|
竜が伽羅ノ御所に赴いた同じ日、吉次もまた、ある思いを胸に衣川館(ころもがわのたち)を訪ねていた。
「大殿にはご機嫌うるわしゅう……」
吉次が『大殿』と呼びかける相手は先の陸奥守藤原基成(もとなり)。
平泉の御館藤原秀衡には舅、嫡子泰衡には実の祖父に当たる人物である。
「あまり機嫌はようないぞ……。次から次へと厄介事ばかり……。全くもって頭の痛いことよ……」
「はあ……」
どこか恨めしげな顔をする基成にも、吉次は『またいつものこと……』と気に留める様子もなくこれを受け流した。
「して、例の九郎某(なにがし)とやらは……、大人しゅうしておるのであろうな」
一つ大きくため息をついた後、基成は容(かたち)を改め吉次に尋ねた。
「今のところは……、『御館との対面が叶うまでは』と忍の一字で日々をお過ごしにござります。なれど、平泉入りしてより既に三月余り……、そろそろ痺(しび)れの切れる頃合いでもあろうかと少々気がかりではありますが……」
「今しばらくの辛抱じゃ。方々に手を尽くし、今少し確かな筋からの要請を受けられるよう働きかけておる。間ものうその返事も来ようほどに……。それまではくれぐれも下手な動きはなさらぬよう、その方からもよくよく釘を刺しておけ。御館は一旦へそを曲げてしまわれると、もはやわしにも手に負えぬようになるゆえな……」
「は、仰せの通りに……」
吉次もここは神妙に頭(こうべ)を垂れた。
「それにしても……、たかだか一条大蔵卿ごときからの文一つで、平泉の御館の了解を取り付けられようとお考えとは……、我らも随分と見くびられたものよ。いかに京より遠く離れておるとは申せ、平家に仇(あだ)なす者を迎え入れる危うさを思えば、恐れながら密勅の一つも賜ってもおかしくあるまいに……」
基成は思わず歯噛みした。
「さりながら、此度の九郎殿の奥州下向には、京の賢き辺りのご意向が働いておるのはまず疑いのない所なれば……、あまりに事を引き伸ばされるのも得策ではないものと……」
吉次の言に基成も小さくうなずく。
「じゃが、だからと申して、悟り上手もまた考えものぞ……。わしは異母弟(おとうと)の二の轍だけは踏みとうない……」
基成の言う異母弟とは故権中納言藤原信頼(のぶより)。
かの平治の乱を起こした首謀者として知られる者のことを指す。
既に十数年前も昔のことになるが、自らの美貌を武器に後白河院の寵(ちょう)を一身に集めた一人の若き公達は、その慢心ゆえにやがては愚かなまでの出世欲にとり憑かれ、浅ましくも分不相応の野望を抱きこの世に大乱を巻き起こした……とは後人の語るところである。
この時、九郎の実父で源氏の棟梁であった源義朝も信頼の陣営に組し、平清盛を敵に回しての決戦に敗れると、その敗走の途に、思いがけず家臣の裏切りに遭い非業の死を遂げるに至っていた。
ここに壊滅的な打撃を受けた源氏――。
それに対し、平家は天下の乱れを収束させた武力を背景に朝廷の中枢に入り込み、以後その力を着実に伸ばして行ったのである。
それゆえに、もし信頼が無謀な企てをしなければ……、九郎は父を失うこともなく、また、平家のこれほどの隆盛もありえなかったのかもしれないが、しかしながら、当の信頼は乱が平定された直後に、一言の申し開きも許されないまま断罪に処されており、今となってはまさに死人に口なし。その真相に疑いを持つ向きも決して少なくはない。
「ご甘言(かんげん)に惑わされ、かかる大事を起こしたその浅慮(せんりょ)のほどはともかく、いざとなれば御身の安泰のためには、忠臣といえども容赦なく切り捨ててしまわれる……、お上には生来そうした薄情な面もお持ちじゃ。此度のこととて、もし万が一、平家より糾問(きゅうもん)を受けるようなことあらば、あちらは知らぬ存ぜぬで通され、一切の責めを我らに押し付けられるおつもりであろう。それが目に見えておるゆえ、わしも此度ばかりは御館に強く物を申すことができぬ。ゆめゆめご叡慮(えいりょ)に背こうなどという心はあらねども、陸奥の平穏を侵すことにもなりかねぬ大事と正面切って異を唱えられれば、こちらもそれ以上のことを申し述べようもない……」
「仰せごもっともにござります」
「御館にとっては……、先代基衡(もとひら)公、先々代清衡(きよひら)公より受け継ぎしこの楽土平泉をいかに守りぬくか……、決して自分の代で潰(つい)えさせてはならぬ……、何をおいてもそれこそが第一義。そのためにも中央の争い事にはよくよく巻き込まれぬよう、でき得る限り隔てを置いて付き合うよう常々指南して参ったのが他ならぬこのわしじゃ。それを今になって覆(くつがえ)すとなれば……、せめて朝廷からのお墨付きでも賜らねば埒(らち)があかぬ!」
基成も最後は苦りきったように吐き捨てた。
思えば二代基衡の代に陸奥守、そして鎮守府将軍としてこの北の辺境の地にやって来てはや三十年――。
院の庁や摂関家とも近しい縁にあり、そうした人脈をも駆使しての政治手腕は先代基衡からも高い評価を受けるところにあり、その強い求めに応じて娘を自分とさして年の変らぬ三代目秀衡の室に嫁がせた基成は、官の任を解かれた後もそのまま平泉に留まり、『御館の舅』という立場も存分に生かし対外的な折衝役(せっしょうやく)を一手に引き受けて来た。
京世界からすれば、この陸奥など蛮族(ばんぞく)の住む僻陬(へきすう)の地のこと……と、貢金貢納を怠りさえしなければ後はさしたる干渉を受けることもなかったが、将来に渡っての幾久しい繁栄のためには、奥州を中央政権の埒外(らちがい)に追い遣りつつ、それでなお、いかに友好を堅持するか……、都人たる基成はその重要性を熟知した上で、折に触れ然るべき方面への工作にも抜かりのないよう、つぶさに心を砕いて来たつもりだった。
ところが、そこに突如舞い込んで来た一通の書簡――。
あくまでも親族の情にすがって源氏の遺児の庇護を求めて来たその嘆願は、悪く言えば、身内の不祥事の尻拭いの感もあり、そこに引け目の生じた基成はなおのこと秀衡に強請することができなくなった。
「全く……、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たぬ……、真にもって難儀なことよのう……」
基成が力なくつぶやいたのを潮に、これまで聞き役に徹していた吉次が面を上げた。
「お恐れながら……、一つ可能性がないわけでもありませぬ」
「……?」
「例の切り札にござります」
基成は首をかしげつつしばらく考え込んでいたが、やがてふと思い出したように、
「と申すと……、いつぞや申しておった男のことか?」
「御意(ぎょい)。在京の折より、九郎殿があまりにしつこく平泉行きを求めて来られますゆえ、あるいはかようなこともあろうかと、わざわざ京より伴って参ったのでござります。とりわけ頑なな人の心を解く術(すべ)に長(た)けるあの者にかかれば、かの御館といえどもご変心の向きもありやなしやと……」
「変心をのう……」
真顔で語る吉次にも、基成はまるで意に介さないが如く存外(ぞんがい)反応が鈍い。
「して、その見通しは? 目論見通りに参る公算は?」
「本日只今、御館のお呼びにより伽羅ノ御所に参上つかまつっておりますゆえ、もし事がうまく運べば……、今宵のうちにも……」
従容(しょうよう)と答える吉次に、基成はなおも冷笑を帯びた視線をひたと向け、
「いずれにせよ、今は待つより他になすこともなし……。まあ多くを期待もせぬが、ここは一つ、その方の申す可能性とやらに賭けてみるのもまた面白かろうて……」
明らかに投げやりな調子で言い放った基成に、それでも吉次はいささかも顔色を変えることなく、ただ無言のまま平伏するだけだった。
| |