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暮れかけた夜空に一番星が瞬くのを九郎は河原の土手に寝転がって眺めていた。
後を追って来た竜も目聡くそれを見つけて静かに歩み寄った。
「説教なら聞かぬぞ!」
未だ腹立ちの収まらぬ様子の九郎に、竜は黙って隣に腰を下ろすと、同じように空を見上げた。
涼やかな川風が頬を撫でて行く。夕暮れ時の静けさの中で、川の音ばかりがやけに耳に付いた。
竜は何も聞かず、何も語ろうとはしない。が、こうして二人して風に吹かれていると、竜の穏やかで温かな心が自らの内にも流れ込み、どんどん優しい気持ちで満たされて行くような……、そんな得も言われぬ心地良さに、いつしか九郎も平静さを取り戻していた。
「わかっておるのだ……。母上がいかなる思いでおられるのか……」
寝転がったまま、九郎は小さくつぶやいた。
「九郎殿は御心のお優しい方なれば……」
ようやく口を開いた竜に、九郎は思わず跳ね起きた。
「……優しい? 私がか?」
そう言って真摯(しんし)に見つめ返す九郎に、竜はそっとうなずいた。
「なれど、その優しさをうまく伝えることができない……。大そうな意地っ張りでもおわしますからな……」
「大きなお世話だ!」
竜のからかうような言い様に、九郎は頬を膨らませて顔を背けた。しかし、そんな聞かん気な所がまた、いとおしくも思われる。
「思うことは……、言葉で伝えなければわかってもらえぬ時とてありまする」
「……」
「昔、筑紫に流れ着いてすぐの頃……、言葉がわからず、その上この風貌(ふうぼう)なれば……、人からひどく気味悪がられて、いろいろなことがございました。それこそ盗みの疑いをかけられて、半殺しの目に遭ったことも……」
九郎には信じ難いことだった。この竜を気味悪がるなどとは……。
「その時、助けてくれた人から、まず最初に言われたことに、早く言葉を憶えて心に思うことを伝えられるようになれと……。そうすれば、いつかきっと、みんなも俺のことをわかってくれるようになると……」
「……」
「九郎殿も、もっと心の内を人にお見せになればよろしかろうに……。強さも弱さも……」
「人に弱さを見せるなど、ものゝふの恥じゃ! それを人目にさらしてまで人にわかってもらおうとは思わぬ!」
ものゝふの誇り―― 未だ稚(いとけな)さを残す九郎の中にも、それだけは既にはっきりと根付いていた。そのことが、ふと京の重衡を思い起こさせた。
永遠なる友情を誓い合った二人を引き裂いたのもまた、その立場ゆえのしがらみではなかったか……。ならば、いずれこの九郎とも……、そんな思いが竜の脳裏をかすめずにはいられなかった。
「ものゝふたるもの、人に弱味を見せるは己の負けを認めることになる。そのようなことなど断じてできぬ!」
きっぱりと言い切った九郎に、竜は少し眉をひそめた。
「いったい何に負けると申されますのか?」
不意に問われて、九郎は咄嗟に答えることができず急に黙り込んだ。
「俺は弱さを見せることが、必ずしも負けとは思わない……」
「竜……」
「俺は九郎殿の考えていることを、少しでもわかりたいと思っている。それは、九郎殿が飾らぬ素直な心を俺に見せてくれたから……。そうでなければ、多分、こんな気持ちにはならなかったろう……」
「……」
「心の内を見せねば、とても相手の信頼など得られはしない。何のために平泉に参られたのか……、その真意がわからぬうちは、御館殿とて九郎殿を受け入れることなどできますまい」
「お目通りすら許しては下さらぬでは、どうにもならぬではないか! お会い下さりさえすれば、必ずや御納得いただけように……」
九郎はそのもどかしい思いを隠そうとはしなかった。
「御館殿は……、九郎殿のことを怖れられている」
「……私を怖れる?」
九郎は瞠目(どうもく)した。
「それが何ゆえか……、おわかりか?」
「……」
「強さばかりを見せておられた鞍馬での風評――。それを頼りに思い描く他ない九郎殿の幻影に、怯(おび)えておられるのでござります。それも道理――、真の九郎殿がそのようなお方でないことは、直に会うて話をした者にしかわかりはしませぬ……」
「……」
「真は心の底でどれほど御母上を大事に思うておられるか……。それをよく知る鬼若や我らであれば、先ほどのお言葉も他意のないことと、取り立てて気にも止めはしませぬ。しかし、あれを他の者が聞けば何と思いましょうな……」
九郎はギクリとした。己の発言を他人がどう思うか……。これまで、そんなことなど考えたこともない。
「言葉とは難しいものにござります。時に、心で悔しがりながら『嬉しい』と口にし、またある時は、喜びながら怒りを叩きつけることもある。その裏に潜む本心をどこかで察して欲しいと願いながら……」
「……」
「九郎殿の本心はどこにござりますのか?」
真っ直ぐに見つめる竜の瞳から、九郎は思わず顔を背けた。
「御母上のことをどう思うておられるのか?」
その穏やかな声音に、九郎の心に張りめぐらされた結界もあっけなく突き崩されていた。
「……お会いしたい」
顔を上げたその目には見る間に涙があふれ、止めどなく頬をつたった。九郎はたまらず竜の胸に顔をうずめ、声を上げて泣いた。
母と引き離されて早八年近い月日が流れていた。これまで押し隠してきた恋慕の情が堰(せき)を切ったようにあふれ出す。竜の胸の温かさが、別れの朝に、強く胸に掻い抱かれたあの温もりを九郎に思い出させた。
(なぜ、おそばにおいて下されぬのか? 何ゆえ、鞍馬の寺になど遣っておしまいになるのか?)
いったい何度問うたことか……。しかし、その度に母はただ涙に咽(むせ)ぶばかりだった。
(母上は牛若をお捨てになるのか!)
幼さとは時に残酷である。母の苦しみなどまるで知りもせずに吐いた恨み言だった。それでも、母は言い訳一つすることなく、替わりに黙って自分を強く胸に抱いた。その温もりに、幼心にも確かな母の愛を感じ取ってもいた。だからこそ、理不尽な別離を強いられても、それに抗おうとはしない母を恨みにも思ったのだった。
あの時以来、ずっと母に背を向け続けて来た。幾度か送られて来た便りも、封を開けることなく突き返した。自分には母などいないと……、そう何度も心に言い聞かせて……。そうでなければ、あまりの淋しさに挫(くじ)けてしまいそうだった。九郎にとって、その意地だけが孤独の日々を生き抜くためのただ一つの拠り所だったのである。
しかしながら、子供心というものは時に不可解な行動も取らせた。あれほど心に固く誓っていながら、気づけば足は母の館へと向いていた。
(一目なりとお姿が見たい……、一言なりとお声が聞きたい……)
憎いと何度も口にしながら、実の所、その心はいつも母を求めていた。
(捨てられたなどとなぜ思ったのか……。母上の御心をどうして疑ったりしたのか……)
分別のつく年頃となった今なら、あの時の母の悲しみが、少しはわかるような気がした。
我が身に変えても、子の命を救いたいという母の一念――。
木曽で自分をかばい瀕死に陥った竜を、九郎もまた、己の命を引き換えにしても助けたいと願った。それと何一つ変らぬことと、今さらながらようやく悟らされた思いだった。
「母上は九郎の宝じゃ……。いつの日かお会いすることが叶うなら、その時は何としても、この九郎に生きる道を与えて下された、その礼を申し上げたい……」
「九郎殿……」
「生きておればこそ、こうしておまえにも出会うことができた。何の恨みがあろうか……」
ばつが悪そうに涙の跡を何度も拭(ぬぐ)う九郎に、竜は安堵の思いを抱きつつ無言でうなずいた。
「竜、おまえには礼を申さねばならぬな」
唐突な九郎の言葉に、竜は怪訝に見つめ返す。
「おまえには、いつも希望を与えられてばかりだ。今の私がこうしていられるのも、全ておまえのおかげだ……。もし、吉次の一行の中におまえがおらねば、この平泉にたどり着けたかどうかもわからぬ。木曽では命を助けられ、心沈む時にもおまえの言葉に幾度も励まされた……。おまえに出会えて真によかった……。それだけでも、この平泉を目指した甲斐があったというものだ……」
「九郎殿……」
竜もまた感無量だった。
「鞍馬にいた頃は、誰一人として信じることはできなかった。優しい言葉を真に受ければ、知らぬ間に僧形の身にされてしまうやもしれぬ、決して心を許してはならぬと、いつも心の中に隙間無く楯(たて)を張りめぐらせて……。思えば、自ら孤独の淵に追い遣っていたようなものだ」
「……」
「それが……、おまえと出会って私は変わった。おまえの前では不思議と素直になれるのだ。心に張りめぐらせた楯を取り払うこともできる。誰かをこれほどまでに信じられるようになるとは……。こんな思いは生まれて初めてじゃ。今では人を疑い続けて生きるより、人を信じて騙される方がまだ救われると……、そう思えるほどだ」
この時、竜の表情にわずかながら影のさしたことに九郎は気づかなかった。
「竜……、これからも私に力を貸してくれ。己の行くべき道を見つけ、一人で歩いて行けるようになるまで……。それまでこの九郎の手を離さぬと……、約束してくれ」
その一途なまでの願いにも、竜はなぜかうなずくことをためらった。
「おまえがそばにおれば、どんなに不可能と思えることであっても、必ずや成し遂げられるような気がするのだ」
心よりの信頼を示す九郎の言葉をこの上も無く嬉しく思いながら、一方で、そこはかともない不安めいた思いが頭をもたげ、竜は否(いな)とも応とも答えることができなかった。
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