月夜の奇跡 (弐)
 
   
 
「竜、おぬし、やけに軽いな……。よもや、羽でも生えておるのではあるまいな?」
 鬼若は冗談混じりに、笑いながら背の上に向かって言った。
 
『海に
……――そう力なくつぶやいた竜。
 遮那王は何としてもその望みを叶えてやりたいと、鬼若に有無を言わせず竜を担がせ、密かに木曽館を抜け出して来たのである。
 
「何処
(いずこ)……参りますのか?」
 そう尋ねる竜の声は、そよ吹く風にすら、かき消されそうなほどに弱々しい。
 
「海を見に参るのだ!」
 遮那王は力強く答えた。
 
……海?」
 ほんのわずか頭を擡
(もた)げた竜に、
「心配致すな
……。そう遠くではないらしい。今しばらくの辛抱じゃ……
 そう言って、遮那王は竜に笑いかけた。
 
 が、今の竜には、もはや、それに笑みを返す力も残ってはいない。ただ鬼若の背に身体を預け、遠のく意識をどうにか保つのがやっとであった。遮那王もその様子を見てキッと表情を引き締めた。
 
「鬼若、急げ!」
「わかっておりまする
……
 
 鬱蒼とした木立の間を急ぎ足で駆ける一行。時ならぬ珍客に、さんざめく野鳥の声がこだまして、辺りは不気味な気配に彩られていた。それでも、遮那王は勇んで先に立ち、突き進んで行く。
 
 遮那王に闇への恐れはなかった。いかに暗中にあろうと、容易く道を見分けることのできる確かな目
―― それは、京の鞍馬寺にいた頃から、夜な夜な剣術の修行に勤しむ間に、自ずと身についたものであった。
 
 しかも、今宵は幸いにも望月。生い茂る木々に、頼みの月明かりも遮られがちではあったが、それでも、遮那王には十分すぎる明るさであった。
 が、それにしても、行けども行けどもその道に果ては見えず
……。遮那王にも次第に苛立ちが増してきた。
 
「真、この道でよいのであろうな?」
 と問い掛ける遮那王にも、
「はあ
……、多分間違いないと存ずる」
 鬼若の返事はどうも心許ない。
 
……多分だと?」
「何せ、某がここを通ったは昼日中
(ひるひなか)のことなれば……。かような暗がりでは景色もまるで違って見えまするゆえ、はきとは……。なれど、今宵の月の位置から見て、方角はこれでまず間違いござらぬ」
 と答える鬼若に、遮那王は少し頼りなさを覚えたものの、さりとて、目指すその場所は、当の鬼若にしか知りえないのであるから致し方ない。
 
 木曽での逗留が長引くにつれ、身を持て余した鬼若は、昼の間、方々に出歩くようになった。といっても、ただ当てもなく散策して回るというわけではなく、館の周辺の地形を見極め、万一の場合の逃げ道も確保しておくのが目的とは言っていたが
……
 
 少なくとも、竜の病床に付きっきりで、館の外へは一歩も出たことのない遮那王に比べれば、少しはこの土地に明るいのは確かであったし、山僧上がりで、自分と同様、道なき道を行くことにも慣れた男である。多少、抜けた所があるといえども、ここはもう鬼若の勘を信じるほかなかった。
 
 そうして、かれこれ一刻近く歩いたか
……、長く続いた雑木林をようやく抜け出ると、突如として、目の前の視界が開けた。
 
「これか? 鬼若!」
「さようにござりまする」
 鬼若は少しホッとしたようにうなずいた。
 遮那王は喜びよりも、むしろ、驚きに満ちた思いでゆっくりと歩を進める。鬼若もそれに続いて、ゆるやかな坂道を下って行った。
 
「竜、着いたぞ
……
 遮那王の声に、竜は静かに目を開いた。
 と、眼前いっぱいに広がる水面
(みなも)――。煌々(こうこう)と照り映える夜空の月を映し込んだそれは、鏡のように澄み渡っている。その神々(こうごう)しいまでの輝きに満ちた風景に、竜は眩しそうに目を細めた。
 
「残念ながら真の海ではないが
……、これで許せ……
 鬼若は竜を背負ったまま、さらに水際
(みぎわ)まで進んだ。しんと静まり返った辺りには、押し寄せるさざなみの音の他は何も聞こえなかった。
 
「降ろしてくれ
……
 少しかすれた竜の声に、鬼若は困惑して遮那王を返り見る。遮那王もしばし思い惑ったものの、やがてうなずき返した。
 
 鬼若は膝をついて、そっと竜を降ろした。しかし、すっかり弱り切った身体では、とても立っていられるはずがない。背後から竜の大きな身体を抱え込むようにしていた遮那王も堪えきれず、二人揃ってその場に俯
(うつ)ぶしそうになる寸前、向き直った鬼若が慌ててそれを受け止めた。
 
「無理を致すな
……
 と言って、もう一度抱え起こそうとした鬼若にも、竜はなぜかその手を振り切った。
 
「竜
……
 遮那王の声も既に聞こえてはいないのか
……
 必死に四肢を踏ん張り身体を起こすと、ただ無心に水を求めて、ほとんど這うように、一歩一歩前に進み出した。
 
 ほんの少し前まで、目を開くことさえも億劫
(おっくう)そうにしていたはずが……。いったい、どこにこれほどの力が残っていたものか……。そんなひたむきなまでの姿を見せられ、遮那王は金縛りに遭ったように身動きできずにいた。
 
「そんなに深みに行くと、危ない
……
 思わず声をかけようとした遮那王だが、次の瞬間、絶句した。
 
「何事ぞ!」
「御曹司!」
 鬼若が咄嗟に遮那王を庇
(かば)い楯となった。が、遮那王はそれをあえて跳ね除け、湖に起きつつある異変を凝視していた。
 
 降り注ぐ月の光に呼応するように、瞬く間に、竜の身体を緑の光が包み込んでいた。その光はゆるやかに湖を漂いながら、あたかも月の光を吸い込んでいるかの如く、刻々と輝きの色を増して行く。
 それはもう、昼と見まごうほどの尋常ではない明るさであった。
 
(いったい、何が起きたと言うのか
……
 とてもこの世のものとは思えぬ神秘的な光景を、二人はただ、呆然と見つめることしかできなかった。

 
 
 
「あれは……、何であったのか……
 いとも不可思議な緑の光は、程なく何方
(いずかた)へと消え去り、辺りは元の通りの静寂に包まれていた。
 
 遮那王も鬼若も、なお夢現
(ゆめうつつ)の心地であったが、やがて、
「竜
……、竜は何処(いずこ)じゃ!」
 いち早く正気づいた遮那王は、迷わず湖に分け入り、竜の行方を探し求めた。その声に弾かれたように、鬼若も後を追う。
 
 そして、ようやく水面に静かに漂っている竜を見つけると、鬼若は急ぎ肩に担いで、岸へ取って返そうとした。ところが
……、水の中のせいか、やけに足が重く、遅々として前に進まない。
 
「何を致しておるのだ! 早うせい!」
「わかっておりまする
……
 
 遮那王に急かされ、焦った鬼若は、
「これは、どうしたことにござろうな
……。こやつめ……、何やら先ほどとは比べ物にならぬほど、重うなっておりますぞ……
 と訴え掛けてみるものの、
「何をバカな! つべこべ申しておらずに早う致せ!」
 主人の叱責に、鬼若は首をかしげつつ、ともかく懸命に岸へと急いだ。そして、やっとのことでたどり着くや、竜を担いだまま、その場に倒れ込んだ。
 
「竜! しっかり致せ!」
 遮那王はすぐさま竜を仰向けに横たわらせ、身体を何度も揺すってみた。
「早う目を覚ますのじゃ! 竜! 竜!」
 つい必死になるあまり、深手を負った右肩を力いっぱい掴
(つか)んでしまったが、それでも、竜は何の反応も返さない。
 
「死んではならぬ! 目を開けよ!」
 もはや茫然自失の体
(てい)で、身も世もなく声の限り泣き叫ぶ遮那王―― その姿には、さしもの剛の者も、あふれ出る涙を止めることはできなかった。
 
「私のせいじゃ
……。私が竜を死なせてしもうた……
……
 
「このような所へ連れて参るなど、どうかしておったのだ! 命縮めるだけのことと
……、少し考えればわかりそうなものを……
 遮那王は涙声でつぶやいた。
 
「そのようなことはござりませぬ! 御曹司はただ竜のためを思わばこそ
……。その想いは、確かに竜にも伝わったに相違ござらん!」
 鬼若も涙ながらに慰撫
(いぶ)するものの、遮那王は竜に取り縋ったまま、いつまでも声を押し殺し咽(むせ)び泣いていた。
 
 果たしてどのくらいそうしていたのか
……
 ようやく鬼若も袖で涙を拭い、波打ち際に横たえたままの亡骸
(なきがら)を抱え起こそうとひざまずいた。と、その時、ふと目にしたものに、鬼若は突如驚きの声を発した。
 
「御曹司
……、御曹司! ご覧下さりませ!」
 鬼若の慌てた声に、遮那王はおもむろに竜の顔を見上げた。
「竜
……?」
 
 まぶたの辺りに、ほんの微かにだが、動きが認められたように感じたのは気のせいか
……
 遮那王は一縷
(いちる)の望みを託し、先ほどにも増して激しく竜の身体を揺さぶった。すると、それはより確かな動きとなって現れた。
 
「目を開けよ! 竜!」
 その叫びに応じたかのように、ゆっくりと竜の目が見開かれた。
 強張っていた遮那王の表情が、安堵の思いに一気に緩む。
 
「竜
……
……遮那王殿?」
 
 声にはまだハリはないものの、その双眸
(そうぼう)には、かつてのような強い力が感じられた。
「竜、大丈夫か?」
 なおも頼りなげな面持ちでのぞき込む遮那王に、竜は無言のまま、しかし、はっきりとうなずいて見せた。

 
  ( 2005 / 11 / 04 )
   
   
 
   
 
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