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歌声に導かれるままに、竜が足を踏み入れたのは別棟の小さな館だった。
ひっそりとした佇まいのうちにも、庭の垣根には、紅を内に秘めた白い昼顔の花がつつましやかな彩りを添えている。その傍らには、赤子をあやす一人の女人の姿があった。
薄羽蜻蛉(うすばかげろう)のような儚さ――。
一瞬、地上に舞い降りた天女かと竜も目を疑った。その人の口から発せられる、穏やかで柔らかな歌声は、聞く者の心の奥深くにまで染み渡り、つい先ほどまで、あれほど苛立ちのあまり思い乱れていた心も、俄かに安らいでくるのを竜も自覚していた。
(いつまでも聞いていたい……)
そう思ったのも束の間、つと振り返った女人は、見知らぬ者の存在に気づいて、慌ててその身を翻した。
「人がいると気づかず、失礼いたしました」
そう言って、女人は頭を下げた。
「いえ、私の方こそ……。心地よい歌声に惹かれるままに、無断でこのような所まで入って来てしまいました無礼をお許し下さりませ」
と姿勢を低くする竜に、女人はそっと歩み寄った。
「どうぞ、お手をお上げ下さい……。お客人がおられることは、殿より伺うておりましたものを……。お耳障りなものをお聞かせして、恥ずかしゅうございます……」
「滅相もございませぬ。おかげで今の今まで心を悩ませていたものも、どこぞに消え失せたようにございます」
「まあ……」
大真面目な顔で言う竜に、女人もすっかり警戒心を解いていた。
「今の歌は……?」
「この辺りに伝わる古い子守唄にございます……。あまりにむずがるものですから……」
竜が恐る恐る近づこうとするのにも、女人は少しも拒む素振りを見せなかった。
「この子はこの歌が好きで、どんなに機嫌の悪い時も、こうして歌いかけるだけで、このように笑うてくれるのです……」
言われて、のぞき込んでみると、赤子は竜に満面の笑みを向けた。それにつられるように、竜の顔にも自然と笑みが浮かんでいた。思わず差し出した指を、小さな手が弄ぶように握りしめる。そのひたすらに無垢で穢れの無い瞳に触れ、竜の苦悩もたちどころに吸い取られるような心地だった。
「太郎君も大そうあなたを気に入った様子……。このように喜んで……」
女人の言葉に竜はハッとした。この赤子が只人でないことが、竜にもすぐに察しがついたのである。
「それでは、もしや……」
驚きの眼差しで見つめる竜に、女人は『初音(はつね)』と名乗った。そして、その腕の中の赤子は、まぎれもなく、ここ木曽館の当主義仲の子であった。
「存ぜぬこととは申せ、無礼の数々……」
「いいえ。殿は確かに偉いお方かもしれませぬが、私など唯の女子(おなご)に過ぎませぬ。それに、この子も私の腕の中にある間は唯の赤子……。こうして、親子睦まじゅう過ごすひと時に、貴賎の違いなどありはしませぬ……」
そう言って、初音が赤子に頬擦りすると、赤子も声を立てて笑った。その微笑ましい光景は、竜の胸にも、暖かなものを吹き込んで来るようだった。
「確か……、竜と申されるのでしたわね……」
初音が名乗りもしない自分の名を知っていたことに、竜はさらに驚かされた。
「一目見てわかりました。殿のお話の通りで……。もう、おけがはよろしいのですか?」
「はい。皆様のおかげによりましてどうにか命拾いを……」
「それはよろしゅうございました」
初音は優しく微笑んだ。
「京より遠く奥州まで旅をなされているのだとか」
「はい」
「近頃の世情の騒々しさは、私のような者の耳にもいろいろと入って参ります……。何かと危ない目に遭われることも多いのでござりましょうな」
と、心配顔で問い掛ける初音にも、
「仰せの通り、何事もなく無事に……というわけには、行かぬようにございます」
竜は苦笑を浮かべつつ答えた。
「それでも、旅を続けられるのでございますか?」
「……」
「明日はどのような難儀が待ち受けているやも知れずとも……?」
「これが役目にございますれば……」
初音のひどく真剣な面持ちを前に、竜はふと戸惑いを覚えた。
「命の危険をも顧みず……。殿方というものは、何ゆえ、そうまでして自ら修羅の道を選ぼうとされるのでしょうか……」
初音の言わんとすることの意味がよくわからず、竜は答えに窮した。
「この子には、そのような苦難の道を歩ませとうはありませぬ……。ただ健やかに、そして安寧にその生涯を全うしてくれれば、それでよいと……。嫡男などという立場も、この子には災いの種にしかならぬのではないかと……、唯々案じられるばかりで……」
「それは……、どういうことにござりましょうや?」
竜は訝しげに問い返した。
「人の幸せ、不幸せというものは、互いに釣り合うようになっているもの……。殿の情けを受け、この子を授かったことは私にとって無上の喜びです。されど、その一方で、いつの日か、愛しい我が子をこの腕の中から奪われるのではないかという不安にも日々苛(さいな)まれて……」
「……」
「大きな幸せを感じれば、それに等しい不幸が……、その思いから逃れることができませぬ。この子にとっても、分不相応の栄えは、より大きな苦しみを抱えることになるのではないかと……。それよりも、いついかなる時にも、人として豊かな心を持ち続ける優しい子であって欲しい……。それが、この母の偽らざる願いです……」
そう語る初音の表情は慈愛に溢れていた。
ただ、この春の陽だまりのような、穏やかな日々が、いつまでも続いてくれれば……と。
しかし、そんな初音の願いも虚しく、後に清水冠者義高と呼ばれることとなるこの嬰児(みどりご)を待ち受ける運命は、人語を絶する過酷なものであった。
木曽義仲の嫡男としてこの世に生を受けた時から、生涯逃れえぬ呪縛を一身に背負うことも宿命づけられていたものか……。
いずれ、吹き荒れる動乱の嵐の渦に、その父と共に翻弄されることになるのだが、あるいは初音の目には、既にこの時、その様も見えていたのかもしれない……。だからこそ、これほどまでに怖れずにはいられなかったのか……。
「このような所で何を致しておるのだ?」
咄嗟のことに驚いて振り返ると、そこに義仲が立っていた。
「殿……」
初音の声に、竜は慌てて身を翻し脇に控える。
義仲は悠然と歩み寄り、初音から赤子を抱き取った。危なげもなく器用に赤子をあやすその姿は、どこにでもいる父親のそれと少しも変わりはなかった。
「今日は気分が良いと見える……」
「はい……」
義仲の穏やかな眼差しに、初音は微笑んでうなずいた。
「あまり、無理をするではない。巴も案じておったぞ……」
「巴様にはいつもあれこれ気にかけていただいて……、申し訳なく思っております」
「初音……、そなたはあまり丈夫ではないのだ。太郎のことは乳母に任せて、よくよく身体を厭(いと)え……」
「お心遣いは有り難いことと存じますが……。なれど、私はこの子の母にございます。こうしていることが、何よりの良薬にございますれば……、どうか、今しばらくは、私のわがままを見逃して下さりませ……」
と初音は義仲に頭を下げた。
「わしが何を言うても聞かぬのであったな……。初音は見かけに寄らず強情。巴より扱いが難しい……。この義仲を困らせる名人じゃ……」
「殿……」
「構わぬ。そなたの好きに致せば良い……」
笑ってそう言うと、義仲は初音の腕の中に赤子を返した。二人の遣り取りを、じっと傍らから見守っていた竜は、勇将義仲の顔とは別の心優しい一面に触れたような気がしていた。
「竜、おまえもそのように出歩いておってよいのか?」
向き直った義仲に、不意打ちを食らわされたように竜は身を堅くした。
「吉次に見つかれば、また、小言を食うのではないか?」
「それは……」
「しかし、かように動けるようになれば、そうそうじっとしてもおれぬな。どうじゃ、少し外へ出てみるか?」
突然のことに、竜も困惑した。
「これより領内の検分に参るのだ。供を致せ」
「……」
「おまえに、わしが治めるこの木曽の地をとくと見せてやる。さあ、参るぞ!」
義仲は笑ってそう言うと、有無を言わさず竜を引っ張って行った。
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