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この日、玄武は、小松谷の重盛の館を訪れていた。
「そうか……。竜は、東国へ参ったか……」
くつろいだ様子で階(きざはし)に腰を下ろし、前栽(せんざい)をぼんやりと眺めていた重盛が、おもむろにつぶやくと、階下に控える玄武は、無言のうちに頭(こうべ)を垂れた。
「しかし、ようやく京に戻ったばかりの所を……。その方も、さぞかし迷うたことであろうな……」
「いいえ……。吉次が一緒なれば……、何の憂いもなく、送り出すこともできましてございます……」
そう答える玄武の表情は、いたって穏やかだった。
「金売り吉次……か。あの宗高(むねたか)がのう……。かくも音に聞こゆる大商人となろうとは……。まあ、あの頃から、商才の片鱗(へんりん)は垣間見られたが……。とは申せ、平泉までは遠いのう……」
「はい……」
玄武もしかとうなずく。
「淋しいのではないのか?」
「いえ、某は……」
と、少し慌てた玄武に、
「隠さずともよい。同じ道を歩もうとしている者には、一方ならぬ思いもあろう……」
そう言って、重盛は顔をのぞき込んだ。
「子を持つ親の心は、皆、同じようなものじゃ……。未だ独り身のその方にも、そうした思いが少しはわかったのではないか?」
玄武は答えに窮した。
こと竜に関しては、他の者とは同列には語れない、格別の思い入れがあるのは確かなのだが……。といって、それが、親心なのか……と言えば、少し違うような気もする。無論、これまで子を持つ人並みの暮らしを封印してきた玄武には、その親心すら、実際、どういったものであるか、理解のしようもなかったのだが……。
「今でも、忘れられぬのか?」
憂いを含んだ眼差しが、不意打ちの如く玄武を捕らえた。
「考えてみたことはないか? もし、あの時、二人して京を離れる覚悟があれば……。今頃は、親子仲睦まじゅう、幸せな暮らしをしていたのではないかと……」
「そのような……」
思いがけない話に、玄武も瞠目した。
「有り得ぬことではなかったはずだ……。わしは、あの時、考えもしなかったのだ。その方が、よもや、侍を捨てようとは……。なればこそ、『身を退け』と申したのだ。もし、その覚悟を存じておれば……、もっと違った方策を考えたものを……」
重盛の余りに真剣な口ぶりに、玄武の方は驚きを通り越して、呆気に取られるほどだった。
「わしは、大きなあやまちを犯したのやもしれぬ……」
にわかに重盛の表情が苦渋に歪(ゆが)んだ。
「何を仰せになります!」
「その方だけでなく、女院の人生をも狂わせた……。いや、それよりも……」
言い掛けて、急に口籠もった重盛は、なぜか、そのまま黙り込んだ。ふつと途切れた会話に、玄武もいぶかしげに重盛の顔をのぞき見る。
「……小松殿?」
玄武の問い掛けで、やっと正気づいたように、
「いや……。今さら申しても、詮無いこと……。何でもない。気に致すな……」
と、重盛は言葉を濁したものの、その心の動揺は、未だおさまらぬ様子であった。
(何を仰せになりたかったのか……)
気にはなっても、それ以上は踏み込むこともできず……、再び押し黙った重盛にも、玄武はただ、それを見守るより他なかった。
「父上!」
と、そこへ、重苦しい空気をはねのけるように、維盛のよく通る声が響いた。
「……何事か?」
すぐ傍らにひざまずいた維盛に、重盛は階(きざはし)に腰を下ろしたまま、顔だけ向き直った。
「重衡殿がお見えにございます」
「……重衡が?」
重盛は明らかに驚いたような顔をして、その目をちらと階下の玄武に向けた。
「よい。ここへ通せ」
「はっ」
と答えて、維盛が足早に退いたのを潮に、
「では、某(それがし)はこれにて……」
玄武も一礼して退こうとしたが、
「いや……。今しばらく、ここに……」
重盛は強く引き止めた。
「ですが……」
「重衡ならばかまうまい……。互いに、知らぬ仲でなし……」
「……はあ」
言われるままに、玄武は再度居住まいを正すと、程なく、重衡が現れ廊の先にひざまずいた。
「失礼致します!」
顔を上げた重衡は、玄武の姿を認めるや、思わず息を飲んだ。
「いかがしたのだ?」
重盛の声に、重衡もすぐに我に返り、
「福原より西八条に参りました書状の中に、こちら宛てのものが紛れておりましたので、お届けに上がりました」
と答えて、傍らに置いた黒漆の文箱を手に取った。
「それは、ご苦労であったな……」
おもむろに立ち上がった重盛に、重衡は畏(かしこ)まって進み出て文箱を手渡す。
「今頃、何用か……。二人とも、しばらく、ここで待て」
そう言い置いて、重盛は文箱を手にその場を離れた。
重衡は内心、困惑しながら、やむなくそのまま廊に座したものの、同じく取り残された玄武とは、目を合わせることも避けるように、あらぬ方をぼんやりと眺めていた。
竜が奥州へ下ったことは、重衡も既に聞き及ぶ所であった。しかも、その原因を作ったのは他ならぬ自分であると……、それもよくよく承知のことだった。それだけに、偶然とはいえ、このような場で玄武と居合わせたことに、ひどく気まずい思いも隠すことはできなかった。
「竜は……、東国に参ったそうだな……」
長い沈黙にこらえ切れず、重衡はあえて重い口を開いた。
「はい。かれこれ十日ほど前になりますか……」
玄武は静かに答えた。
「また、私には何も告げずに、行ってしもうたのだな……」
とつぶやくや、重衡は一つ深いため息をついた。
「以前の私であれば、怒りの余り、そなたに当り散らしたことであろうが……。今はそのような気にもならぬ……」
その淋しげな声音に、玄武はふと顔を見上げた。
「やはり、私と竜とは、住む世界が違うということか……」
「……」
「竜はどこまでも自由だ……。この広い大きな空の下を、思うがままに行くことができる。いつでも、誰の許しも必要なく……。それが羨ましいと、思うたこともあった。六波羅という小さな世界でしか生きられぬ我が身と引き比べて……」
淡々と語る重衡の目は、虚空を見つめていた。
「あの頃は、たとえどのようなことがあろうと、竜とも、生涯分かり合えるものと思うていた。二人の置かれた境遇が、いかに異なろうと、互いを思い合う心は決して変わらぬものと……、そう信じて、疑いもしなかった。それゆえ、以前、高雄に参った折に、文覚からいずれ竜と私が対立することになるであろうと告げられた時にも、『何を世迷い言を申すか!』と、怒りを露わにしたものだ。それが……、あれからまだ、三年にもならぬというのに……。今の私には、竜の心が離れて行くのを、ただ黙って見ているより他ないとは……」
重衡の述懐を聞きながら、玄武は、やはり同じように苦悩していた、竜の姿を思い浮かべていた。
「竜とて、同じ思いでございます……」
「……」
「某は存じております。竜もまた、重衡殿のお心が離れて行くことに、どれほど心を痛めておったことか……。あの者にとっても、重衡殿は、かけがえのない御方にございましたから……」
「私もそう思うておる! この命を助けられた、あの十二歳の時からずっと……。なればこそ……、これ以上の諍(いさか)いはしとうはなかった……」
「……」
「どうしても、考えがかみ合わぬのだ。あのままでは、文覚の申す通り、傷つけ合い、憎み合うことにもなっていたやもしれぬ……」
「……」
「それだけは、何があっても、避けたかった……。こうして、離れておれば、大事な友を失わずにすむ……」
この時、玄武には、重衡の孤独な心が見えたような気がした。
両親の大いなる愛をその身に受け、この世の春を謳歌(おうか)する平家一門の中で、何不自由なく育った、一見、孤独とは無縁に思われるこの若者が、今一番怖れていること……、それは、たった一つの友情を失うことではないのか……。
玄武には、そんな重衡の心の怯(おび)えも察せられて、いじらしくさえ思われた。そして、竜と重衡―― 大きな隔ての両端に置かれるはずの二人が、かくも強く引き合うのは、その孤独な魂ゆえか……と、改めて悟ったような気もしていた。
「今の私は、ここから逃げ出したいなどとは思わぬ。一門のさらなる繁栄のために力を尽くすことが、この重衡に与えられた使命。我が身を犠牲にして入内なされた姉上のためにも……、いかなることがあろうとも、決して逃げはせぬ!」
そう言い放って、重衡は、強い意思を表す目の光を向けた。しかし、それすらも、玄武には、重衡が自ら重荷を背負おうとしているように思われ、頼もしさよりも、むしろ、痛々しさが先に立った。
「重衡殿は、強うなられましたな……。初めて、厳島でお会いした頃を思えば、まるで別人のようにございます。しかし……、それがまた、某には気がかり……」
「……何がじゃ?」
「人の犠牲の上に立つ繁栄が、いかほどのものにございましょうや? 一人の人間の幸せを踏みにじって……、そこから得られたものの上で、胡座(あぐら)をかくが如きもの……」
「何と!」
穏やかな口調でありながら、玄武の言葉には、重衡の心臓をえぐるほどに、鋭いものがあった。
「人として、幸せでなければ、いかなる繁栄も無意味ではござりますまいか?」
「誰が、幸せでないと申すか!」
「某には……、御一門の方々は、誰一人として、お幸せには見えませぬ……」
「そのような……」
重衡の顔には、驚愕の色が、ありありと表れていた。
「いかような栄華も、それだけでは、中身のない只の入れ物にすぎませぬ。そこに集う人々の、心からの満ち足りた笑顔があって、初めて、その意味を成すのでございます。なれど、近頃は、六波羅にも、この小松谷にも……、それが見えませぬ。心の悲しみを押し隠し、上辺だけの栄華に酔いしれて……」
「……」
「ただ一人の笑顔も守ることもできぬ、栄華という名の夢幻花(むげんばな)―― 重衡殿が力を尽くして守ろうとしているものは、さようなものにございます。それの、いかに虚しいことか……。この玄武には、皆様の前途が案じられてなりませぬ……」
「もうよい! それ以上申さば、只ではすまさぬぞ!」
重衡の息を荒げた怒鳴り声に、玄武もハッとした。
こんなことまで言うつもりは毛頭なかった。只、話をしているうちに、ふと目の前に、劫火(ごうか)燃え盛る修羅の道をまっしぐらに突き進む重衡の姿が鮮明に現れたのだった。
(決して、その道を行かせてはならない!)
玄武の中に、信念にも似たその思いが、瞬時に湧き上がっていた。
あるいは、文覚から、平家滅亡の予言を聞かされていたせいか……。それにしても、なぜ、今、このような場所で、身の程もわきまえぬ大それたことを口にしてしまったのか……。それは、玄武自身にも説明のつかない、不可解なことであった。
(竜と同じことを言う……)
重衡は、自らが苦悩の末に選んだ道を、竜のみならず、玄武にまで真っ向から非難されて、その怒りの遣り場に困った。
(誰も私の気持ちなどわからぬ!)
懸命に怒りを鎮(しず)めようと努める重衡と、その姿に、もはやかける言葉も見つけられない玄武――。二人は、すぐ目の前に互いを認めながら、その心は、洋々たる大海に隔てられているかのようであった。
「父は、こちらではございませぬのか?」
いつの間にか維盛が現れていたことにも、まるで気づかぬ二人だった。
「……何ぞあったのか?」
維盛の慌てた様子に、少し気を削がれた重衡は、ともかく問い質(ただ)そうとした。と、そこへ、重盛が悠然と姿を現した。
「父上!」
「……いかがしたのだ?」
「只今、院御所より遣いの者が参り、文覚と申す高雄の聖が、一院【後白河院】の面前で騒動を起こし、取り押さえられたと……」
「何と!」
重盛は咄嗟に玄武と顔を見合わせた。同時に、重衡の中にも強い衝撃が走っていた。
「一院のお怒りが並々のことではなく、いかがしたものかと……、さよう申しておるのですが……」
「すぐにその使者に会おう!」
そう答えるや否や、重盛は維盛を従え、足早に立ち去って行った。
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