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秀衡からの呼び出しを受け、竜が伽羅ノ御所を訪れたのは夕闇迫る黄昏時(たそがれどき)のことであった。
人けのない廊に一人たたずみ、庭を眺める秀衡の姿を見つけて、竜はそっとその背後に控えた。
「九郎殿はさぞやお怒りであったろうな……」
気配を察した秀衡がいささか自嘲気味に尋ねる。
「いえ……、九郎殿ご自身よりも、むしろお側に仕えおります者の方が……」
そう答えて心持ち苦笑を浮かべる竜を返り見て、秀衡もわずかながら表情を緩ませた。
「これでよかったのだな……。わしにできる精一杯の譲歩じゃ……」
「……」
「その方の頼みゆえ、己の節を曲げて九郎殿を迎え入れることに致したのだ……」
秀衡らしい鷹揚(おうよう)な物言いにも、竜はこれを軽く受け流し、
「いいえ。私などおらずとも同じようになされていました」
「また、そのように申すか……」
秀衡も思わず失笑をもらした。
「まあ、よい……。その方の申す通りこれも運命なのやもしれぬ……」
「……」
「蝦夷(えみし)の力をも頼りに思うて下された……。その思いにはこちらも蝦夷のやり方でお応え致す……。源氏の嫡流の名に恥じぬ立派なもののふに……、きっとそのようにお育てしてみせようぞ」
秀衡の並々ならぬ決意を見て取り、竜も黙ってこれにうなずく。その言葉が偽りではないと信じられた。
「その方には国衡や泰衡のことでも礼を言わねばならぬな……」
「……」
「先だって、国衡めが珍しく儂(わし)に意見などしおってのう……。泰衡を次の御館に決めておるのなら、早々にはっきりと儂の口からそう言ってやるべきだと……」
「国衡殿が……?」
「あまりにアレらしからぬ申し状に、どうもおかしいと思い問い質(ただ)してみれば……、何のことはない、その方が申しておったことの受け売りじゃとあっさりと白状しおったわ」
カラカラと笑う秀衡の傍らで、竜は神妙な面持ちでそれを聞いていた。
「我が子でありながら、儂はあやつらの心の内を少しもわかってはおらなんだ……。陸奥を治める御館の立場にばかりとらわれ、二人の抱える葛藤に心を配ることをなおざりに致しておった……。口で伝えねばわかぬか……、真にその通りじゃ……」
「御館殿……」
「思えば、その方一人に平泉はかき回され通しよのう……。しかし、そのおかげでこれまで陰に隠れておったものが表に現れてよう見えるようになった……。なれば、これからはそれをどう生かすか……、じゃな」
秀衡は晴れ晴れとした顔つきで言う。
が、その傍らに控える竜の心中はひどく複雑だった。
(本当にこれでよかったものか……)
自ら望んだ結果でありながら、今またこの胸の奥深くで渦巻き始めている言い知れぬ不安は何としたことか……。
「ところで、竜……」
そんな竜の苦悶も見透かしたかのように、唐突に秀衡が問い掛けて来る。
「平家の天下はまだまだ続くと思うか?」
「……」
「この時期に源家(げんけ)の御曹司を迎え入れるは、我らにとってもまさしく大きな賭け――。それをあえて致させたその方には我が問いに答える義務がある」
「……」
「直(じか)にその目で平家の隆盛を見て参った……、その方の腹蔵(ふくぞう)ない考えを聞きたい……」
口調はいたって穏やかながら、それでいて『答えずにはおかさぬ……』と言わんばかりの威圧感も漂わせる秀衡に、竜も覚悟を決めてじっと考えをめぐらせる。
ほんの数ヶ月前までは、平家の栄華が潰(つい)える時が来ようなどとは微塵も考えたことはなかった。
しかし、京を離れ、東国に身を置く日々を重ねるにつれ、『何かが違う……』との思いを拭い去ることもできなくなっていた。
木曽で義仲に、この平泉の地で秀衡に、そして共に京より下った九郎――。
一つの出会いを果たす度ごとに新しい風がその胸の内に沸き起こり、これまで知り得なかった世界、様々な人々との交わりを経て、いつしか竜の価値観そのものも大きく変化していたとも言えよう。
天下の覇権を奪う機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙う者――。
天下などという名に固執せず、実ある国造りに心血を注ぐ者――。
そして、己の行くべき道を奪おうとする理不尽な力に敢然と立ち向かおうとする者――。
どれもこれも荒唐無稽(こうとうむけい)な絵空事(えそらごと)かもしれない。
しかし、あえて本気でそれを現実のものにしようとする、その貪欲(どんよく)なまでの渇望(かつもう)が、何より人を輝かせ強くするものとも痛感していた。
そんな昇り行く朝日の如き勢い盛んな彼らと比べれば、両腕に余る権勢を抱え込み、それを逃さぬことにばかりとらわれている京の平家一門の有り様は、さながら沈み行く運命に抗い山の端(は)に姿を隠す間際、ひときわ強い光彩を放つ落日にも似た哀れをも思わせた。
『生者必滅(しょうじゃひつめつ)』
かつて高雄の文覚が言わんとしたのも、まさにこのことだったのか……。
「恐れながら……、この世に永遠なるものなどあろうはずがありませぬ。いかなるものにも終りの時は必ず訪れるもの。ただ、それがいつのことか……、それは何人にもわかりはしますまい」
竜はそう答えて、ふと京の重衡のことを思い返していた。
夢も希望も持たず、一門の犠牲となることをも厭(いと)わぬと語った重衡もまた、その実、栄耀(えいよう)の花の散り行く運命を無意識のうちに感じ取っていたのではないかと……。
「平家の世もいつかは終わる時が来る……。しかし、それが百年先か、あるいは明日をも知れぬ命か……、おまえをもってしてもそれはわからぬか……」
最後は無言のまま首肯(しゅこう)した竜に秀衡も得心顔(とくしんがお)を見せると、遠くに聞こえる晩鐘(ばんしょう)に耳を傾けつつ再び庭に目を遣った。
「雪か……」
秀衡のつぶやきに竜もおもむろに空を仰ぎ見る。
広がり始めた闇の間を縫い、音もなく舞い降りてくる白い結晶――。
それは冬の訪れを告げる初雪だった。
「陸奥の雪は京とは比べ物にならぬほど深い。その方もきっと驚くに違いない……」
「……」
「しかし、この雪こそが陸奥の民を育む糧(かて)――、そして魂ぞ」
そう語る秀衡の言葉には、何も増して強い響きがあった。
虐(しいた)げられてもなお屈することのないひたむきな強さ――。
この雪深い国での暮しは、九郎を一回りも二回りも大きな人間に育ててくれるに違いない……。
心密かに竜もそう確信しながら、しかしその一方で、これより先の行く手に待ち受けるものが、必ずしも人に幸福をもたらすものでないことも同時に悟っていた。
来るべき乱世の予感――。
いかに目を背けようとも、重衡と九郎――、この二人がいずれ敵対する立場となるのは、もはや避けようがないのではないか……。
なおも薄闇の中をわびしげに響き渡る晩鐘の音が、さながら天の打ち鳴らす時守(ときもり)の鐘の如く、その悲しき定めにまた一つ確かに近づいたことを告げているように思えてならなかった。
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