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その日、竜が伽羅ノ御所を後にしたのは、既に日も暮れかけた時分のことであった。
思いがけずも秀衡・泰衡・国衡の父子三人がそれぞれに抱える苦悶に触れることとなり、竜の心はすっかり疲れ果てていた。
とりわけ、国衡と泰衡の異母兄弟の間に横たわる葛藤の根の深さが、胸の中になおわだかまっていた。
国衡の本心が決して従順でないことは察するに余りあった。
それだけに、今は己の立場をわきまえ表立って事を構えることはなくとも、いつの日かその積もりに積もった鬱屈が暴発する日が来るのではないか……、そんな漠然とした不安も抱かずにはいられなかった。
果たして御館(みたち)―秀衡はそのことに気づいているのか……。
考えるほどに、竜の心は重く沈むばかりであった。
「竜!」
長い黙考(もっこう)に終止符を打たせたのは、予期せぬ九郎の声であった。
「随分と遅かったではないか……」
「……九郎殿が何ゆえこのような所に?」
驚く竜に、九郎は少しはにかみながら、
「おまえの帰りを待ち切れず、こうして迎えに参ったのだ」
と答えて目を輝かせた。それを見て、竜の疲労感も一気にその度合いを増した。
「御館は何と仰せであった? お許しは出たか?」
忘れていたわけではない……。
だが、今日のところは、それをうまく切り出す時機を見出すことはできなかった……。
いくら秀衡が自分に好意を示しているとはいえ、無理に訴え続ければかえって逆効果になる……、竜は持ち前の勘でいち早くそう察知していた。
なれば、いかに数少ない好機をものにするか……。
それには、相応の時間がかかるのもやむを得ずとの覚悟もしていたのだが……。
しかしながら、当の九郎にしてみれば、とにもかくにも一日も早い対面を……、その思い一つしかない。竜としても、そうした一途な願いを知らぬわけではないだけに、ここは思案に暮れて黙り込むほかなかった。
「そうか……。駄目であったか……」
竜の困惑する表情を見て、九郎もすぐに事の次第を悟った。
「まあ、よい。明日に楽しみが延びたと思えば、造作(ぞうさ)も無いことだ……」
意外なほど平然と答える九郎が、かえっていじらしくも思われる。
「そのような顔を致すな。もはや何があっても動じはせぬ。なるようにしかならぬ……、一度そう腹を括(くく)ってしまえばいくらか気も楽になった……」
「九郎殿……」
「それに、吉次の宿での暮らしにも何ら不足はない。いつまでもこのままというわけには参らぬが、今は焦っても仕方あるまい……」
そう口にすることで、自らにもまた強く言い聞かせている九郎に、竜は思わず目を細めた。
よく見れば、始めは初々しいばかりだった烏帽子姿も、今では中々板についたふうでもある。
(こうして人は変わって行くものなのか……)
三年前の京・五条の橋に始まり、鏡の宿での再会、苦楽を共にした旅の道中、そして元服……。
来(こ)し方を振り返るにつけ、竜も深い感慨を覚えずにはいられなかった。
「いかがしたのだ? 急にそのように黙りこくって……」
怪訝に尋ねる声に、つと我に返った竜は小さく首を振りながら、
「いえ……、九郎殿も随分と大人になられたものと……、さよう感心しておったのでございます」
と答えて莞爾(かんじ)と微笑んだ。
「何かと思えばそのようにわかりきったことを……。この九郎はれっきとした大人ぞ! 既に元服も済ませておるのだからな。いい加減、子供扱いをするのはやめてもらいたいものだ!」
竜の向ける穏やかな眼差しに、いつになく気恥ずかしいものも感じて、九郎はわざと膨れて見せた。
「そのお心掛けがいつまでも続きますならば……」
「……申したな!」
二人は顔を見合わせ笑い合った。
「竜……」
「……何か?」
九郎は一旦口を開きかけたものの、なぜか急につぐみ、
「いや……、何でもない。そろそろ帰るといたそう……」
と言って、そそくさと先に歩き出した。竜は少し訝(いぶか)りながらも黙ってそれに従う。
宿へと戻るその道すがら、竜は絶えず背中に何かが負ぶさっているような、そんな重苦しさを覚えていた。あるいは、これも九郎の思いに何の力添えもできなかった後ろめたさのせいか……。
しかし、時を追うごとにその重みが増して行くような違和感に、どうにも気になっておもむろに後ろを振り返って見た。が、取り立てて何も変わった様子はない。
「竜?」
聡く気づいた九郎に、竜は微苦笑を浮かべながら、
「いえ……、何でもござりませぬ」
そう答えて、今度は自分から九郎を促し歩き出そうとした。
と、その時、突如として二人の前に立ちはだかる者があった。
「殿!」
雄叫(おた)びにも似た野太い声に、九郎も竜も咄嗟(とっさ)に身構えた。
「鬼若、いかがしたのだ!」
「どうしたも、こうしたもありませぬぞ! いつの間にやらお姿が見えなくなり、どれほど案じておりましたことやら……。不慣れな土地ゆえどこぞで迷われたのではないかと……、それはもう気が気ではのうて……」
鬼若の大仰な言い様に九郎はムッとした。
「おまえまでこの九郎を子供と思うてか! 迷子になどなりはせぬぞ!」
横を向いて頬を膨らませる九郎に、鬼若はばつが悪そうに頭を掻き、竜も小さく笑った。
「さあ、帰るぞ! 腹が減った!」
九郎はすっかりふて腐れた様子で、一人で先にずんずん歩いて行く。
「どうやら、首尾よういかなんだようじゃのう……」
一転、真顔で向き直った鬼若に、竜も神妙にうなずいた。
「何と申しても相手は北国の王。容易(たやす)く折れるような御仁(ごじん)では、かえって頼りにできぬ気も致すしのう……」
「……」
「しかし、殿のご辛抱とてどこまで続くものか……。おぬしの手前、精一杯背伸びなさっておられるようじゃが、元がそう気の長いご気性でもないゆえな……。癇癪(かんしゃく)でも起こされた日には、こちらがたまったものではない……」
ふうっとため息をつく鬼若の傍らで、竜は返す言葉もなかった。
「まあ、これも修行の一つということか……。かくなる上は、どうにも殿のご機嫌を取り結び、ここぞという時機をひたすら待つ……。何とも七面倒(しちめんどう)臭い話じゃが、それしか手立てがないとなれば致し方あるまいな……」
半ば諦めの境地でつぶやいて、鬼若は肩を落としうなだれた。
「二人とも何をしておるのだ! 早う参らぬか!」
遥か先より苛立たしげに叫ぶ九郎に、竜はともかく鬼若を促して歩き出した。
と、その直後に、ドサッという鈍い音が耳に入った。反射的に振り返ると、何者かがうつ伏せに倒れており、竜はすぐさま歩み寄った。
「いかがした?」
鬼若もこれに続く。さらには、いつまでも追いついて来ない二人に業を煮やして九郎も戻って来た。
「いったい何をしておるのだ!」
竜は行き倒れた男を抱き起こして目を見張った。
確かに見覚えのある顔――、それは舞草(もくさ)で出会ったあの柾房(まさふさ)であった。
「何じゃ? いやに酒臭いのう……」
柾房は泥酔していて正体も無い。
「こんなになるまで飲むなど……、酒の飲み方を知らぬやつだ」
呆れて言い捨てる鬼若を横目に、竜は柾房を抱えてすっくと立ち上がろうとした。
「おい、いかがするつもりだ?」
一瞬よろめきかけた竜を、鬼若が慌てて支えた。
「宿へ連れて帰る」
「連れて帰るって……、こやつは知り人か?」
鬼若は当惑の目で竜を見返す。
「こんな酔っ払い、捨て置けばよいのだ。酔いが覚めれば直(じき)に家へ戻るだろう」
その九郎の言葉も皆まで聞かず、竜は柾房を肩に担いで歩き出していた。
「竜……」
九郎はしばし呆然とした面持ちでそれを眺めていたが、やがて鬼若を促し、二人して後を追った。
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