この日、吉次が鬼若を連れて、木曽義仲の館に現れたのは、はや日も傾きかけた頃であった。
とにかく、吉次にとっても、それは大変な一日であった。
今回の乱闘劇は、それの起きた場所が、平素は人も通わぬ山中であったこともあって、幸い大ごとにはならずに済んだのだが、さりとて、人の口に戸は立てられぬもの。吉次は用心のため、手下の中でも、とりわけ信用の置ける者数名を選び、骸(むくろ)の始末に当たらせた一方、出立を見合わせるのに適当な理由を思案したりと、息つく間もなく、その対応に追われた。
そして、それらの段取りが一区切り着いて、ようやく義仲の館に駆けつけることができたのだが……、横たわる竜の傷ましいまでの姿を目の当たりにして、吉次もさすがに声をなくした。
(何ということじゃ……)
巴の手当ての甲斐もあって、出血そのものはどうにかおさまってはいたものの、意識が戻らぬまま、今度は高熱を発し、依然として、危険な状態にあることには変わりなかった。
とはいえ、吉次は仮にも平泉へ向かう隊商の長である。多くの人足達を引き連れての旅である以上、いかに名目を取り繕っても、一つ所に留まるのには自ずと限度もある。
『とりあえず、三日……』、吉次はそう心に決めて、事態の好転することだけを一心に願い、昼間は宿、夜は木曽館と、日々せわしなく双方を行き交う他なかった。
その間、瀕死の竜の傍らには、常に遮那王が付き添っていた。
自分のために身を投げ出した……、その呵責(かしゃく)の念から、遮那王はどうあっても竜のそばを離れようとはせず、寝食も忘れ、ただひたすら、竜の回復を祈り続けた。
共に留まっていた鬼若も、そんな遮那王の姿を見るに耐えかね、いつからともなく、部屋の外の濡れ縁に胡座(あぐら)をかいて、数珠を手に、経を唱えるようになっていた。
「どうした? こんな所で……」
いつものように、日が落ちてから義仲館に戻って来た吉次は、妙に思い詰めた様子の鬼若をいぶかった。
「わしなど、そばにおっても何もできぬからな……。まあ、俄かの読経ぐらいでは大した効用もなかろうが……」
「いや、何の……。今はもう、何にでも縋りたい心地じゃ……。おぬしの心遣いはとてもありがたい。この吉次、竜に代り礼を申す」
そう言って、頭を下げた吉次に、鬼若は少し慌てた。
「そんな立派なものではござらん。実を申せば、某は逃げ出して来ただけなのじゃ……」
「……」
「あのように必死になっておられる御曹司を見ておるのが、どうにも辛うてな……」
鬼若は数珠を握る手に力を込めた。
「代れるものなら、このわしこそが……」
「鬼若……」
「情けない……。京では、剛の者として、少しは名も知られたこのわしが、あろうことか御曹司の危機も知らず、すっかり眠りこけておったなどとは……。わしこそが、御曹司の楯とならねばならなかったものを……。竜がおらねば、主を見殺しにした不心得者と物笑いの種になる所であった……」
鬼若は力なく項垂れた。
「今さら、そのように、己を責めたとて仕方あるまい……。竜の傷がふさがるものでもなし……」
吉次は遣り切れない思いで、吐息をついた。
そうとも……、責められるべきは己の方ではないか……。
(なぜ、一人で行かせてしまったのか……)
今さらながら、悔いばかりが先に立つ。
賊の狙いが、遮那王その人と確かに見当をつけておきながら……。もし、万一、宿が襲われたら……、荷が奪われたなら……、ほんのわずか頭によぎった疑念のために、宿を離れることができなかった己が恨めしい。
突き詰めて考えれば、他でもない、己の荷に対する浅ましいまでの執心こそが、最悪の事態を引き起こしたのだと、吉次もまざまざと思い知らされていた。
「それにしても、竜のやつ……、どこかでこうなることも察しておったのかのう……」
ふとつぶやいた鬼若を、吉次は怪訝に見返した。
「……何のことだ?」
「先だって、御曹司が、船に乗りたいなどと申された折――。あの時、盗賊に遭うて、命を落すこともあるとか申しておったではないか。人はいつも危険と背中合わせにあることを忘れさせぬために、災難が起きるとか……」
すぐに吉次も思い出して、愕然とした。
「あるいは、御曹司に人の命のはかなさを知らしめるために、かようなことに……」
「ただの偶然だ! そのようなことがあろうはずはない……」
そう答えながらも、吉次自身、心の動揺は抑え難かった。
「大丈夫だ。あいつは、そんな簡単にくたばるやつではない! 何せ、尋常ではない大嵐を、二度も潜り抜けて参ったのだからな……。此度も、必ずや切り抜けるに違いない」
「……」
「我らがそう信じねば……、助かるものも助からぬ!」
吉次の強い口調に、鬼若は気押されながらも、小さくうなずいた。
「ともかく、遮那王殿にも、少しはお休みいただかねば……。お気持ちはわからぬではないが、そうそう無理も続くまい……。竜が良くなったが、今度は遮那王殿が倒れた……では、旅が少しも進まぬ」
「なれど、某が何を申し上げたところで、お聞き届けにはならぬ。こうと決められたら、梃子(てこ)でも動かれぬわ!」
「それでも、どんなことをしても、説き伏せよ。それが、家来たる者の役目ぞ!」
と言い捨てて、先を急ぐ吉次に、鬼若もようやく重い腰を上げた。
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薄暗い部屋の中では、遮那王が竜の傍らに座を占め、祈るようにその左手を握り続けていた。
「竜……、おまえは天がこの遮那王に与え給うた大事な友じゃ……。私を置いて逝くことなど決して許さぬ! おまえの戻る場所は、この遮那王の許だけぞ!」
未だ意識の戻らぬ竜に、必死に語りかける遮那王の姿には、吉次も鬼若も、胸をつかれる思いであった。
「遮那王殿、どうか、しばしお休み下され……。後は、この吉次が見ておりますゆえ……」
「某もおりますぞ」
二人が代わる代わるかける言葉にも、遮那王は、ただ首を横に振るばかりだった。
「私のせいで、かようなことになったのだ……。せめて、目を覚ますまで、そばに付き添うていてやりたい……」
片時も竜から目を離そうとはしない遮那王を前にして、鬼若は勿論のこと、吉次も何も言えなくなった。
仕方なく、吉次は竜の枕辺に腰を下ろし、その額に浮かぶ汗を拭ってやった。浅い呼吸を繰り返す様は、見るからに苦しげで、熱も一向に下がる気配はない。
あれから既に三日……。吉次の中にも、どんなに心を奮い立たせても、拭い切れない悲観的な思いが、その胸の内に広がるのを止めるすべはなかった。
「しっかりしろ! これしきの傷など、大したことはない。おまえはそんな柔なやつではないはずだ……。負けるでないぞ! 早く、元通り元気になって、憎まれ口の一つでも叩いてみろ……」
突如、部屋に響き渡った叱咤の声には、いささかの震えが感じられた。遮那王は顔を上げてハッとした。
竜を見つめるその目には、うっすらと光るものが浮かんでいた。これまで、冷徹な商人という印象しかなかった吉次の、初めて見せた人間らしい一面に、遮那王は驚きつつ、同時に、不思議な感動に襲われていた。
「いかがにございますか?」
紙燭(しそく)を手にした巴が現れ、戸口に控えていた。
「相変わらずじゃ……。どうにも熱が下がらぬ……」
二人に替り、鬼若がそれに答えた。
「さようにございますか……」
巴は静かに歩を進め、部屋の片隅に置かれた灯台に火を点(とも)した。
「巴殿、お世話をおかけいたしますな……」
ようやく言葉を発した吉次は、既に平然とした顔に戻っていた。
「何を申されます、吉次殿。それより、膳の支度が整っておりますれば……、どうぞ皆様、おいで下さりませ」
「それはかたじけない……。では、遮那王殿」
促す吉次にも、遮那王は小さく首を横に振る。
「御曹司……。一昨日から、何も食されてはおられぬではありませぬか!」
鬼若は血相を変えて詰め寄った。
「竜とて、何も食してはおらぬのだ……。私も、要らぬ!」
「しかし、このままでは、真に御曹司まで倒れてしまいますぞ!」
「私は大丈夫じゃ!」
この三日の間、幾度となく繰り返された遣り取り――。頑ななまでの遮那王の態度には、もはや、鬼若もまるでお手上げだった。
「遮那王様」
見るに見かねて、巴はやむをえず口を挟んだ。
「どうか、この場は、私にお任せ下さりませぬか? 今ここで、あなた様にまで倒れられては、私の仕事が増すばかりにござります」
「大丈夫だと申しておろう! 私のことなど、どうでもよい!」
遮那王の自棄的な言い様に、巴の目が、俄かに厳しいものに変わった。
「わがままも大概になさって下さりませ!」
「何! わがままと!」
「そうではありませぬか! こうして、お二人を困らせておられるのが、わがままでなくて何でござりましょう?」
巴の手厳しい叱責に、遮那王はうろたえ、傍らの吉次と鬼若もただ唖然とするばかりだった。
「私は、ただ竜のことを……」
「竜が真にそのようなことを、望んでいましょうか? 何ゆえ、このような目に遭ったとお思いです? 他でもない、遮那王様を助けるためではありませぬのか! そのあなたが、もし、自分のために倒れたとなれば……、後でつらい思いをするのは、他ならぬ竜にございます!」
言われて、遮那王は咄嗟に竜の顔を見遣っていた。
「命懸けで助けられたのでございましょう? ならば、御自分をもっと大切になさらなくては……。そうでなくては、せっかくの竜の思いも無駄になってしまいましょう……」
「……」
「どうあっても、今宵こそは膳を召し上がって頂きます。ご心配には及びませぬ。遮那王様がお側におられぬ間は、この巴が、しかと承ります……」
巴の強い訴えに、遮那王もようやく顔を上げた。
「あいわかった……。巴殿の申される通りに致す。したが、何かあれば、すぐに!」
「よう心得ております」
遮那王は、ためらいがちに立ち上がると、なおも後ろ髪の引かれる思いをこらえ、部屋を後にした。吉次と鬼若も、それぞれ巴に頭を下げて、後に続いた。
巴は、一息ついて、竜の枕許ににじり寄ると、止めどなく吹き出す汗を、丁寧に拭ってやった。
他でもない、手ずから傷の手当てを行なった巴である。今の竜が、極めて危険な状態にあることは、誰よりもよくわかっていた。このまま高熱が続けば、とても身体がもたない。現に、熱にうなされ、時折口にするうわ言でさえ、もはや、はっきり聞き取れないほどに、か細いものになっていた。
あるいは、このまま……、その不安は、もちろん巴の頭にも、幾度もよぎっていた。
が、その時、竜の左手が何かを求めるように、空をまさぐっていた。それを見て、巴は慌ててその手を取った。
燃えるように熱いその手の内には、命の火を消すまいと必死にもがき続ける、竜の生に対する強い執着心が感じられた。
巴は、竜の手をきつく握り締めた。
「しっかりなさい! 皆が、どれほどおまえの身を案じていることか……。決して、死んではなりませぬ!」
その巴の叫びが聞こえたのだろうか……。竜は混濁した意識の中で、その手を微かに握り返していた。
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「吉次、おまえも飲め!」
夜もふけて、義仲は吉次を呼びつけ酒を勧めた。
当年二十歳――。
山国育ちらしい、おおらかで剛毅なこの若者には、都人とは一味違う魅力が感じられた。その明け透けな物言いは、本音を隠し、建前でばかり物を言う京の公卿連中にうんざりしていた吉次にとって、何より人間味あふれる人物に映っていた。
「したが……、あの者はいったい何者なのだ?」
義仲は、自らの盃に酌をする吉次に、おもむろに尋ねた。
「はっ?」
「決まっておろうが……。竜とか申す者のことだ」
義仲の強い眼差しに、吉次は思わず目を伏せた。
「何者と仰せられましても……。ただの人足にございます」
「わしの目を見て申せ!」
そのきつい語気に、吉次はやむなく、ゆっくりと顔を上げた。
「右腕に、何やら、奇妙な痣(あざ)のようなものも見えたが……。あたかも、青龍を描いたかのような……」
「……」
「それに、あれほどの傷を負って……、並の者なら、とうに命を落としておるところぞ!」
と吐き捨てて、義仲は盃を飲み干した。
「そのように仰せられましても……、某には、何ともお答えのしようがございませぬな……」
吉次は努めて平静を装い、義仲の盃にさらに酒を注いだ。
「吉次よ……。あの場に、我らが通りかかったは偶然などではない」
義仲は急に、思わせぶりな口振りで語りだした。
「実は、あの夜、毘沙門天が我が枕辺に立たれてな……。こう告げられたのだ。『運命の流れに従い、青龍が様を変えし現し身(うつしみ)が、汝(なんじ)の目の前に現る……。万に一つ、それを、己がものとすることができたならば、この天下、汝に委ねるものとせむ……』とな」
さしもの吉次も、思わず息を飲んだ。
「そのお告げに従い、馬を走らせておった所、あの場に行き合うたのだ」
玄武から聞かされていた文覚の予言――、それが吉次の脳裏に浮かんでいた。
『天下に野心を抱く者を、その運命の渦に引き込む……』
それがよもや現実のことであろうとは……。吉次は、自らの狼狽を表に出すまいと、あくまでも平静を装った。
「あの者が青龍の化身とすれば……、何もかも、納得が行く……」
義仲は、獲物に狙いを定めた鷹のような鋭い目を吉次に向ける。それは、天下への野心を、十二分に感じさせるものであった。
もし、今ここで、竜の背負う宿命――、それを知れば、迷うことなく、その運命の渦に飛び込むに違いあるまい。
(決して、悟られてはならぬ……)
瞬時に吉次も腹を括(くく)った。
「木曽殿……」
吉次は居住まいを正し、改めて義仲と向き合った。
「いかにお疑いを持たれようとも、あれはただの人足にございます。確かに、少々風貌は変っておりますが……、その辺りの民と、何ら変わるところはございませぬ。よもや、仰せの通りの者であろうはずもありませぬ」
吉次は、商人らしい狡猾さも偲ばせる笑みを交え、落ち着き払った口調で告げた。が、なおも、その吉次の心底に、探りを入れるような眼差しを向ける義仲――。
しかし、肝を据えた吉次の表情からは、その言葉以上のものを、読み取ることはできなかった。
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