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伽羅ノ御所の大広間に通された九郎は、吉次と二人、秀衡の訪れをじっと待っていた。
平泉入りから三月余り――。
ようやくめぐって来た対面の瞬間を前にして、九郎は逸(はや)る気持ちを努めて抑えつつも、
(陸奥の王者と評される藤原秀衡とはいかなる人物か……、果たして自分は気に入られるだろうか……)
次々に脳裏をよぎる不安の影を振り払い、ただひたすらその時を待ち続けていた。
「九郎殿」
「……」
「そうご案じめさるな。いくら何でも取って食われる心配などありませぬからな」
吉次は九郎の緊張の程を見て取り、笑いながら言った。
「その点、竜というやつはやはり肝が据わっておる……。いかなる人間を前にしても、同じように対するのですからな。この吉次であろうと九郎殿であろうと、それこそ御館(みたち)が相手であっても……」
九郎は黙って吉次の話に耳を傾けた。
「人と申すは多かれ少なかれ、対等以上の相手に対する時には、どこかで己の良い面だけを見せたいと身構えるものなれど……、竜に限ってはそれも当てはまらぬ。あいつは誰に対してもあるがままの己を見せ、相手のあるがままの姿もまた見通しておりますれば……」
「あるがままの姿……?」
問い返す九郎に、吉次は小さくうなずいた。
「九郎殿もやってご覧になられませ。ご自身の内にある真心をどこまで御館に伝えることができるか……。歯の浮くような綺麗事を並べたところで、あの御方には何ら通用いたしませぬからな……」
そうしているうちに、ようやく秀衡が泰衡を従え姿を現し、九郎は威儀を正して神妙に平伏した。
「すっかりお待たせ致しましたな」
まずは上座を占めた秀衡が鷹揚(おうよう)に声をかける。
「お初に御意(ぎょい)を得まする。源九郎義経にござります」
九郎は平伏したまま、静かに名乗りを上げた。
「藤原秀衡にござる。さように畏(かしこ)まられず……、どうか面を上げられよ」
九郎は緊張の面持ちでゆっくりと上体を起こすと、そのまま正面に座す秀衡の顔を真っ直ぐに見つめた。
これまで頭に思い描いていたよりも、ずっと温かみのある眼差しがそこにあった。
陸奥を征する王者の風格には圧倒されるばかりであったが、それでいてどこか懐かしいような……、そんな得も言われぬ不思議な思いに九郎はとらわれていた。
『御館殿とて同じ人間……。何の気後れもすることはありませぬ……』
宿を出る時に竜から言われた言葉がふと頭の中に響いた。その途端、自然と肩の力も抜ける思いだった。
「九郎殿と……、さようお呼び致してよろしいかな?」
「はっ」
「では、九郎殿。此度は何ゆえこの平泉に参られたのか? そこな吉次は京にてはっきりとお断り致したと申しておったが……。この秀衡の考えをご承知の上であえて当地に参られた、そのわけを承りたい」
低く太い声音(こわね)が九郎の胸にずしりと響いてくる。しかし、それが心地良いとさえ思えるほどに、九郎もまた落ち着いていた。
「恐れながら……、あのまま鞍馬に留まっておっては、早晩、出家得度(しゅっけ・とくど)は免れぬものと……、さよう思うたからにござりまする」
臆することなく九郎は答えた。
「それほどまでに出家はお嫌にござりますかな?」
「断じて御免蒙(ごめん・こうむ)りまする!」
はっきりと拒絶の意思を示す九郎に、秀衡も微かに瞠目(どうもく)した。
(何とも気の強そうなお方じゃ……)
秀衡は心の中で半ば呆れ返りながらも、しかし、どこかでそれを頼もしいとも思っていた。
「ならば、出家せずしてこれからいかがなされるおつもりか?」
重ねて尋ねられ、今度は九郎も言い淀んだ。
「今はまだ……、ようわかりませぬ」
「……」
「ただ、己の預り知らぬところで、我が行く末を勝手に決められることにはどうにも我慢がなりませんでした。いかなる時にも、己の進む道はこの己自身の手で選びたく存じますれば……。もし出家致すのであれば、それは誰の命にもよらず、己の意思でしかと決めた時に他なりませぬ」
九郎はきっぱりと言い切って、その決意の程を秀衡に示そうとした。
「平家の力の及ばぬこの地ならば、これからいかが致すべきか……、この身にいったい何ができるものか……、それを存分に熟慮する暇(いとま)ができると思うたのでござります。なれば、御館殿、何卒この九郎をこのまま平泉にお留め置き下さりますよう、伏してお頼み申し上げまする」
そう言って再び額ずいた九郎にも、秀衡はひどく落ち着いた目でただじっとそれを見下ろしていた。
「九郎殿……。平家に対する怨み、捨てることはできますかな?」
不意の言葉に九郎は耳を疑う。
「平家への怨讐(おんしゅう)を捨て、源氏の名をも捨て、蝦夷(えみし)になる覚悟はおありか?」
傍らの泰衡も驚きのあまり秀衡の顔を見返した。
「この秀衡は都人より、蝦夷だの俘囚(ふしゅう)だのと蔑まれる者にござりますぞ。そのわしの治める陸奥の国に参られたからには、それなりの覚悟をお見せいただかねば、とても受け入れることなどできませぬ」
「……」
「いかがかな?」
有無を言わせぬほどの秀衡の強い視線に、九郎は金縛りにあったように身動きができない。
ただただ圧倒されるばかりの威圧感――。
九郎は思わず怯みそうになるのを必死にこらえながら、あえてこれに抗う構えを見せた。
「そのようなことなどできようはずがありませぬ」
真っ向から否定した九郎に、吉次も我知らず額に汗を浮かべる。
しかし、相変わらず無表情を通す秀衡に取り立てて不快に思っているような節もなく、それにわずかながら自信を得た九郎は、何ら怖れる風もなくさらに続けた。
「平家への怨讐ならば、とうにどこぞへ消え失せておりまする」
「……」
「確かにこの春、鞍馬を出た折にはただその思い一つにござりました。一族を滅ぼされた怨み――、それを忘れては今は亡き父や兄達にも顔向けができぬと……。いつの日か必ずや我が手で平家を討ち滅ぼし、源氏再興を成し遂げるものと……、その志を唯一の拠り所に長き不遇の日々を耐えて参ったのでござりますれば……」
「……」
「しかし、京を出てからこの平泉に至る道中、思いもかけぬ仕儀に幾度も立ち至ることとなりました。その中で怨みにのみ生きることの虚しさ……、それをある者に教えられましてございます。人をどこまでも信じ敬い、命あるもの全てをいとおしむ彼の者の心に触れ、いつしか九郎もそのように生きて参りたいと……。それが今の偽らざる我が思いにございます」
従容として語る九郎に、秀衡も真剣に聞き入っていた。
「さりながら、この九郎は源氏の嫡流。そのことを誇りに思うて今日まで生きて参りました。それを捨てろとはあまりに理不尽なお言葉……」
「……」
「九郎が蝦夷の子としてこの世に生を受けたのなら、御館の今のお言葉にも喜んで従えましょう。源氏であれ蝦夷であれ、己の身体に流れる血を誇りに思えばこそ、いかなる境遇にあろうと堂々と胸を張って生きて行けると申すもの。それを捨てろとは……、死を申し付けられたような心地にござりまする」
この時、秀衡の表情に初めて明らかな動揺が走った。
「恐れながら、御館の仰せはこの九郎には奇妙に思えてなりませぬ。何ゆえ蝦夷をそれほど低くお考えになられるのか……。大和も蝦夷もどちらも同じ人間、何ほどの違いがござりましょうや」
「……」
「むしろ、自ら蝦夷を貶(おとし)めて語られる御館のそのお心延(こころば)えこそが、二つの溝をより深く大きなものにいたしておるのではありますまいか」
「……」
「この九郎に源氏を捨てよと仰せになるなら、その前に、まずは御館ご自身が蝦夷へのこだわりをきっぱりとお捨て下さりませ。話はそれからにござります!」
九郎の堂々たる弁舌に、さしもの秀衡も舌を巻いていた。
(よもやこのようなお方であろうとは……)
十五という年にいささか侮り過ぎていたか……。
生まれながらの武者――、秀衡には九郎のその誇りが眩しかった。
己が信念の命ずるままに、何をも恐れず突き進む強さ――。
何より、傲慢と紙一重の言動にもどこか清々しいものすら感じさせるその真っ直ぐな気性に、秀衡はすっかり魅入られてしまっていた。
(このお方を打ち捨てては、蝦夷もいよいよ地に堕ちような……)
秀衡の意もここに決した。
「間ものうこの平泉も雪に閉ざされる……。今さら京へ送り返すこともできまい……」
ふと独りごちた秀衡に、九郎は驚きと共にその目を見返した。
「吉次! 今日より九郎殿には我が館にお移りいただく。早々に手配致せ!」
「畏まりましてござります」
間髪を入れずに吉次は即答した。
「泰衡、その方にも異存はあるまいな」
言わずもがな、泰衡も従容としてうなずく。
「この九郎義経、御館のご厚情に心より深く御礼申し上げまする」
感激のあまり声を詰まらせながら、九郎はそれだけ言って深々と頭を下げた。
(ようやく認めていただけた……)
一つの宿願を成就した、その安堵の思いで胸が一杯になった。
ところが、そんな熱い思いに心震わす九郎を前に、秀衡は突如冷や水を浴びせるように言い放った。
「礼など無用ぞ!」
「……」
「勘違いをされては困る……」
「……」
「九郎殿に対しては、今後も客人としてのもてなしは一切致さぬ。あくまでも雑兵(ぞうひょう)の一人として召し使うゆえ、よくよく心されよ」
秀衡の予期せぬ通告には九郎はもちろんのこと、吉次や泰衡さえも顔色を変えた。そして、そんな九郎の狼狽ぶりを目の当たりにしながら、秀衡はすぐさま席を立つと、不敵な笑みを残して広間を後にした。
吉次は慌てて秀衡の後を追った。
「御館! いかなることにござりますのか? 九郎殿を雑兵になどと……」
吉次の困惑をよそに、秀衡は肩を震わせながら笑いを噛み殺していた。
「雑兵がお気に召さぬとあらば、いつでもここを出て行かれるがよい……。さよう九郎殿に申し上げよ!」
厳しい物言いとは裏腹に、秀衡は頗(すこぶ)る上機嫌だった。
「このわしとしたことが……、まんまと竜の策に引っ掛かってしもうたわ……。全く、このわしよりも遥かに策士じゃ、あの者は……」
「竜がいったい何と……?」
一人悦に入った面持ちの秀衡にも、吉次はその真意がつかめず、ただおろおろとするばかりだった。
「後で竜に参るよう申しておけ」
そう告げてからも、しばらく秀衡の笑いは止まらなかった。
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