月夜の奇跡 (壱)
 
   
 
 すっかり日も落ちて、ようやく館に戻って来た遮那王は、眠っている竜の枕許に腰を下ろして、じっと、その寝顔を眺めていた。
 
 瀕死の状態にあった頃を思えば、見違えるほどの回復ぶりではあったが、それでも、差し込む月明かりに浮かぶその面差しは、あの活力にあふれた、いつもの竜のそれとは程遠いものであった。
 
 己の命の引き換えとなったその代償の大きさ
―― それが、日増しに、遮那王の心に重くのしかかって来ていた。
 
(おまえが元通りになるのなら、いかなることでもしてみせようぞ
……。この命とて、惜しゅうはない!)
 そんな悲壮なまでの決意の込もった遮那王の視線を感じてか、竜は静かに目を開いた。
 
「起こしてしまったか?」
「いや
……、眠っていたわけではありませぬ。ただ、目を閉じていただけなれば……。しばらくは、眠らずとも事足りるほどに、よう眠りましたからな……
 珍しく冗談めいた物言いをする竜に、遮那王の表情も幾分か和らいだ。
 
「気分はどうだ? 傷は痛まぬか?」
「いいえ、大丈夫にござります
……
 未だ、まどろみの中にあるように、ぼんやりと宙を漂わせていた竜の視線が、やがて、遮那王の上にひたと止まった。
 
「何か
……、ありましたか?」
 ふいに尋ね掛けられ、内心ドキッとしながらも、
……なぜだ?」
「何やらお顔の色が優れぬような
……
……気のせいであろう。何もありはせぬぞ」
 あくまでも平静を装ったつもりの遮那王だが、その言葉尻に力がないのを、竜も聞き逃しはしなかった。
 
「遮那王殿
……
 いくら弱っているとはいえ、自分を案じて見つめるその眼差しに嘘など通じはしない
……と、遮那王もとうとう観念した。
 
「井の中の蛙
(かわず)とは、このことを申すのだな……。今日は己の力の無さを、嫌と言うほど思い知らされた……
……
 
「情けない! 女子
(おなご)の巴殿に、いとも容易(たやす)く負かされようとは……。鞍馬の遮那王の名がすたるわ!」
 腹立ち紛れに吐き捨てる遮那王にも、それを黙って眺める竜の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
 
「何がおかしい!」
 遮那王は不機嫌そうに頬を膨らませた。
 
「遮那王殿も、今少し肩の力を抜かれれば良ろしかろうに
……。一度ぐらいの負けで、もはや、この世の終わりのようなお顔などなされて……
「それは
……
 
「この次、負けねばよいこと
……。そのためには、いかが致せばよいか……。遮那王殿になら、その答えもおわかりのはず……
……
 
「次も負けたなら
……、またその次に……。命ある限り、幾度でも挑むことはできまする……
 途切れがちな、弱々しい声ではあるものの、その一言一言は、遮那王の心に心地よく響いていた。
 
「命ある限り
……。なるほど、おまえの申す通りだ。同じ過(あやま)ちは二度と繰り返さぬ。さすれば、いつの日か勝てる時も参るか……
 
 遮那王にようやく戻った目の輝きを見て、竜はうなずこうとした。が、途端に激痛が右肩を襲い、顔を歪めながら小さく身を捩
(よじ)った。
 
「竜! いかがしたのだ?」
 それでも、竜は歯を食い縛ってじっとそれを堪
(こら)え、声一つ立てようともしない。
 
「痛むのならそう申せ! 無理に我慢など致すでない!」
 いつまでたっても、消えることのない痛みと戦い続けている竜の姿に、ただ見守ることしかできない遮那王は、いたたまれない思いだった。
 
「遮那王殿
……、手を……
 苦しい息の下で、必死に左手を差し伸べて来た竜に、遮那王は慌ててその手を取った。
 
「この手だ
……
……
「この手が、俺を引き戻したんだ
……
……
 
「地獄をさまよう俺を引き上げた強い力
――。あれは、遮那王殿のこの手だったに違いない……
 遮那王はただ驚くばかりだった。
 
「温かい
……
 そうつぶやいた竜の手は、今は氷のように冷たい。よもや、命の営みも、既にその働きを止めようとしているのではないか
……、そんな、えも言われぬ不安が遮那王の胸の内に広がっていた。
 
「この痛みも生きている証
……。もう一度、遮那王殿やみんなの許に戻って来られてよかった……
 
 どうにか痛みをやり過ごしたのか、竜は、またいつものように笑顔を見せた。が、遮那王はその目にいっそうの悲しみの色を浮かべて、竜の左手を握り締めたままうつむいた。
 
「すまぬ
……。何もかも、私のせいだ……。おまえをこのように苦しませて……。己を力を過信するあまり、取り返しのつかぬことを致した……
 思い詰めた様子の遮那王に、竜は未だ繋がれたままの手を力なく握り返した。
 
「そうではありませぬ
……
……
「遮那王殿のせいなどとは思いもよらぬこと
……。これは、誰のせいでもない、己自身が招いたことなれば……
「竜
……
 
「もし、ここで命を落とすなら
……、それも我が定めにござりましょう」
「何を申すのだ!」
 遮那王は思わず語気を荒げた。
 
「京にいた頃、ある僧に言われたことがありまする。人の一生は、己に課された天命を探す旅だと
……
……天命?」
 
「人は誰しも、天より某
(なにがし)かの命題を与えられて、この世に生まれて来るそうにござります。そして、それを全うした時、再び天に帰るのだと……。とすれば……、遮那王殿の御命を守ることが、この身に与えられし天命だったのやもしれませぬな……
……
 
「なれば、遮那王殿には少しも気に病むことなどござりませぬ
……。たとえ、私が、ここで命を終えたとしても……
 遮那王は血相を変えた。
 
「何をたわけたことを
……。死にはせぬ! いや、死なせるものか! 共に、平泉に参るのではなかったか! 忘れたのか? おまえはこの遮那王にとって、誰よりも大切な友なのだぞ!」
……
 
「私を置いて逝くことなど、断じて許さぬ!」
……
「もう一人になるのは嫌なのじゃ
……
 そう言って、顔を背けた遮那王の横顔をつたう光るものを見て、竜も胸が熱くなった。
 
 この遮那王のためにも、一日も早く元通りの元気な姿に戻りたい
……、そう心では思うものの、今の竜には、己が手の指先から、次第に失せ行くばかりの生きる気力を、押し留める術(すべ)すら見つけられないのである。
 
 今となっては、ここで命を終えることになろうと、もはやどうでもいいことのようにも思われた。そうなれば、どんな苦しみも、これ以上追っては来るまい
……。そう思えば、死への恐怖など少しも苦ではなかった。
 
 しかし、それでは、遮那王に一生消えぬ負い目を背負わせ、あるいは、その命まで絶つことにもなりかねない
……。それだけは、何としても避けねば……。今はただ、いかにすれば、この孤独に震える少年の魂を救うことができるか……、竜の胸の内にあるのはその思い一つであった。
 
「遮那王殿は一人なものか
……。いつもそばには鬼若がいる。吉次だって……。平泉に行けば、また、新たな出会いもあるだろう……
……
 
「人は誰でも一人ではない
……。いつでも、すぐそばに、誰かがいる。心を開いて語りかければ、それに答えてくれる者も必ずいるはず……。そのことに気づきさえすれば……、これから出会う者、関わる人間すべてが、遮那王殿の宝ともなりましょう……
……私の宝に?」
 遮那王は、あふれる涙を拭うこともせず、竜の目を一心に見つめた。
 
「この国に流れ着いた時、俺は一人ぼっちだった。けど
……、今は違う。こんな俺でも大事な友だと……、そう言ってくれる人間にも出会えた……
 次第に混濁して行く意識の中で、竜はいつしか目前の遮那王に、懐かしい重衡の面影を重ね見ていた。
 
『竜はこの重衡にとって、ただ一人の友ぞ! この思いは決して変わりはせぬ!』
 
 文覚に向かって、そう啖呵
(たんか)を切った重衡――
 あの時は、どれほど心の中で喜悦の涙に咽
(むせ)んだことか……
 そして、心ならずも袂
(たもと)を分かつことになってからも、その言葉はなおも竜の心の支えとなっていた。
 
「人は一人では生きて行けない
……。人が人を思い遣る心―― その温もりが、孤独に凍える俺の心を解かし、生きる力に換えてくれた……。そして、ひとたび通じ合った思いは、どんなに遠く隔たろうと絶えることはない……
 
 遮那王を前にしながら、竜は心のどこかで、重衡にこの思いを届かせたいと願っていた。
 重衡との心の擦れ違い
――、そこから逃れるように、京を離れたことが、竜の中のただ一つの悔いだった。
 
(なぜ、もう一度、正面から向き合うことをしなかったのか
……
 
 あと少しの分別があれば、もっと素直に重衡の心に寄り添うこともできたのではないか
……、そんな後悔の念が、今さらのように竜を苛んだ。
 
「たとえ、一時の感情で憎み合うことになったとしても
……、その心の奥底にある温かい思いは、決して、消えはしない……
「竜
……
「それほど、強い絆だから
……
 と、そこで竜は急に咳き込み、ひどく苦しげに喘
(あえ)ぎだしだ。
 
「苦しいのか! 竜!」
 自分を案じて、きつく握りしめる遮那王の手に、竜はようやく我に返った。
 
「大丈夫にござります
……
「なれど
……
「少し、疲れただけのこと
……。喋りすぎましたかな……
 そう言って、竜は荒い息を抑えながら笑いかけるものの、遮那王には、そんな竜の気遣いが、かえってつらく感じられた。
 
(私が竜を疲れさせている
……
 
 昼間の吉次の言葉を思い出して愕然とした。
 気遣うこちらが、いつしか気遣われている
……、遮那王はやるかたない思いに、打ちのめされていた。
 
「今の私に、何がしてやれる? どうすれば、おまえの苦しみを少しでも和らげてやることができる? おまえの望みとあらば、どんなことをしてでも叶えてやる。何でも申してみよ!」
 遮那王の必死の願いにも、竜は、静かに首を横に振るだけだった。
 
「頼む! 何か申してくれ
……。欲しい物はないのか? さもなくば、今、おまえが一番したいことは何だ?」
 
 その縋るような眼差し、悲痛なまでの叫びに、竜は朦朧
(もうろう)としてくる意識を押し留め、懸命にその答えを探そうとした。もし、本当にこのまま命の火が消え入るのならば……、最後になすべきことは……
 
「海に
……、帰りたい……
 微かなつぶやきだった。
 
……海?」
 
「海がこの国に俺の運命を運んで来た
……。あの時からずっと……、いつも海を身近に感じてきた。どんなときも……。今はただ、海が恋しい……
 そう言って、薄く閉じた竜の眦
(まなじり)から、思いもがけずも、一筋の光るものがつたった。
 
「竜
……
 初めて見る竜の涙に、遮那王は切なさで胸が張り裂けそうだった。
 
 唯一つ、竜がこれほどまでに渇望するものは、こんな山奥にあっては、到底叶うべくもないものであった。それでも、どうにかしてその望みを叶える手立てはないものか
……と遮那王も真剣に思案をめぐらす。
 
 そして、いったい何を閃
(ひらめ)いたのか……、突如として立ち上がるや、大慌てで外へ飛び出して行った。

 
  ( 2005 / 10 / 22 )
   
   
 
   
 
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