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「いかがしたのだ?」
その夜、皆が寝静まった後も、一人濡れ縁に腰を下ろし、晧々(こうこう)と照り冴える月をぼんやりと眺めていた竜を見つけて、吉次は訝(いぶか)しげに声をかけた。
「眠れぬのか?」
吉次は瓶子を手に、竜の傍らに腰を下ろすと、
「どうも一杯やりたい気分でな……。おまえもつき合え」
そう言って、かわらけに酒を注ぎ入れて竜の前に差し出した。
「なあ、吉次……」
吉次は構わずもう一つのかわらけに酒を注ぐ。
「九郎殿を平泉まで連れて来て、本当に良かったのだろうか……」
「……何だ? 藪から棒に……」
笑いながら吉次は一気に飲み干した。
「俺は……、結局自分のことしか考えてなかったのかもしれない……」
吉次は黙って二杯目を注ぎ入れる。
「九郎殿のためと、これまでずっとそう思って来た……。けど、心のどこかで俺は……」
「京の重衡殿の身代わりにしようとしていた……か?」
あっさりと口にしてのけた吉次に、竜は衝撃のあまり声も出なかった。
「平家の御曹司とその平家に滅ぼされた源氏の御曹司――。互いを敵とする間柄ながら、あの二人にはどこかしら似た所がある……。おまえを生涯の友と公言して憚(はばか)らぬ所など、真にそっくりだ……」
そう言って笑う吉次にも、竜はたまらずうなだれた。
「俺はずるいよな……。自分の心の淋しさを紛らすために九郎殿を利用している……」
「そうだな……。けど、俺はそれでもいいと思っていたが……」
吉次は淡々と続けた。
「おまえに重衡殿を忘れられるはずがない。男と女の繋がりよりもっと強い絆で結ばれているからな……。友情とかいう厄介な代物だ……」
「……」
「恋は一度切れてしまえば、大抵はまあそれまでだが……、友情というやつは切れたようでいて、その実どこかで繋がったままだ……。多分死ぬまで……、いや、死んでも切れることはないんだろうな……」
「吉次……」
「俺と玄武を見てみろ。何十年にも及ぶ腐れ縁が未だに続いてやがる……。諍(いさか)いも数え切れぬぐらいしてきた。だが、それでも、どこかで互いを信じる心を持ち続けている……」
いつも好き勝手なことを言い合っていた玄武と吉次――、その二人の遣り取りが目に浮かんだ。しかし、どんなに口汚く罵(ののし)り合おうと、不思議とそれを不安に感じることはなかった。今の吉次の言葉に、二人の間に横たわる深く強い絆――、それがあったればこそのことと竜にも得心がいった。
「あいつがいたから今の俺がある……。玄武に負けてなるものか……、その思いが俺をいつも奮い立たせる……。もし、あいつを失ったら……、きっと俺は腑抜(ふぬ)けになっちまうだろうな……」
しみじみと語る吉次のその思いは、竜にもよくわかるような気がした。
「おまえにとっても、あの御方はそういう存在ではないのか?」
「……」
「重衡殿という御方も、あの平家一門にあっては少々変わっておられる……。いや、ただ一人まともな御仁(ごじん)と言うべきやもしれぬが……」
「……」
「嘘のない御方だ。むしろ、あまりに思うことを正直に口になさるゆえ、おまえとの間にも心の行き違いができた……。心底憎いと思うてのことではないだろう」
「……」
「おまえとてそれはよくわかっているはずだ。そんな重衡殿のことを忘れられぬのも無理からぬこと……」
吉次の言は一々図星を突いていて、竜は居たたまれない思いだった。
「もし、先に九郎殿に出会っていたら……、こんな後ろ暗い思いを抱くことはなかったのだろうか……」
「……」
「木曽で死線をさまよっていた頃、俺は朦朧とした意識の中で、一瞬だが九郎殿の中に重衡殿を見た。そして、今日もまた、九郎殿を前にしていながら、無意識の内に重衡殿の影を重ね見ていた。それでも、九郎殿にそのことを悟られてはならないと……、必死で自分の心をごまかして……」
「……」
「九郎殿は何においてもひたむきな御方だ……。いつでも、一途に全力で向かって来られる。なのに俺は……、それを真正面から受け止め切れない……。どこかでいつも重衡殿に繋がる逃げ道を用意している……」
吉次は何とも言わず、ただ黙って聞き入っている。
「結局、俺は九郎殿の心を弄(もてあそ)び、ただ振り回しているだけなのかもしれない……」
そもそも、嫌がる吉次を説き伏せて九郎を同行させたのは、他でもない自分ではなかったか。もし、あの時、余計なことを言わなければ、九郎も途中で諦め、大事になる前に鞍馬に戻ったかもしれない……。
己の一言が、かえって後戻りの出来ない袋小路に追い詰めたのではないか……、そう思うと、空恐ろしい気さえした。
「俺は、九郎殿から頼りにされていることが心地良くて……、それを失うことが怖くて……、だから、ここまで連れて来てしまったに過ぎない。あの御方にとって、それが真に良いことかどうかなど少しも考えず……。ただ俺自身の淋しさを紛らせるためだけに……」
九郎に対する後ろめたさ、その呵責(かしゃく)の念に竜の心は思い乱れるばかりであった。
「人はきれい事だけでは生きては行けぬ……。そこに、何がしかの打算があったとしても仕方のないことだ……」
それまで聞き役に徹していた吉次がふと口を挟んだ
「心ならずも重衡殿と袂(たもと)を分かったおまえと、親と引き離され孤独の日々を送って来られた九郎殿――。どちらにとっても、その心に空いた穴を埋めるには互いが必要だったのではないのか?」
そう言ってなだめる吉次の眼差しは、いつになく温かい。
「けど、それでは九郎殿が……、俺のために進むべき道を誤ることになるかもしれない……」
「……」
「鞍馬で心静かな日々を送られる方が、あの方にとっても幸せだったのかもしれない……。なのに、俺が余計なことを申したばかりに、今また御館殿に受け入れてもらえぬ苦境に思い悩まれて……」
「竜……」
「もし、俺と出会ったがためにその運命すらも変わってしまったとしたら……。俺が良かれと思ってしたことも戻る道を失わせ、取り返しのつかぬ事態に追い込んでいるのではないのか……」
怒涛のように押し寄せる不安の渦に飲み込まれ、竜はいつしか我を失いかけていた。
「このままでは……、他ならぬ俺が九郎殿を滅ぼすことになるやもしれぬ!」
いつにない竜の激しい取り乱し様に、吉次は慌ててその肩を両手でがっしりとつかんだ。
「竜! 落ち着け!」
吉次は呆然とする竜の目をしかと見据えた。
「おまえに何の咎(とが)がある!」
「……」
「九郎殿とていつまでも子供ではないのだぞ! 元服なされたからにはもはや一人前の武者。己の事は己自身で決めねばならぬのだ。いくらおまえがいらぬ入れ知恵をして進むべき道を誤ろうと、それもまた己が心の弱さゆえのこと……。決めた九郎殿御自身の責任に他ならぬ」
吉次は声を押し殺しつつも、叱り付けるように鋭く言い放った。その圧倒されるばかりの勢いに、竜の乱れた心も少しは落ち着きを取り戻した。
「もし、仮に動乱の世となるなら、元より九郎殿にその渦から逃れるすべなどありはせぬ。それは鞍馬にあろうとこの平泉にあろうとさしたる変わりもない。源氏の嫡流たる血筋が、そこから目を背けることを良しとせぬのだ。だからこそ、これまで頑なに出家を拒み続けて来られたのではないか……」
「……」
「あの方は平泉にやって来られていた。おまえがいようといまいと……」
「……」
「実を申せば俺も迷っていたのだ……。確かにおまえが俺の背を押した。だが、長い旅の道中には遅かれ早かれ、九郎殿を突き放してはおれなくなっていただろう……。おまえのしたことは、ほんの少しその時を早めただけのことだ」
それは吉次の偽らざる本心だった。竜の一言も所詮きっかけに過ぎない。
要は己自身の下した決断――。九郎義経という人間には、それほど人を惹きつけて止まない……、そういった天性のものがあるのかもしれないと改めて思い返していた。
「そもそも、あの九郎殿が簡単に諦めるはずがない。放っておいても、必ずや平泉まで来られていたに違いない」
「吉次……」
「人の生き方も性分も、そう易々と変えられるものではない。何でも己のせいと思うのはとんだ思い上がりだぞ!」
「……」
「玄武なら……、きっとそう言うと思うがな……」
とつぶやいて、吉次もふと照れ笑いを見せた。
(何もかも一人で背負い込もうとするな……。おまえの悪い癖だぞ!)
竜もまた、玄武の叱咤(しった)を聞いたような気がした。
「さあ、もう夜もふけた……。思い悩むのは明日にしたらどうだ? 俺も何だか疲れた……。今日は何とも長い一日だったからな……」
そう言って欠伸(あくび)をする吉次につられるように、竜の中の張り詰めた糸もふいに撓(たわ)んだ。
「今夜のところはこいつを飲んでさっさと寝ろ。明日はまた朝が早いからな……」
竜は静かにうなずくと、かわらけを満たす濁酒を一気に飲み干した。
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