある……。そう思えることが、どれほど、大きな心の支えとなったか……。あるいは、今度のことは、それを、よく知らしめるための試練だったようにさえ思われた。
「俺の故郷なんだよな。この筑紫が……。そして、この海が……」
そう言って、笑顔で答えた竜は、この日の抜けるような青天の如く、一点の曇りもない、澄み渡った目をしていた。
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