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何事もなく早三月余りが経とうとしていた。無論、九郎の秀衡との対面も、未だ叶わぬままであった。
すっかり秋めいて、連なる山々を見事に染め上げて行く紅葉のように、九郎の焦りの色も日一日と濃くなるばかりだった。
(いつまで待てばよいのか……)
何の策も立てられぬまま、無為に時ばかりが過ぎて行く。それでも、必死に耐え忍んでいる九郎の姿を見るにつけ、鬼若は秀衡に対する深い憤りを覚え、竜もまた己の無力さを改めて思い知らされていた。
元より自信があったわけではないが、北国の王者の壁はどうにも突き崩すことができない。何かにつけ言葉巧みに交わす老獪(ろうかい)さの前には、竜ももはや打つべき手駒を失っていた。せめてもの救いは、未だ正式な退去命令が出ていないことであろう。瀬戸際まで追い詰められながらも、どこかまだわずかに余裕のようなものを感じられたのは、そのせいに他ならなかった。
ところで、そうした中にあって、もう一人の居候(いそうろう)――柾房(まさふさ)は日々懸命に働いていた。
正体不明に酔いつぶれていたのを竜が連れ帰って以来、すっかり宿に居ついてしまったのである。と言っても、それまでの放蕩ぶりはどこへやら、駄馬の世話から、奥州各地より毎日のように届く品の揚げ降ろし、宿の雑用まで嫌な顔一つせずこなしていた。
「それにしても、柾房がこれほど役に立つとは……。案外、刀鍛冶よりも商いに向いておるのやもしれぬな」
吉次の方もまんざらでもない様子だった。あの夜、連れ帰った竜に「又も余計な厄介事が増えた!」と恨めしげに愚痴をこぼしていたのが嘘のようである。
実際、近頃の柾房は活力にあふれ、初めて舞草で会った折に垣間見られた心の翳(かげ)りも、すっかり鳴りを潜めているふうだった。
しかし、一人になると途端に、何かひどく考え込むような素振りをするのを竜も何度か見掛けるにつけ、その心に今なお残る傷の深さを感じてもいた。
「おい、手でも切るつもりか?」
薪(まき)割りの鉈(なた)を手にしたまま物思いにふける柾房に、竜は思わず声をかけた。
「……えっ?」
呆けたままの柾房の手から、竜は強引に鉈を奪い取った。
「考え事をするなら、こういうものは手にしないことだな」
「……」
「危なっかしくて、とても見てはいられぬ……」
竜はそう言いながら柾房を脇に追いやると、代って薪を割り始めた。それを柾房はまだぼんやりとした目で眺めていた。
「なあ、竜……」
「……」
「あの時……、どうして俺を拾ってくれたのだ?」
ぽつりとぽつりとつぶやく柾房にも、竜は手を休めることなく黙々と薪を割り続ける。
「九郎殿が前に言っていた。あんたが連れて帰ると言い張ったんだって……」
竜は柾房の問いに答えるでもなく、割った薪を拾い集め、手際よく束ね始めた。
「あの時はその……、ひどく酔っ払っていてまるで何も覚えてないのだが……、迷惑をかけてすまなかった……」
柾房は神妙に頭を下げた。
「別に俺なんかに謝ることはない」
竜はおもむろに立ち上がると、柾房と向き合った。
「それより、これからどうするつもりだ?」
竜の問い掛けに、柾房は再びうつむいた。
「いつまでも、こんなことをしているわけにはいかないだろう……」
「……」
「舞草(もくさ)に戻る気はないのか?」
「二度と戻らん! 刀など見たくもない!」
柾房は何かに怯(おび)えるように、肩を震わせながら何度も首を横に振った。
「これまで誠心込めて打ち込んで来たことを、そんな簡単に放り出せるものか?」
「俺の打つ太刀がいつかどこかで誰かの命を奪う……。そんなことを考えたら……、とても耐えられぬ!」
「……」
「この手が人殺しをしているのと同じことではないか! 太刀さえなければ死なずにすむ命が……」
「だが、太刀があったればこそ、助かる命もある……」
竜に見据えられて、柾房は憮然とした。
「御館殿が仰せだった。人は争いをやめることはできぬ……。だからこそ、身を守るすべとしても太刀は必要なのだと……」
「そのように簡単に割り切れるものではない!」
柾房は声を荒げて憤慨した。
「そうだな……。俺だってそう思っていた……。いや、今でも……」
あっさりと矛(ほこ)を収めた竜に、柾房は少しばかり拍子抜けした。
「柾房はこれまで何を思って刀を打って来たのだ?」
ふいに問われて、柾房は咄嗟に答えを返せなかった。
「舞草へ参った時、森房殿の打った太刀を見せてもらった。見事なものだった……。だが、あれを見て誰しもが人の命を奪おうと思うだろうか?」
「それは……」
「俺には眩(まぶ)しくて神々(こうごう)しくて……、とてもそんな気にはなれなかった。むしろ、血で汚すことの方が恐れ多いとさえ感じられた……」
「……」
「だが、それに引き換え、柾房の太刀は人を殺(あや)めることを怖れながらも血の臭いがした。太刀は人斬りの道具だと……、そう訴えかけられているようだった。あれを手にした者は人の命を奪わずにはいられぬと思われたほどだ……」
柾房自身にもつかみきれなかったその荒涼たる心――。それを己の打った太刀から読み取ったという竜の心眼に、ただただ驚愕するばかりだった。
「刀はそれを打つ者の心をそのままに映し出す。迷えば必ずそれも表れる……。今の迷いを振り捨てられぬ限り、これ以上、柾房に太刀を打ってもらいたくはない。この世に争いの種を増やすばかりだ……」
「……」
「刀鍛冶の誇りもなく、むしろ貶(おとし)めるような心で良き太刀が打てるはずもない。きっぱりと辞めてしまうことだな」
竜の浴びせる辛辣(しんらつ)な言葉に、柾房は何一つ反論することができなかった。
「他にいくらでも生きる道はある。好きなだけ悩んで探し出せばいいことだ……」
「……」
「人は道を選ぶことができる。たとえ、一度はこうと決めて選んだ道でも、間違いだと気づけばそこからまた選び直せばよいのだ。間違いに気づきながら、己の心を偽り続けることの方がずっと愚かだからな……」
竜はそれだけ言うと、また自分の持ち場へと戻って行った。
一人残されて、柾房は立ち尽くした。竜の一言一言が心に深く突き刺さっていた。
(このままでいいはずはないよな……)
柾房とてそれはよくわかっていた。酒浸りの毎日からも足を洗い、ここでの暮らしに新しい生き方を見出そうと懸命にやって来たつもりだった。しかし、それも単なるまやかしでしかなかったことを、竜の目はいとも容易く見抜いていた。
「少しはこたえたか?」
いつの間に現れたのか……、振り返ると九郎がそこに立っていた。
「竜は時々、人を傷つけることでも平気で申す……。太刀を打つなとは今のおまえに酷(こく)なことを……」
「どうせやめるつもりだったのだ。はっきりと言われて、かえってすっきりした!」
「そうか?」
九郎の向ける興味本位の眼差しに、柾房はその心の動揺を隠せなかった。
「竜にはおまえの考えていることなど全てお見通しだ。心の底ではどれほど刀を打ちたいと望んでいるかも……」
「そのようなことはない!」
柾房のうろたえようを楽しむかのように、九郎は涼やかな笑顔を向けた。
「隠しても無駄だ。この九郎でさえようわかる。そこの鉈を握りながら、ぼうっとしていたのが何よりの証拠であろうが……」
図星を指されて、柾房は思わず顔をしかめた。
「竜の言葉には不思議な力がある。己自身でも気づかなかったその内なる真実――。それを嫌と言う程思い知らされる……」
「……内なる真実?」
尋ね返した柾房に、九郎はしかとうなずいた。
「一度それが表に現れれば、もはや隠すことなどできぬ……。いかに恰好の悪いことであろうとも、それを認めるより他ないのだ」
「……」
「刀を打ちたいのなら、なりふり構わずその道を行けばよい。さもなくば、一生後悔して日を過ごすことになるからな」
九郎の言葉の一つ一つに、柾房は心の中で神妙にうなずいた。
鍛冶場を離れてもうかれこれ四月にもなる。それでも、今も鉈を握りながら、無意識の内に槌(つち)を振るう己が姿を思い浮かべていた。
未だ捨て切れぬ刀工への未練――。頭でいくら否定しても、身体はそれを求めて止まない。
さりとて、その一歩を踏み出せば、再びあの地獄のような苦悶の中に立ち戻ることになる。寝ても覚めても頭から離れない悪夢にさいなまれ続けた日々を思い返すと、どうにも足がすくむのだった。
「いっそのこと、おまえのその未練を断ち切る刀でも打ってみるか?」
九郎は柾房の葛藤を見透かしたように何気なく口にした。
「さすれば、いくらでも新しい生き方を探すこともできよう……」
途方もない考えだった。しかし、柾房は雷に打たれたような強い衝撃に襲われていた。
「太刀の鋭い切っ先で、恨みの心も断ち切れればよいのにな……。心を縛り付ける業(ごう)の糸を絶つことができれば、人はもっと自由に生きられるであろうに……」
そう語る九郎はあくまでも真顔だった。
(業を絶つ……か)
この時、柾房は何かを見つけたと思った。
深く暗い闇の世界にわずかに差し込んだ一筋の光――。その先に待ち構えるものが何であれ、今は只、それを頼りに進むしかない……。藁(わら)をも縋(すが)る思いで、柾房はそれに賭けてみようと己を奮い立たせていた。
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