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竜がその長い眠りからようやく目覚めたのは翌朝のことであった。
遮那王は感極まる余り涙を流してこれを喜び、吉次も安堵の思いにホッと胸を撫で下ろした。が、傷を負ってから三昼夜余り、死線をさまよい続けた竜の身体は、想像以上に衰弱が激しく、起き上がることもままならず、とてもすぐさま元通りにとは行きそうにもなかった。
吉次は思案の挙句、ひとまず、竜の身柄を義仲に預け、平泉へ向かう一行を、ここからさほど遠くもない信濃国府まで進めることを決めた。
国府近くには、平泉の出先機関に当たる宿所があり、手狭な仮の宿ですっかり身を持て余している人足達も、少しは羽を伸ばすことができる。不満が噴出する前に、何らかの手を打つ必要のあった吉次としては、義仲の野心に少なからず懸念を覚えながらも、さりとて、他に選択の余地もなかった。
それに、不幸中の幸いと言うべきか、あの遮那王が竜のそばを決して離れるはずはなく、鬼若と二人残して行けば、義仲も滅多なことでは手出しもできまい……。
そんな目算もあって急遽木曽を発った吉次は、それから四日の後には、早馬を飛ばして、単身、木曽館へと舞い戻って来た。
意識を取り戻した直後には、慌しい出立に、ゆっくりと竜を見舞う暇もなかった吉次も、ここにきて、ようやくその枕辺に座をしめ、言葉を交わすことができた。
「それにしても、一時はどうなることかと思ったぞ……。おまえにもしものことがあれば、それこそ、京の玄武に顔向けができぬからな……」
と吉次は苦笑しながらも、生気のない眼差しを向ける竜に、ふと瞳を翳(かげ)らせた。
「頭には、知らせないでくれ……」
その声にも、まるで力が感じられない。
「宋に渡ろうとした時も、散々、心配かけたから……」
こんな時にも、人のことばかり気にかける竜が、吉次も不憫(ふびん)に思われてならなかった。
「案ずるな。ようわかっておる。ここを出る時に、無事に木曽を過ぎたと……、それで十分だろう」
穏やかに返す吉次に、竜も少しホッとしたように、小さく息をつくと、
「吉次……、すまない……」
「……」
「どうにも、力が入らないんだ……。手も、足も……。身体が重くて、言うことをきかない……」
それは、竜が初めて吐いた、弱音らしきものだった。意識が戻ってからというもの、一度も『痛い』とも、『苦しい』とも口にすることはなかった。それが、自分や遮那王を気遣ってのこととは、吉次も察していた。
「すっかり足手まといになって……、申し訳ない……」
力なく淋しげにつぶやいた竜に、吉次も胸の詰まる思いだった。
「何を申すのだ。かようなことになったのは、俺の責任でもある。おまえ一人を行かせたばっかりに……」
「吉次……」
「ともかく、今は焦らぬことだ……。何、これまでの疲れが、一度に出たのだろう。おまえは何かと言うと、無茶ばかり仕出かすゆえな……。神様も、ここらで少しはゆっくり休めと……、そう仰せになっているのだ。何も慌てることはない」
「けど、早く平泉に……。そうでなくては、吉次の役目が……」
病み衰えてもなお、竜の目は、吉次の頭目としての身の上を案じていた。
「おまえの心配することではない! 一月やそこらの遅れなど、後でどうとでも言い訳もできる。それに、他の人足どもにも丁度良い休養だったのだ。何せ、平泉までは、まだまだ長い道のりだからな……」
「……」
「幸い、木曽殿も我らの長の逗留を歓迎して下さっておられる。なれば、今は何も考えず、ゆっくりと養生することだ」
「吉次……」
「繰言(くりごと)はもう沢山だ。これは頭としての命令だからな! 嫌でも聞いてもらうぞ!」
最後は吉次も叱りつけるように言ったものの、すぐにまた笑って見せた。
「いったい、何のご相談にございますか?」
碗をのせた盆を手に、巴が静かに入って来た。
「これは、巴殿……」
吉次は、にこやかに軽く頭を下げた。
「薬湯をお持ちしました」
「これはかたじけない……」
ついと吉次は竜の傍らに寄り、上体をゆっくりと抱え起こした。が、竜は右肩に走る激しい痛みに、思わず顔を歪(ゆが)めた。
「少しの辛抱だからな……。せめて、これだけは、飲んでくれよ」
巴から椀を受け取ると、吉次は、鼻に衝(つ)く、強い臭気を発する液体を竜の口に流し込んだ。未だ、ろくに食べ物を口にできない状態にあっては、これが命を繋ぐ唯一の糧(かて)であった。それでも、一度にはいくらも飲み込めず、時間をかけて、ほんの少しずつ、幾度にも分けて流し入れてやって、ようやく飲み干すことができるといった具合だった。
「苦くてたまらぬだろうが、こればかりは我慢してもらわねばな……」
吉次が何を言おうと、竜は虚ろな笑みを浮かべ、ただなされるままにされていた。
「それでも、一頃のことを思えば、随分、顔色も良うなられました……」
そう言って、巴は空になった椀を受け取った。
「竜、この巴殿には、よく御礼を申し上げねばならぬぞ。傷の手当やら、何やらで、大そうお世話をおかけいたしておるのだからな……」
言いながら、再び竜を横たわらせようとする吉次に、
「またそのように仰せになられて……。私は当然のことをしているだけにございます」
巴は慎ましげに答えつつ、それを助けた。
「それにしても、本当によろしゅうございました……。あのまま、もしやのことになっていては、遮那王様があまりにお気の毒でしたもの……。ご自分を責めてばかりおられて……」
「真に……。この吉次も、何やら、いじらしゅう思われて……」
自分が意識を失っていた間中、遮那王が片時もそばを離れず、付き添っていたことを知らされ、竜もひどく胸が痛んだ。あの時は、ただ、とにかく助けたい一心だった。しかし、そのために、かえって遮那王にはつらい思いをさせることになってしまったことに、言い様のない、皮肉めいたものも感じずにはいられなかった。
「傷が、中々ふさがらず、さぞや、辛うござりましょう……」
そう尋ねる巴にも、竜はかすかに首を横に振って、精一杯の笑みを向けた。
「殿も仰せにござりました。これほどの傷を負うて、無事だったのは奇跡だと……。これも、『茜』と申される御方のお力ゆえでございましょうな……」
思いがけない人の名を出され、竜のみならず吉次も顔色を変えた。
「巴殿……、どうしてその名を?」
「ひどい熱にうなされながら、幾度となく、うわ言でその名を口にしたのですよ。その度に、わずかながら息遣いも楽になって、熱も下がり始めたのです。きっと……、心に想うその御方の力が、死の淵から呼び戻したのでございましょう……」
と感慨深げに語る巴に、二人は一様に顔を曇らせた。
「さあ、竜。今少し眠るといい……。また熱が上がっては、事だからな……」
吉次に言われて、竜は無言でうなずいた。
「巴殿」
急に気忙(きぜわ)しく促す吉次に、巴はいささか訝(いぶか)りながらも、二人して、静かに部屋から出て行った。
一人になってからも、竜はしばらく、薄暗い部屋の天井をぼんやりと眺めていた。
(茜……)
確かに夢を見た。それは、まるで現実のことのように、今でも、はっきりと思い出すことができる。
灼熱の火焔地獄をさまよっていた。
見渡す限り一面に広がる紅蓮(ぐれん)の世界――。その炎の激しさに目がくらみ、あまりの熱さに身悶えして……、そんな劫火(ごうか)燃え盛る中で、竜は確かに茜の姿を見たのだった。
(茜! 茜!)
何度も声の限りに叫んだ。そして、茜もまた叫び返していた。
しかし、二人の間に横たわる炎の壁は、厚く高く――互いの思いをはね返すばかりだった。
(すぐそこにいるのに……。伸ばしたこの手が、後少しで届きそうなのに……)
ただただ、もどかしさばかりが募る。
(茜! 待っていろ! 今すぐ助け出してやる!)
意を決して、壁に挑もうとする竜を、茜は恐怖に震える目で見つめ、何度も激しく首を横に振った。
『いけない! 越えては行けないわ!』
茜の叫びが、竜の胸を突き通す。
『運命は覆せないのよ!』
(茜……)
『竜、生きるのよ! 生きて、そして、耐えて!』
(……)
『私を置いて、一人で逝(い)ってしまわないで! お願いだから……』
茜の涙を見て、竜は呆然とその場に立ち尽くした。
『生き続けるしかないのよ、私もおまえも……。どんなに苦しくても、逃げることはできない。それが二人に与えられた定めなのですもの……』
と、その時、火焔の勢いが一気に増し、目の前にそそり立った。思わず怯(ひる)んだその刹那、茜の姿は何方(いずかた)ともなく消え去っていた。
(茜!)
狂ったようにその名を叫び続け、夢中でかの人の姿を追い求める。しかし、いくら眼を凝らして見ても、二度と捜し当てることはできなかった。
(あんなにも間近に認めながら、この手に触れることすら叶わなかった……)
ほんの一瞬のためらいを、悔いずにはいられなかった。と同時に、竜は愕然としたのだった。
(茜も地獄を彷徨(さまよ)っているのか……)
何をおいても、茜の幸せを……、ただ、それだけを願って来た。この身はどうなろうと、茜さえ幸せならば……、そう思って耐えて来たのではないか。それが、よもや、同じ苦しみの淵にその身を沈めていようとは……。瞬時に、竜の中に、激しい憤りが沸き起こっていた。
(地獄の責め苦は俺一人に……。かの人の背負う業(ごう)も、何もかも全て、この身一つに与え給え!)
竜はそう一心に念じて、勢い止まぬ炎の壁に、まっしぐらに突き進んだ。と、たちまちに炎の渦に飲み込まれていた。あまりの炎の激しさに、その身を焼き尽くされたかと思った。それでも、少しも苦ではなかった。これで、茜が救われるなら……、竜の心はむしろ喜びに打ち震えた。
ところが、突然、腕をつかむ強い力を感じた。途端に、ちぎられんばかりに引っ張られ、あっという間に、火焔の中から引き摺り出されていた。
(やめろ! やめてくれ!)
抗う竜を、その力はどこまでも引き上げて行く。その凄まじいばかりの勢いに、いつしか意識も遠のいて……。そして、気がつくと、ここにこうして横たわっていた。
傍らで、この手をしっかりと握りしめたまま眠り込む遮那王を認めて、竜は朦朧とする意識の中、全ては儚(はかな)い夢幻(ゆめまぼろし)と悟ったのだった。
『運命は覆せないのよ!』
茜の叫び声が、今もなお耳を離れない。
(俺の天命も消えはしないのだな……)
一つ大きく息をついて、こぼれそうになる涙を堪(こら)えた。そして、夢の中とはいえ、忘れえぬ人と相見えることのできた、そのひと時を思い返して、再び深い眠りに落ちていた。
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