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「しかと手綱を握りしめて、決して離すでないぞ!」
馬に乗ったことがないと訴える竜にも、構わず鞍上へと押し上げた義仲は、そう一声かけて馬の尻に鞭(むち)を当てた。
途端に、甲高い嘶(いなな)きが耳をつんざいたか思うと、馬は一目散に駆け出した。その後を追うように義仲、さらに兼平ら従者四人も続いた。
薄暗い木立の間を縫うように疾走する馬の背は、それはもう天地もひっくり返らんばかりの揺れようだった。船の上での揺動とはまるで勝手が違い、竜もたまらず鬣(たてがみ)にしがみついた。
「もっと腹に力を入れて上体を起こせ! いつまでもそのようにしがみついておっては、馬になめられるぞ!」
直に追いついて来た義仲が笑いながら大声で叫んだ。が、そうは言われても、ついつい恐怖心が先に立ち中々思うに任せない。
とはいえ、それでも徐々にだが、その速さにも慣れるに従い、馬の背に身体を預けるコツをつかみ、力を抜くことも覚えていた。
すぐ横を併走する義仲も、そんな竜の順応の早さを逐一見てとり、内心舌を巻きつつもほくそ笑んでいた。
「そう下ばかり向いておらずに、少しは周りもよく見てみよ!」
言われて、竜は恐る恐る顔を上げた。いつの間に森から抜け出たのか、目の前には緩やかな草原が一面に広がっていた。
それにしても、何という高さか……。
初めて馬上から眺める風景は、およそ別世界のものに感じられた。人の目よりも、遥かに高いと思われる場所から見下ろしていると、大地に息づくもの全てが、やけに小さく遠く見えるような気がした。
(これが己の生きる世界なのか……)
何とも不思議な思いが胸に沸き起こって来る。
遠く先に目を転ずれば、千里の果てまでも見渡せるかのようであった。
しかし、その先にそびえ立つ夏も間近いこの季節を迎えてなお白い雪を戴く霊峰が、果てしなく続くと思われた平原にも、いつか終りのあることを示してもいた。
「小さき国じゃ……。あるのは山の峰と草木ばかり……」
急に手綱を引いた義仲に、竜の乗る馬もつられるように突如失速して、その反動で、一瞬、のけ反(ぞ)らんばかりになった竜だが、それでも、振り落とされることだけはどうにか免れていた。
駒はだくを踏みつつ、草原の中をさらに進み行く。従う兼平等もまた、これにピタリと歩調を合わせていた。
「京の都とはいかなる所だ? わしは幼い頃に一度参ったきりで、ようは覚えておらぬのでな……。何でも、それは荘厳で美しいと聞くが……」
突然の問い掛けに竜は困惑した。いったい何と答えるべきか……。
「よくわかりませぬ……」
「……わからぬ? なぜだ? 京より参ったおまえにわからぬはずがなかろう……」
義仲は訝しげに尋ね返す。
「全く異なるものを……、比べようがありませぬ」
「おかしなことを申すやつじゃ……。同じ問いを他の者にしたならば、皆同じことを申すぞ。『ここは、京より遥かに広うはござるが、何もない……』とな……」
笑って大声で語る義仲のその言葉の裏には、どこか自嘲の念のようなものも感じられた。
「それは……、京のそこに集う人の多さ、その営みから生み出されるものの大きさは、こことは比べようもありますまい……。なれど、京でこのような眺めを目にすることはできませぬ。これほどに高くそびえ立つ山々を見るのも初めてのことなれば……。この世に自然の作り出すものに勝る美しさがあろうとも思えませぬ……」
言葉を選びながらの竜の返答に、義仲はいささか目を見張った。
「おもしろいことを申す……。やはり、おまえの目は並みの者とは違うようじゃな……」
義仲は意味ありげにつぶやくと、再び馬を追い駆けさせた。そして、竜も今度は危なげなくそれに応じていた。
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再び深い森の中へと入り込んだと思いきや、ふいに義仲は駒を止め地面に飛び降りた。竜も兼平の助けを借りてどうにか降り立つ。
「この場所に見覚えはないか?」
またもや唐突な問いに、竜は首をかしげつつ辺りを見回した。
「ここでおまえを見つけた……。数多(あまた)の屍(しかばね)が横たわる中で、血にまみれ、ほとんど虫の息であったおまえを……」
あの夜のことを竜は全くと言っていいほど何も覚えていない。恨みの殺戮(さくりく)を繰り返す遮那王から、たった一人残った小男の命を救おうとして……。しかし、それから先、何がどうなったのか……、記憶の糸はぷつりと途絶えたままだった。
「あの時はよもや助かるとも思わなんだが……。これもまた、浅からぬ宿縁の賜物であったのであろうな……」
義仲は妙に落ち着き払った口調だった。それまでの剛毅さもすっかり影を潜めて……。そんな義仲の様子に、竜もまた何か奇異なものを感じながらも、無警戒な眼差しを向けるだけだった。
「ある夜、我が夢枕に毘沙門天(びしゃもんてん)が現れてな……」
義仲は例の託宣の話を語った。
天下をもたらす青龍の化身――。それを聞きながら、竜は驚愕を覚えずにはいられなかった。
「夢のお告げのままに、馬を走らせておった所、ここでおまえ達に行き会うた……。そこでわしは考えた。毘沙門天が仰せの『青龍が様を変えし現し身(うつしみ)』とは、竜、おまえのことではないかと……」
俄かには信じがたい話に、竜は呆然とするばかりだった。
「その右腕に刻まれた龍の紋。それに、あれほどの深手を負いながら、奇跡的に命を取り留めたこともうなずける……。青龍の化身なればこそ……」
義仲はうろたえる竜を真っ直ぐに見据えた。
「おまえのその眼(まなこ)には限りない力を感じる……。命落すほどの深手を負いながら、瞬く間にそれを癒し……、馬に乗れぬはずが、ただ一度乗ってみただけで、もはや、一人でそれを乗りこなせるほどの技をも身につける……。次はいったい何を致してこのわしを驚かせる気か?」
「……」
「わしはどうあってもおまえが欲しい! 竜よ……、このままここに残れ。そして、その大いなる力をもって共に天下を取ろうぞ!」
その強い目の光には、滾(たぎ)る情熱の炎がはっきりと現れていた。そして、天下――初めて耳にしたその言葉が、竜にはとてつもなく恐ろしいものに感じられた。
腕に刻まれた青龍の持つ宿命――。これまで、幾度も追い求め、得られずにきたその謎――。
文覚も佐古も、その正体を決して明らかにしようとはしなかった。己の力で見つけろと……、そう繰り返すばかりで……。
どこまで行っても出口の見えない迷路をさまよっているような得体の知れぬ不安――、そのもどかしさゆえに、どれほど心を乱され続けて来たことか……。
それを、よもやこのような形で義仲の口から告げられようとは……。思いもよらぬ成り行きに、竜の頭の中はすっかり惑乱していた。
「この義仲は望む物は必ず手に入れる……。その気になれば、おまえをどこぞに押し込め、逃さぬようにすることもできるのだぞ!」
その目はいつしか冷酷な鋭さを増し、つい先ほどまで、赤子や初音に向けられていたはずの優しげなそれは、今はどこにも見当たらない。
ただ、有無も言わせず、力づくでこの心を鷲づかみにせんとする、貪欲なまでの支配者の顔――。
竜は身震いするほどの戦慄(せんりつ)に襲われながら、それでもなお、何かがこれに屈することを許そうとはしないのであった。
「それはお断りするより他ありますまい」
竜は、義仲のその鋭い視線をはね返して、穏やかに答えた。
「……断るとな?」
義仲の瞳が鋭く光った。
「私は物ではありませぬ」
「……」
「私のような者にも心がございます……。この心を動かされねば、従うことなどできませぬ!」
「吉次ならばよくて、この義仲にはおまえの心は動かせぬとでも申すのか!」
義仲は興奮のあまり声を荒げた。
「いいえ! そうではありませぬ。この身が主と仰ぐは、京にいる玄武の頭ただ一人……」
「……玄武? それは何者ぞ!」
初めて聞く名に少し気を削(そ)がれつつ、なおも義仲は憤然と問い質(ただ)した。その睨(にら)みつける形相にも、竜は少しも怯(ひる)むことなく夢中で続けた。
「異境の地に流れついた言葉もわからぬよそ者に、ただ一人、心から向き合ってくれた……。孤独の淵に沈むこの身を引き上げ、人として生きる道を指し示してくれた……。その人に勝る人物などとても考えられませぬ!」
「……」
「たとえ、刃を突きつけられようとも、この命奪われようとも……、その思いを変えることなど決してできませぬ!」
竜自身ようやく気づいたことだった。
命の危険を冒してまでも、この旅を続けようとするその理由――。初音に問われた時には、実の所よくわからなかった。しかし、今こうして、理不尽を突きつける義仲を前にして、竜もやっと悟ったのである。
自分を信じ送り出してくれた玄武――、どんなことがあってもその信頼を裏切ることはできない……。竜の中にあるのはその思い一つだった。
「此度の奥州下向は、その玄武の頭に自ら強く乞(こ)い願い、その許しを得た上でのこと……。ならば、吉次の頭に従い平泉に参るのが、まずは成し遂げねばならぬ役目――。それを全うせねば人の道に背くことになります!」
そう答えた竜の双眸(そうぼう)は、頑ななまでの強い意志に溢れていた。
揺ぎ無き信念――、義仲は今、それをまざまざと見せつけられたような気がしていた。渾身(こんしん)を込めた鉄槌(てっつい)をも跳ね返す、鋼のように強靭(きょうじん)な壁がそこにあった。
その意志は何人たりとも曲げることはできまい……、ついには義仲もそう悟るよりほかなかった。
義仲は深いため息をつき、それにつれて厳しい表情も、あたかも緊張の糸がほどけるように穏やかになっていた。
「うらやましいのう……。これほどまでに義に厚い者が、我が郎党に果たして幾人(いくたり)いようか……」
小さくつぶやいて、そばに控える兼平を見遣った。
「わしとて、この兼平が他家へ仕えるなどと申さば、それこそ黙ってはおれぬであろうな……」
「何を仰せになりますのか! 某が他家へ仕えるなどと!」
兼平は血相を変えて突っかかった。
「例えばの話だ! 何も本気で申したのではない……」
「当り前にござります! 冗談でもそのようなことを口にされるのは心外! この兼平は、死出の旅路までもお供つかまつる覚悟にござりますぞ!」
「ようわかっておる……」
義仲は苦笑を浮かべながら兼平を宥(なだ)めた。
「竜……、おまえがそれほどまでに心酔する玄武とか申す男――。一度会うてみたいものだ……」
そう言って向けられた瞳は、小さな命をいとおしみ、初音を労わっていた、あの心優しき武人のものだった。
「武者にとって、引き際もまた肝要――。これ以上は言うまいぞ。おまえの好きに致せ。平泉でも、どこへでも参るがよい……」
ほんの少しの未練ものぞかせつつ、笑ってそう告げた義仲に、竜は安堵の思いで深々と頭を下げた。
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