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「殿を雑兵(ぞうひょう)にですと!」
宿に戻った九郎から秀衡の言葉を聞かされた鬼若は大いに憤慨した。
「いったい何と心得ておられるのか! 仮にも源家の御曹司をあろうことか雑兵として召し使うなどと……。あまりに無体な仕打ちにござろう!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす鬼若とは対照的に、竜は相変わらず黙り込んだままだった。
「それほどまでにこの九郎は厄介者だということか……」
「さようなことなどござりませぬ!」
鬼若はすかさず否定したものの、すっかり消沈しきった九郎の耳に届くものではなかった。
「蝦夷(えみし)になれぬと申し上げたのが、よほどお気に召さなかったのであろうか……」
「何を仰せになられます! 殿の申し状は至極当然のこと。無理難題を吹っ掛けて来ておるのは秀衡が方ではありませぬか!」
鬼若の怒りはそう簡単にはおさまりそうになかった。
「藤原秀衡こそ、さしたる人物ではなかったということにござりましょう。これほどの大国を率いる長にしては、平家の目を気にしたあまりに狭い料簡(りょうけん)……」
「御館の悪口を申すでない!」
九郎のいつにない険しい形相に鬼若は思わずひるみ、そのまま黙り込んだ。
しばし気まずい沈黙の時が過ぎ、やがて、それを打ち破るように竜がようやく重い口を開いた。
「不承知とあらば……、ここを出て行くより他ありますまいな……」
九郎は信じられない思いで背後の竜を見返した。
(今日の竜はいつもと違う……)
今朝方からの何かと突き放した物言いの数々に、九郎はただただ戸惑うばかりだった。
「随分冷たいことを申すのだな!」
鬼若は不満も露わに竜に噛(か)み付く。
「仕方があるまい……。この平泉にいる限り、御館殿の意に逆らうことなどできはせぬ……」
「それはそうだが……」
鬼若は鬱積(うっせき)のあまり歯軋(はぎし)りした。
「九郎殿。御身はいったい何を望んでおられましたのか?」
「……」
「御曹司としての手厚いもてなしにござりますか?」
虚ろに沈む九郎の目を竜は冷ややかに見据えた。
「美しい衣で着飾り、京の公達が如き雅な暮らしでもお望みにござりましたのか?」
「……」
「そもそも、何ゆえ京より遥か遠きこの平泉の地まで参られたのか……。今一度、その意味をとくとお考え直しになられた方がよろしいのではありませぬか?」
それだけ言うと、竜は九郎に背を向け、さっさと宿を出て行ってしまった。
「いったい、どうしたと言うのか……。今日のあやつは何やら様子がおかしゅうございますな……」
さりげなくとりなそうとする鬼若にも、九郎はそれを拒み一人黙考(もっこう)する。
源氏の御曹司――。
そう呼ばれ傅(かしず)かれることに、いつしか己の置かれる立場を見失ってしまっていたのか……。
どこかで丁重なるもてなしを持って受け入れられることを当然とも思っていた。
そこにはやはり、北の辺境の地である陸奥を低く見る思いもあったかもしれない。
しかし、いかに源家の嫡流の血を引いているとはいえ、今は率いる郎党もなく、何の力も持ち得ない浮き草の如き身の上であった。秀衡にしてみれば、そんな九郎を受け入れねばならぬ義理などどこにもあろうはずがない……。
竜によって突きつけられた紛(まご)う方なき現実に、九郎は改めて己の無知と甘さを思い知らされていた。
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「おまえ……、御館にいったい何と申し上げたのだ?」
表に出た竜を吉次が腕組みをして待ち受けていた。
「雑兵になどと仰せであったが、その実、九郎殿のことを大そうお気に召されたご様子だ……」
「そうか……」
苦笑する吉次を見て、ようやく竜もホッと一息ついた。
確証があったわけではない。ただ秀衡の中の迷い――、それを感じ取った時に、もはやそこに賭けてみるよりほか手立てがないと思われたのだった。
「ついにやってのけちまったな……。恐れ入った……」
と晴れやかに言う吉次にも、
「だが、九郎殿がどのような答えを出すか……」
竜はまだ楽観してはいなかった。
「雑兵のことか? 御館も思い切ったことを……。だが、どの道、九郎殿に選ぶ余地などない。そうだろう?」
鞍馬を出奔した時点で、九郎には平泉以外の道はないも同然だった。京へ戻れない以上は、何が何でもここに留まらなければならないのである。あるいは、秀衡もそれをよく承知の上で、あえて強硬なる態度をもって九郎を試しているのかもしれないと竜も感じていた。
「それにしてもおまえは強いな……。いくら九郎殿のためとはいえ、つらくはないのか? あれほど頼りにされていたその手を突如として振り切るような真似を……」
「潮が満ち風も格好の追い風だ……。今この時を逃せばいつ船を出せるか……」
竜は一点の曇りもない目を吉次に向けた。
「やさしくするだけが九郎殿のためではない……。吉次がそう言ったのだろう?」
これには吉次も一本取られたとばかりに頭をかいた。
「いずれ九郎殿にもおまえのその思いがおわかりになる時が来よう……」
「別にわかってもらえなくてもいいさ……。ただ九郎殿が己の道を信念を持って歩んで行って下さりさえすれば……。俺はどんなに恨まれても構いはしない……」
「そうか……」
吉次は竜らしいと思った。
人から何と思われようとその信念は少しも揺るぎはしない……。
「御館がお呼びだ。すぐに行け」
竜は静かにうなずくと、そのまま宿を後にした。
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