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竜が秀衡に詰め寄ったその翌朝、吉次の宿に御所からの遣いの者が差し向けられた。
用向きは無論、九郎のことに他ならない。
「源氏の御曹司には、即刻伽羅ノ御所まで御足労願いたいとの御館の仰せにござります」
威儀を正した使者の言上にも、吉次はあくまでも慎重な姿勢を崩さず、
「それはご対面頂けるものと……、さよう受け取ってよろしいのか?」
「そのお心積もりのようにござりまする」
使者が即答するや、九郎は満面の笑みを浮べ、それはもう飛び上がらんばかりになった。
「真に目通りが叶うのだな!」
「おめでとうござります!」
秀衡の突然の翻意(ほんい)に戸惑いを覚えつつも、九郎も鬼若も素直にその喜びを表した。
もっとも吉次にはそれが竜の力によるものと容易に察しがついた。あの御館が意を曲げることなど他に考えられはしない。そして、二人の手放しの喜び様に対して、少しも笑顔を見せない竜に不安を感じてもいた。
「すぐにも参ろうぞ!」
「はあ……」
急かす九郎にも吉次はどうも腰が重い。
(竜のやつ、いったい何と申して御館を説き伏せたものか……)
昨夜来、竜はなぜか口を閉ざし、よって御館との遣り取りも何ら聞き出せぬままであった。ゆえに、内心では『これは仕損じたか……』との思いも強くしていただけに、時ならぬ対面の許しは吉次を多いに困惑させた。
(御館の腹はいかに……)
竜の沈鬱(ちんうつ)な様子から察するに、とても上首尾だったとは思えない。
御館が必ずしも折れたわけではないとすれば……、九郎の出方いかんでは取り返しのつかない事態も予想され、何くれと思案をめぐらすほどに、吉次にはいっそう気が重のなる話であった。
(ええい、ここは竜の機転に任すより他あるまい……)
そう思い切って吉次が席を立とうとしたその時、
「さあ、竜、参ろう!」
当たり前のように声をかけた九郎に、意外や竜は無言で首を横に振った。
「竜……」
九郎は半信半疑で竜の目を見返す。
「いかがしたのだ? 竜……」
「御所へのお供は平にご容赦を……」
そう言って神妙に平伏する竜に、九郎も吉次もその真意が読めずただ訝(いぶか)るばかりだった。
「なぜだ……。なぜ共に参らぬ!」
「一介の商人に使われるに過ぎぬ身では、もはや何のお力にもなれませぬ」
「そのようなことはない! おまえがそばにおってくれるだけで、この九郎はどれほど心強いか……」
鬼若も吉次も、竜のどこかよそよそしい態度を不審に思いつつも、黙ってその場を見守るしかなかった。
「今日の対面は我が生涯をも左右する大事――。心細いのじゃ……。どうかそばでこの九郎を支えてくれ!」
九郎は何度も必死の懇願を続けるものの、竜は頑として首を縦に振ろうとはしない。
「九郎殿。人は時に一人で挑まねばならぬこともござりまする。誰にも頼らず、ただ己一人の力のみで……。そして、今がまさにその時なれば……」
竜の突き放した物言いに、九郎の狼狽(ろうばい)も頂点に達した。
「九郎殿にならばおできになりまする。思う存分、御館殿に挑んで来られませ。その御心の内を素直にお見せになれば、必ずやおわかりいただけましょう。御館殿とて同じ人間。何の気後れもすることはありませぬ」
「なれど……」
九郎の縋るような目を見て、竜も思わず萎えそうになる心を必死に奮い立たせ、最後通牒(さいごつうちょう)を突きつけた。
「御館殿がお待ちにござりまする。もしこの機会を逃せばもはや次はないものと……、さようお心得られませ!」
竜の厳しい叱咤の声に、ようやく九郎も腹をくくった。
「……相わかった。吉次、参るぞ!」
かくして九郎は吉次に伴われ宿を後にした。
その悲壮感漂う後ろ姿を見送りながら、鬼若は何とももどかしい思いにとらわれていた。
「何ゆえ、共に参らぬのか!」
黙ってうつむいたままの竜に、鬼若はその名の通り『鬼』が如き面相で詰め寄った。
「殿がお気の毒ではないか! おぬしのことを誰よりも頼りになされて来たものを……。よりによってこの大事の時に何ゆえ斯様(かよう)に冷たく突き放す!」
あわや胸倉につかみかからんかの勢いの鬼若にも、竜はまるで動じず、さりなげなく視線をかわすと、
「大事の時なればこそ……、共に参るわけには行かぬのだ」
「……」
「俺にできることはここまでだ……。御館殿へ通じる道筋を切り拓(ひら)く……、せいぜいそれぐらいのことしかできない。ここから先の扉は、九郎殿がご自身の手で開けられなくては……。誰の手も借りずに……」
淡々と答える竜に、鬼若はハッとしたように目を見開く。
「それは……、そうかもしれぬが……」
「俺の役目は終わった……。ここからは鬼若、あんたが九郎殿をしっかりと支える番だ」
「……」
「一の家来なのだろう?」
そう言って穏やかに見つめる竜に、鬼若は照れ臭そうに少し顔を赤らめてゆっくりとうなずいた。
「しかしそれにしても……、大した自信だな。端から御館がお認めになると決めてかかっておるようではないか」
「九郎殿という御方は、追い込まれた時ほどその天分の才を如何(いかん)なく発揮される……。御館殿を前にすれば、その心の奥底に眠るもののふの魂も自ずと表に現れよう……」
「そうであろうかのう……」
ため息まじりにつぶやく鬼若に、竜もようやく屈託のない笑みをもらした。
「心配か?」
竜に問われて、鬼若はいっそう顔をしかめる。
「確かに九郎の殿は底知れぬ可能性を秘めた、いわば黄金の原石――。したが、この陸奥の王者と渡り合うにはあまりに幼すぎはせぬか?」
「だが、あの御館殿ならば、黄金の原石も見分けられる確かな眼を持っておられる……。そして、その価値もきっとおわかりになるはず……」
「それは商人としての勘か?」
「さあ……、どうだかな……?」
こうしていても、不思議と竜には秀衡が九郎を気に入るに違いないと信じられた。あの九郎の真っ直ぐな気性をもってすれば、必ずや秀衡の心をも動かすことができる……。そして、そのためにも、なまじ自分はその場にいない方が良いとも思われたのだった。
「しかし、よいのか? 斯様に我が殿に肩入れなぞ致しておって……」
鬼若のふいの問い掛けに、竜は小首をかしげる。
「もし、殿の平泉逗留が認められれば……、平家にとっては好ましいことではあるまい。また一人危険な敵を増やすことになるやもしれぬのだからな……。おまえは京では平家の御用商人に使われる身であろう? 主の不利益に加担するような真似を致して大事になるまいか?」
竜とてそれは考えなくもなかった。このことがいつの日か平家に暗雲をもたらすことになれば、当然のことながら玄武にもその累は及ぶことになる。
ここ数年の間に、清盛を始め平家一門の玄武に対する信頼は揺ぎ無いものになっていた。その意味では、今の玄武は平家と運命を共にしていると言っても過言ではない。それを思えば、源氏の嫡流の血を引く九郎が秀衡の庇護を受けることなど喜ばしいはずはなく、むしろ断固これを阻止すべきなのであろうが……。
しかし、そうとわかっていても、今の竜には何より目の前の九郎の苦境を放っておくことはできなかった。
「鬼若……。俺達庶民には平家も源氏もない。それに、俺はただ九郎殿という一人の人間の力になりたい……、そう思っているだけだ」
曇りのない眼差しを向ける竜に、鬼若はまたも小さく唸った。
「しかし……、それがおまえの心を引き裂くことにならねばよいが……」
「……」
「平重衡――、おまえが気にかけるもう一人の人間は……、果たして何と思うであろうな……」
唐突に重衡の名を出され、竜は心の臓も止まりそうなほどに強い衝撃を覚えた。
「立ち聞きの趣味はないが……、勝手に耳に入って来るものを拒むこともできまい」
気まずそうに頭をかきながら切り出した鬼若に、
「九郎殿も……、ご存知なのか?」
表面ではひとまず平静を装いながらも、しかし、問い返す声の震えだけは如何(いかん)ともし難かった。
「おまえと吉次の話を立ち聞いたのは某(それがし)一人だ。よもや某の口から殿に申し上げるわけはあるまい。しかし、ああ見えて繊細なお方だ。おまえの心の内にある他の人間の影など、とうに気づいておられよう……」
そう答えてひたと見つめる鬼若に、竜はいつになく明らかな動揺を見せた。
『おまえの心の中にいる、私以外の者の存在――。それを根こそぎ断ち切ってしまいたい……』
舞草(もくさ)からの帰路、九郎がつぶやいた言葉が今また鮮明に蘇ってくる。
余計な物思いをさせたくないがために、これまで隠し続けて来た重衡との関係――。 しかし、その実はただ九郎の心が自分から離れて行くのを怖れていただけのことではなかったか……。
「それにしても、何というめぐり合わせだ……。よりにもよって、敵の家に生まれる者同士がおまえを間に置いて向き合うことになろうとは……。もしも将来二人が敵対することになれば……、いかがするつもりだ?」
「……」
「ありえぬことではない。もし平家と源氏の間に争乱が起きるようなことあらば、二人は必ずや戦わねばならなくなるのだぞ。その時おぬしはいったいどちらにつくつもりなのだ!」
鬼若の真剣な目が、竜にその先の返答を強く迫る。
(重衡と九郎殿が相争う……)
かつて互いを敵として戦った平清盛と源義朝――。
それぞれを父に持つ二人の置かれた立場もまた、まさしく敵同士であった。ひとたび乱世となれば、二人が刃を向け合うことは避けようもない。そして、その宿命の狭間に立つことこそが己に与えられた天命だと……、竜はこの時はっきりと自覚していた。
「某は木曽での一件からこの方、おぬしが殿にとって何よりも心強い味方になるものと……、さよう考えておった。しかし、そのおぬしがもう一方では平相国の子と意を通じていると知って、このまま信じてよいものか……、正直迷うておる……」
鬼若は苦しい胸の内を包み隠さず露わにした。
「今一度聞く。我が殿が平重衡と戦う時、おぬしはどちらにつくのだ!」
なおも厳しい形相で挑みかかる鬼若に、竜もとうとう根負けしたように深く息を吐(つ)いた。
「俺は武士ではない……。それゆえ、どちらに味方することもできまい……」
「……」
「重衡殿も九郎殿も俺にとってはどちらも大切な御方だ。その重さを比べることなどできはしない。もし仮に御二方が敵味方として争うことになるなら……、そこから目を背けることなく最後まで見届ける……、それが俺にできる唯一つのことだと思う」
最後はきっぱりと言い切った竜に、さしもの鬼若も返す言葉を失った。
あれほど九郎が強い執着を見せているにもかかわらず、なおも捉えきれぬ心――。
二つの運命の狭間にも毅然と立ち、いずれにも流されず、あくまで真摯(しんし)に見つめようとするその冷徹さが心憎いほどに感じられた。
しかし、同時に、そのことがこの先竜自身をどれほど苦しめることになるか……。それを思うにつれ、鬼若の心にも重苦しい懊悩(おうのう)が垂れ込め始めていた。
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