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すっかり日も落ちて、ようやく館に戻って来た遮那王は、眠っている竜の枕許に腰を下ろして、じっと、その寝顔を眺めていた。
瀕死の状態にあった頃を思えば、見違えるほどの回復ぶりではあったが、それでも、差し込む月明かりに浮かぶその面差しは、あの活力にあふれた、いつもの竜のそれとは程遠いものであった。
己の命の引き換えとなったその代償の大きさ―― それが、日増しに、遮那王の心に重くのしかかって来ていた。
(おまえが元通りになるのなら、いかなることでもしてみせようぞ……。この命とて、惜しゅうはない!)
そんな悲壮なまでの決意の込もった遮那王の視線を感じてか、竜は静かに目を開いた。
「起こしてしまったか?」
「いや……、眠っていたわけではありませぬ。ただ、目を閉じていただけなれば……。しばらくは、眠らずとも事足りるほどに、よう眠りましたからな……」
珍しく冗談めいた物言いをする竜に、遮那王の表情も幾分か和らいだ。
「気分はどうだ? 傷は痛まぬか?」
「いいえ、大丈夫にござります……」
未だ、まどろみの中にあるように、ぼんやりと宙を漂わせていた竜の視線が、やがて、遮那王の上にひたと止まった。
「何か……、ありましたか?」
ふいに尋ね掛けられ、内心ドキッとしながらも、
「……なぜだ?」
「何やらお顔の色が優れぬような……」
「……気のせいであろう。何もありはせぬぞ」
あくまでも平静を装ったつもりの遮那王だが、その言葉尻に力がないのを、竜も聞き逃しはしなかった。
「遮那王殿……」
いくら弱っているとはいえ、自分を案じて見つめるその眼差しに嘘など通じはしない……と、遮那王もとうとう観念した。
「井の中の蛙(かわず)とは、このことを申すのだな……。今日は己の力の無さを、嫌と言うほど思い知らされた……」
「……」
「情けない! 女子(おなご)の巴殿に、いとも容易(たやす)く負かされようとは……。鞍馬の遮那王の名がすたるわ!」
腹立ち紛れに吐き捨てる遮那王にも、それを黙って眺める竜の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「何がおかしい!」
遮那王は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「遮那王殿も、今少し肩の力を抜かれれば良ろしかろうに……。一度ぐらいの負けで、もはや、この世の終わりのようなお顔などなされて……」
「それは……」
「この次、負けねばよいこと……。そのためには、いかが致せばよいか……。遮那王殿になら、その答えもおわかりのはず……」
「……」
「次も負けたなら……、またその次に……。命ある限り、幾度でも挑むことはできまする……」
途切れがちな、弱々しい声ではあるものの、その一言一言は、遮那王の心に心地よく響いていた。
「命ある限り……。なるほど、おまえの申す通りだ。同じ過(あやま)ちは二度と繰り返さぬ。さすれば、いつの日か勝てる時も参るか……」
遮那王にようやく戻った目の輝きを見て、竜はうなずこうとした。が、途端に激痛が右肩を襲い、顔を歪めながら小さく身を捩(よじ)った。
「竜! いかがしたのだ?」
それでも、竜は歯を食い縛ってじっとそれを堪(こら)え、声一つ立てようともしない。
「痛むのならそう申せ! 無理に我慢など致すでない!」
いつまでたっても、消えることのない痛みと戦い続けている竜の姿に、ただ見守ることしかできない遮那王は、いたたまれない思いだった。
「遮那王殿……、手を……」
苦しい息の下で、必死に左手を差し伸べて来た竜に、遮那王は慌ててその手を取った。
「この手だ……」
「……」
「この手が、俺を引き戻したんだ……」
「……」
「地獄をさまよう俺を引き上げた強い力――。あれは、遮那王殿のこの手だったに違いない……」
遮那王はただ驚くばかりだった。
「温かい……」
そうつぶやいた竜の手は、今は氷のように冷たい。よもや、命の営みも、既にその働きを止めようとしているのではないか……、そんな、えも言われぬ不安が遮那王の胸の内に広がっていた。
「この痛みも生きている証……。もう一度、遮那王殿やみんなの許に戻って来られてよかった……」
どうにか痛みをやり過ごしたのか、竜は、またいつものように笑顔を見せた。が、遮那王はその目にいっそうの悲しみの色を浮かべて、竜の左手を握り締めたままうつむいた。
「すまぬ……。何もかも、私のせいだ……。おまえをこのように苦しませて……。己を力を過信するあまり、取り返しのつかぬことを致した……」
思い詰めた様子の遮那王に、竜は未だ繋がれたままの手を力なく握り返した。
「そうではありませぬ……」
「……」
「遮那王殿のせいなどとは思いもよらぬこと……。これは、誰のせいでもない、己自身が招いたことなれば……」
「竜……」
「もし、ここで命を落とすなら……、それも我が定めにござりましょう」
「何を申すのだ!」
遮那王は思わず語気を荒げた。
「京にいた頃、ある僧に言われたことがありまする。人の一生は、己に課された天命を探す旅だと……」
「……天命?」
「人は誰しも、天より某(なにがし)かの命題を与えられて、この世に生まれて来るそうにござります。そして、それを全うした時、再び天に帰るのだと……。とすれば……、遮那王殿の御命を守ることが、この身に与えられし天命だったのやもしれませぬな……」
「……」
「なれば、遮那王殿には少しも気に病むことなどござりませぬ……。たとえ、私が、ここで命を終えたとしても……」
遮那王は血相を変えた。
「何をたわけたことを……。死にはせぬ! いや、死なせるものか! 共に、平泉に参るのではなかったか! 忘れたのか? おまえはこの遮那王にとって、誰よりも大切な友なのだぞ!」
「……」
「私を置いて逝くことなど、断じて許さぬ!」
「……」
「もう一人になるのは嫌なのじゃ……」
そう言って、顔を背けた遮那王の横顔をつたう光るものを見て、竜も胸が熱くなった。
この遮那王のためにも、一日も早く元通りの元気な姿に戻りたい……、そう心では思うものの、今の竜には、己が手の指先から、次第に失せ行くばかりの生きる気力を、押し留める術(すべ)すら見つけられないのである。
今となっては、ここで命を終えることになろうと、もはやどうでもいいことのようにも思われた。そうなれば、どんな苦しみも、これ以上追っては来るまい……。そう思えば、死への恐怖など少しも苦ではなかった。
しかし、それでは、遮那王に一生消えぬ負い目を背負わせ、あるいは、その命まで絶つことにもなりかねない……。それだけは、何としても避けねば……。今はただ、いかにすれば、この孤独に震える少年の魂を救うことができるか……、竜の胸の内にあるのはその思い一つであった。
「遮那王殿は一人なものか……。いつもそばには鬼若がいる。吉次だって……。平泉に行けば、また、新たな出会いもあるだろう……」
「……」
「人は誰でも一人ではない……。いつでも、すぐそばに、誰かがいる。心を開いて語りかければ、それに答えてくれる者も必ずいるはず……。そのことに気づきさえすれば……、これから出会う者、関わる人間すべてが、遮那王殿の宝ともなりましょう……」
「……私の宝に?」
遮那王は、あふれる涙を拭うこともせず、竜の目を一心に見つめた。
「この国に流れ着いた時、俺は一人ぼっちだった。けど……、今は違う。こんな俺でも大事な友だと……、そう言ってくれる人間にも出会えた……」
次第に混濁して行く意識の中で、竜はいつしか目前の遮那王に、懐かしい重衡の面影を重ね見ていた。
『竜はこの重衡にとって、ただ一人の友ぞ! この思いは決して変わりはせぬ!』
文覚に向かって、そう啖呵(たんか)を切った重衡――。
あの時は、どれほど心の中で喜悦の涙に咽(むせ)んだことか……。
そして、心ならずも袂(たもと)を分かつことになってからも、その言葉はなおも竜の心の支えとなっていた。
「人は一人では生きて行けない……。人が人を思い遣る心―― その温もりが、孤独に凍える俺の心を解かし、生きる力に換えてくれた……。そして、ひとたび通じ合った思いは、どんなに遠く隔たろうと絶えることはない……」
遮那王を前にしながら、竜は心のどこかで、重衡にこの思いを届かせたいと願っていた。
重衡との心の擦れ違い――、そこから逃れるように、京を離れたことが、竜の中のただ一つの悔いだった。
(なぜ、もう一度、正面から向き合うことをしなかったのか……)
あと少しの分別があれば、もっと素直に重衡の心に寄り添うこともできたのではないか……、そんな後悔の念が、今さらのように竜を苛んだ。
「たとえ、一時の感情で憎み合うことになったとしても……、その心の奥底にある温かい思いは、決して、消えはしない……」
「竜……」
「それほど、強い絆だから……」
と、そこで竜は急に咳き込み、ひどく苦しげに喘(あえ)ぎだしだ。
「苦しいのか! 竜!」
自分を案じて、きつく握りしめる遮那王の手に、竜はようやく我に返った。
「大丈夫にござります……」
「なれど……」
「少し、疲れただけのこと……。喋りすぎましたかな……」
そう言って、竜は荒い息を抑えながら笑いかけるものの、遮那王には、そんな竜の気遣いが、かえってつらく感じられた。
(私が竜を疲れさせている……)
昼間の吉次の言葉を思い出して愕然とした。
気遣うこちらが、いつしか気遣われている……、遮那王はやるかたない思いに、打ちのめされていた。
「今の私に、何がしてやれる? どうすれば、おまえの苦しみを少しでも和らげてやることができる? おまえの望みとあらば、どんなことをしてでも叶えてやる。何でも申してみよ!」
遮那王の必死の願いにも、竜は、静かに首を横に振るだけだった。
「頼む! 何か申してくれ……。欲しい物はないのか? さもなくば、今、おまえが一番したいことは何だ?」
その縋るような眼差し、悲痛なまでの叫びに、竜は朦朧(もうろう)としてくる意識を押し留め、懸命にその答えを探そうとした。もし、本当にこのまま命の火が消え入るのならば……、最後になすべきことは……。
「海に……、帰りたい……」
微かなつぶやきだった。
「……海?」
「海がこの国に俺の運命を運んで来た……。あの時からずっと……、いつも海を身近に感じてきた。どんなときも……。今はただ、海が恋しい……」
そう言って、薄く閉じた竜の眦(まなじり)から、思いもがけずも、一筋の光るものがつたった。
「竜……」
初めて見る竜の涙に、遮那王は切なさで胸が張り裂けそうだった。
唯一つ、竜がこれほどまでに渇望するものは、こんな山奥にあっては、到底叶うべくもないものであった。それでも、どうにかしてその望みを叶える手立てはないものか……と遮那王も真剣に思案をめぐらす。
そして、いったい何を閃(ひらめ)いたのか……、突如として立ち上がるや、大慌てで外へ飛び出して行った。
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