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○徒然独白○ 管理人のちょっとしたつぶやき |
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映画鑑賞録7―GW映画3本― (04/05/10) |
ゴールデンウィークの前後に見た映画3本の感想を少々。(見事にCG全開のファンタジー系ばっかり…)
『ロード・オブ・ザ・リング―王の帰還―』
3時間を越える、長い長〜い上映時間は、「最後まで見たぞ!」という達成感を得るためにだけあるのか。
3部作の最終章ということで、それぞれの決着を描くあまり、詰め込み過ぎた挙句、収まり切らずに弾け飛んだ…というのが、見終わった後の率直な感想でした。
特に、後半のクライマックス数珠繋ぎは、それぞれの余韻を味わう間もなくブツ切りにされ、予想以上に、盛り上がりに欠けたような気がします。(カットされたシーンも多数あるようですし…)
原作未読のため、この作品の根底に流れる、壮大な物語観を理解するにも、限界があるでしょうが、前作の『二つの塔』は、それなりに丁寧に描かれていただけに、エピソードをもう少し絞り込んでもよかったのでは?などとも思います。
とはいえ、これほどの、「超」の文字が3つも4つもつくような大作には、今後しばらく、お目にかかれないでしょうね。
『ピーター・パン』
ディズニーのアニメでおなじみの同名作品の実写版。
登場人物もストーリーも、ほぼアニメ版の通りで、あのシーン、このシーンと、先の展開が読めつつも、それが実写で作られているというだけで、結構、新鮮に感じられるものです。
今回、特に感じたのは、ピーターとフック船長って、本当に似た者同士。フックも子供の頃は、きっとピーターのように、純粋で小生意気な少年だったのでは?といった想像を掻き立てます。
また、ピーターとウェンディの恋模様にスポットを当てていることもあり、ファンタジー色がやや希薄になり、妙に現実的になった印象も。
「初恋」というのは、「男」と「女」の性差をはっきりと認識する、いわば、大人への第一段階。
二人が惹かれ合うのは、自然の流れとしても、それをリアルに映像化されると、永遠に大人にならないはずの少年ピーター・パンに、中性的なイメージを求める向きには、やはり違和感が否めません。
なお、ピーター役の少年(ジェレミー・サンプター)が、とてもキュートで、日本人受けしそうな美形。案外、子供よりも、少し上の年齢層向けの作品なのかもしれません。
(字幕版を見たためか、客席は若い女性が大半でした)
『ホーンテッド・マンション』
昨年の『パイレーツ・オブ・カリビアン』に続く、ディズニーランドのアトラクションを題材にした作品。
幽霊屋敷が舞台で、ホラー映画か?と思いきや、主演がエディー・マーフィーだけあって、中身はブラックユーモアを交えたドタバタコメディー仕立て。結末も、ディズニー映画らしく、ハッピーエンドになっており、ホラー映画はダメ!という方でも、まず問題ないでしょう。(2・3ヶ所、唐突に幽霊が姿を現して、ドキ!なんて場面もあるにはありますが)
「呪いを解く」がキーワードのため、どこか『美女と野獣』と似通った印象も。
何かと世話焼きの使用人の幽霊達は、コグスワーズやポット夫人を思い起こさせますし、呪いが解ける場面では、『美女と野獣』+『陰陽師』か?などと思ってみたり…。
ディズニーランドに行く度に、必ず体験する「ホーンテッド・マンション」。この映画のことを頭に置いておくと、また違った楽しみ方も、できるかもしれませんね。
そうそう、お約束のエンドクレジットもお見逃しなく!(といっても、そんなに期待するほどのものでもないですけどね…)
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大河『義経』キャスト決定!(04/04/14) 〈04/04/15に一部修正〉 |
昨日、2005年のNHK大河『義経』の一部キャストが発表されました。
が、各紙に掲載された配役がまちまちで、どうもわかりにくいため、改めて次のような表にしてみました。
なお、当サイトは、どちらかといえば、平家びいきのため、キャスト順も平家側を優先しております。
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源義経 |
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滝沢秀明 |
武蔵坊弁慶 |
義経の郎党 |
松平健 |
源頼朝 |
義経の異母兄 |
中井貴一 |
北条政子 |
頼朝の正室 |
財前直見 |
平清盛 |
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平時子 |
清盛の妻 |
? |
平重盛 |
清盛の長男 |
勝村政信 |
経子 |
重盛の妻 |
森口瑤子 |
平宗盛 |
清盛の三男 |
鶴見辰吾 |
平知盛 |
清盛の四男 |
阿部寛 |
明子 |
知盛の妻 |
夏川結衣 |
平重衡 |
清盛の五男 |
細川茂樹 |
輔子 |
重衡の妻 |
戸田菜穂 |
建礼門院徳子 |
清盛の娘・高倉天皇妃 |
中越典子 |
平維盛 |
重盛の長男 |
賀集利樹 |
平資盛 |
重盛の二男 |
小泉孝太郎 |
能子 |
清盛の娘・義経の異母妹 |
後藤真希 |
常盤御前 |
義経の母 |
? |
静御前 |
義経の愛妾 |
? |
平時忠 |
時子の弟・清盛の義弟 |
大橋吾郎 |
領子 |
時忠の妻 |
かとうかずこ |
建春門院滋子 |
時子の異母妹・高倉天皇の母 |
? |
高倉天皇 |
後白河法皇の皇子 |
? |
後白河法皇 |
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平幹二朗 |
丹後局 |
後白河法皇の愛妾 |
夏木マリ |
覚日律師 |
鞍馬寺の僧侶 |
塩見三省 |
源義朝 |
頼朝・義経らの父 |
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源範頼 |
頼朝の異母弟・義経の異母兄 |
石原良純 |
木曽義仲 |
頼朝・義経の従兄弟 |
小澤征悦 |
巴御前 |
義仲の妻 |
小池栄子 |
源頼政 |
以仁王と共に挙兵 |
丹波哲郎 |
以仁王 |
後白河法皇の皇子 |
? |
新宮十郎行家 |
頼朝・義経の叔父 |
大杉漣 |
北条時政 |
政子の父 |
小林稔侍 |
梶原景時 |
鎌倉の武将 |
中尾彬 |
藤原秀衡 |
奥州藤原氏の総帥 |
高橋英樹 |
藤原国衡 |
秀衡の長男(庶子) |
長嶋一茂 |
藤原泰衡 |
秀衡の嫡男(二男) |
渡辺いっけい |
伊勢三郎 |
義経の郎党 |
南原清隆 |
佐藤継信 |
義経の郎党 |
? |
佐藤忠信 |
義経の郎党 |
海東健 |
駿河次郎 |
義経の郎党 |
うじきつよし |
喜三太 |
義経の郎党 |
伊藤淳史 |
金売り吉次 |
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市川左團次 |
亀の前 |
頼朝の側室 |
松嶋尚美 |
うつぼ |
義経の恋人? |
上戸彩 |
千鳥 |
弁慶の恋人 |
中島知子 |
お徳 |
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白石加代子 |
あかね |
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萬田久子 |
五足 |
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北村有起哉 |
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原作本は未読のため、オリジナルの人物については、全くわかりませんが、ざっと見渡した所、どうも、ピントのズレた配役という気が。
といっても、それぞれ、単体で見れば、中々、悪くない人選なんですよ。ただ、集合体として見た時に、ある種の違和感を感じるんですよ。
例えば、頼朝&政子夫妻は、二人だけを見れば、これでいいかと思うのですが、ここに、義経が加わると「ちょっと…」。
北条政子といえば、「尼将軍」のイメージが強いため、どうしても、きつい女性という先入観を持ってしまいがちですが、実は義経とは、わずか2歳違い。
壇ノ浦の合戦があった1185年時点で、義経27歳、政子29歳。ついでながら、建礼門院徳子は31歳で、政子より2歳年上になります。
年齢といえば、奥州藤原氏の国衡・泰衡の兄弟も、何だか逆のイメージ。
泰衡は建礼門院徳子と同い年。一方、国衡は生年未詳ながら、記録上は秀衡の長男ということになっています。
これは、泰衡の母が京の公家出身であったため、秀衡の正妻に位置づけられ、よって、異母弟の泰衡が後継者の座に就いたという事情がありました。
一説には、父の秀衡が臨終の際、泰衡の母である正妻を国衡に与えると遺言したともいわれていますから、おそらく、泰衡とは10歳以上の年齢差があったと見て、まず間違いないでしょう。
どうも、この時代には、多少のこだわりを持っているので、ついつい、揚げ足を取るような言い方になってしまいますが、何も「史実に忠実であれ」などとは思っていません。
そもそも『平家物語』自体が、史実無視の創作三昧の産物であって、むしろ、その創作部分こそ、『平家物語』の真骨頂ですし。
ただ、この配役を見る限り、主役の義経と他の人物の間に、かなりの温度差のようなものを感じます。
若い義経に対して、やや年齢が高すぎる実力派達。
正直言って、このキャスティングなら、義経役は、30歳前後の俳優の方が、うまくはまったのでは?という気がしますね。
もっとも、発表が遅れている平清盛が誰になるかで、その印象もガラリと変わる可能性も。
平家側の配役も概ね発表されながら、妻時子や一時愛妾となる常盤御前の配役が先送りされたのも、清盛役の予想を難しくしていますね。(どこかで、常盤は、その娘能子役の後藤真希の二役という記事も見かけたのですが、まさかね…)
清盛を含めた次回キャスト発表は5月とのこと。もったいぶらずに、「さっさと発表してくれ!」という気分です。
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映画鑑賞録6『シービスケット』(04/02/16) |
1929年に起きた世界大恐慌。平成バブルの崩壊も目じゃない、文字通りどん底の時代にあって、失意の内に生きる目標を見失った人間達。
アメリカンドリームを求めて西部に移り住み、自動車セールスで巨万の富を築いたものの、その他ならぬ自動車によって、最愛の我が子の命が奪われる悲劇に見舞われた男=ハワード。
大恐慌により一家離散の憂き目に遭い、乗馬の心得があったことから、半ば親に捨てられる形で、騎手の道に入ったものの、いつまでたっても芽が出ず、焦燥の内に身を持て余している青年=レッド(ジョニー)。
自動車の台頭でカウボーイとしての居場所を失い、西部劇の馬の調教師となって旅暮らしをしているものの、使い捨てにされる馬達の現状に憤りを感じ、扼殺寸前たっだ馬を引き取り、治療を施す“赤ひげ”もどきの男=トム。
そして、小柄で本当は気の優しい、しかし、身勝手な人間達の仕打ちにより、手のつけられない暴れ馬となり、挙句にダメ競走馬の烙印まで押された馬=シービスケット。
この3人の男と1頭の馬が《馬主》《騎手》《調教師》《競走馬》として出会った時、1つの“奇跡”が起こる…といった、まあ、よくありがちなサクセスストーリーですが、一応、実話を元にした小説の映画化です。
気性の荒い問題馬“シービスケット”を、調教していく過程はどこかコミカルで漫画的。(実は寂しがりやのシービスケットを落ち着かせようと、山羊を厩舎に入れるものの、あっという間に叩き出される?シーンは一番の笑い所)
それでも、緩急のバランスの取れた演出でダレさせず、疾走シーンの映像の美しさも相まって、次第に話に引き込まれていきます。
小さな栄光の後にはまた挫折が…、何度もこの狭間を行き交い、その度に、いっそう強く結びつく3人+1頭の絆と自信。
そして、ついに上ったNo1の座をかけたマッチレースの舞台が最大の山場と思いきや、一転、再び大きな挫折が…。
「人生山あり谷あり…」とはよく言いますが、まさにその通りの展開。
しかし、どん底を見た人間は「ちょっとやそっとじゃヘコタレない!」といった強さの方が強調されていて、とかく、暗く陰鬱になりがちなシーンも、意外に、肩の凝らない軽めのトーンに抑えられ、この辺りは、手綱さばきも巧妙といった所でしょうか。
これみよがしの「泣かせます!」といった大げさな演出はなく、どちらかといえば、淡々と話が進んで行くため、「感動した!」と声を大にするほどのインパクトはありませんが、それが却って、感動巨編といわれる作品にありがちな“あざとさ”を弱め、見終わった後の、爽やかな心地よさにつながっているようにも思います。
ただ、主要人物が善良すぎる人ばかりで、なんだか「嘘くさい」と感じる部分もなきにしもあらず。
大一番を控えた騎手のレッドに、プロモーション的に自分の馬に乗ってほしいと持ちかけたかつての恩人。この時に、騎手には致命傷ともいえる大怪我をしてしまうわけですが、実はこの恩人もライバル陣営の回し者か?と思ったり、代わりに騎乗することになったレッドの旧友のスター騎手(この人は本物の騎手だとか)も、わざと負けるように圧力をかけられてるのでは?などと、ついつい、いらぬ想像をしてしまいがちです。(実際、落馬事故は本当に偶然に起きたもので、旧友も見事にシービスケットを勝利に導いてくれます)
しかし、こういう、うがった見方しかできないのも、ある意味、悲しいことかもしれませんね。(どうも猜疑心が強くて…)
人間もそんな悪いヤツばかりじゃない。本当は、誰しもが心の中に、人を思い遣る優しさを宿しているもの。失敗しても、それを責めず、また挽回する機会を与えようとする心の広さ。「完璧なものなどない」と、わずかな可能性にも賭けてみようとするひたむきさ。
仮にそれが作り物だとしても、そういった人間像を、一つのきちんとした映像作品として世に出すことも、やはり必要なことだと思います。
昨今の、スタイリッシュではあるけれど、どこか軽薄でいい加減な印象すら与えるものばかり見続けていれば、いやがおうにも、それが一つの指標となってしまい、ややもすると、人間の価値観をも大きく左右することにもなりかねません。それほど、映像が人に与える影響は意外に大きなものです。
いろんなジャンルの作品を、自分の好みに合わせて、自由に見ることができるのが理想でしょう。重厚な大作も、軽いコメディーも、アクション満載の活劇も、しみじみとした叙情あふれる人間ドラマも。
時節柄、とかく観客動員や賞レースばかり取り沙汰されがちですが、そんなことは本来はどうでもいいこと。(○年前のアカデミー賞作品は?と聞かれても多分即答できないでしょう)
それよりも、心に残る1本に出会うことの方が何より大事なのでは?
最後に蛇足ながら、現在、日本にも、このシービスケットの4代か5代後の子孫が数頭いるそうです。そういう話を耳にすると、やはり実話なのか…と、妙に納得できてしまうのですから不思議なものです。
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年末年始テレビ見聞録(04/1/14) |
毎年、年末年始になると、なぜかテレビを占拠する時代物のドラマや映画。今年も多くの新作・再放送がありましたが、その中で、特に目を引いたものを、いくつか取り上げてみたいと思います。
「太閤記〜サルと呼ばれた男」(03/12/27)
これまで数多くのドラマで取り上げられてきた豊臣秀吉の出世物語を、従来とは異なる“新感覚”で描くというコンセプトで、人を斬ることを嫌がり(怖がり?)、人を斬らずにすむ戦法にこだわり、出世街道を邁進するという、“いい人”秀吉像を前面に押し立てたスーパー時代劇。
某局製作の“スーパー時代劇”と銘打つ一連の作品群は、これまでの時代劇の常識を捨てて見ることが必須条件。そうでないと、文句ばかり言ってるうちに終わってしまうことになります。
もっとも、秀吉については、過去にあまりに多く取り上げられ、その悉くが「抜け目ない」「ずる賢い」といった、ステレオタイプな人物像だったため、私的には、こういう切り口も、時には、まあ、面白いかなと思えました。(それでも、ギリギリ許せる範囲かな?)
しかし、キャストの年齢が、あまりにも史実と違いすぎるのはいかがなものでしょう。浅井長政が信長のお父さん(下手するとお祖父さん?)ぐらいの年代というのは、あまりにも無茶苦茶です(実年齢は長政の方が下)。
「千年の恋・ひかる源氏物語」(03/12/29)
かつて映画館で見て、見たことをかなり後悔させた問題作。
これを作った人たちは、いったい何を作りたかったのか…。結局の所、世間で言われる通り“男が作った、男を喜ばせるための”映画なのだろうとしかコメントのしようがありません。
現実(?)というか、実在の藤原道長・紫式部・彰子の話の方が、そこそこ楽しめたのがせめてもの救い。
いっそ、こっちを大々的にメインにしていれば、少しは、まともな作品になっていたかも?
「竜馬がゆく」(04/1/2)
毎年恒例の10時間ドラマ。一般に“幕末物は受けない”という定説がある中、一昨年の「壬生義士伝」の予想以上の反響に気を良くしての第2弾とか。(一部には“今年の大河に引っ掛けて”との説もありますが)
坂本竜馬という人物を描くのには、10時間(正味は約8時間)ぐらいの時間数が丁度よいのか、ストーリーとしては、過不足なく、うまくまとまっていたように思います。(原作ファンには大いに不満でしょうが)
ただ、肝腎のキャストに微妙なズレというか、しっくりとこないものも感じられて、全体的に、あまり惹き付けられるものはなかったというのが正直な所でしょうか。(「壬生義士伝」の時は、後半はタオルが手放せず、もうボロボロ泣きながら見てましたからね)
そんな中で、“西郷どん”は意外にはまり役で、一瞬、かの有名なポートレートとダブって見えたのには驚きました(しかし、彼のいつもどおりの“怪しい人”な演技は、そろそろ何とかしてほしい)
後もう一人が“寺田屋お登勢”姐さん。やはり時代劇慣れした方は、台詞も、立ち居振舞いも自然で、見ていて安心。こういう粋な女優さんが、近頃少なくなっているのは、なんとも嘆かわしい…。(なんとなく、昨今は「粋」という言葉が→“ざっくばらん”→“ガサツ”と履き違えられているような気も)
「大友宗麟〜心の王国を求めて」(04/1/4)
世間的な認知度合いとしては、かなりマイナーな部類に入る人物でも、どうにかドラマ化できるのは、公共放送局の強みでしょう。
しかし、1時間半という時間枠では、あまりに短かすぎて、流れを追うだけで手一杯だったという印象。
実父との確執に始まり、相続問題にからむクーデター、さらに、他家の養子となった実弟を見殺しにするなど、戦国武将らしい紆余曲折の激しい生涯だけに、大河とまでいかなくても、せめて、全10回ぐらいの連続ドラマで見てみたかったところ。(…というと、これも10時間ドラマ向きか?)
以前大河でやった『毛利元就』と合わせて見られれば、よりわかりやすくなると思うので、何とか総集編だけでも再放送してほしいような…。
「独眼流政宗」(04/1/3-4)
もう17年も前の作品なのですよね。さすがに歴代1位の視聴率を誇るだけあって「これぞ大河!」の風格。
総集編のため、どうしても、話が飛び飛びになるのが残念な所ですが、それでも、見始めたら最後、画面に釘付けになってしまうのは、やはり、脚本の良さと、俳優陣の力演による相乗効果でしょうか。
少年時代の右目の失明、父と弟の非業の最期、母との葛藤、それに豊臣秀吉・徳川家康といった大物を敵に回しての知略を尽くした駆け引きなどなど、政宗の生涯そのものが、エピソードに事欠かない激動の一生だったのも、1年という長期にわたる大河の主人公に打ってつけだったのでしょう。
何気に気になったのは、藤原経清&安倍貞任・藤原泰衡&源義経(炎立つ)、北条時頼&謝国明&日蓮(北条時宗)、足利尊氏&登子夫妻(太平記)など、以後の大河で、再度共演が実現している組み合わせが目につき、あるいは、この「政宗」キャストの再現を狙ってのものだったのかもしれませんね。
今にして思えば、随分と贅沢な豪華キャストですが、その当時は主演者自体、ようやく脚光を浴び始め、むしろ、この政宗役でスターダムにのし上がったといっても過言ではありません。また、脇を固める俳優陣も同様で、今や性格俳優・名脇役と呼ばれる方々の中にも、この作品でようやく役者としての取っ掛かりをつかんだという人も多かったのではないでしょうか。
ついでながら、今話題の「ラスト・サムライ」コンビの政宗と松平忠輝は、実年齢は1つ違い。それが、舅と婿という役柄を、さほど違和感を与えずに見せた“演技”という名のマジック。これこそ大河ドラマの真髄でしょう。
以上の他にも、再放送ながら『聖徳太子』『新撰組』(大河ではありません)などもあり、やはり「正月には時代劇!」という考え方は根強いようです。
しかし、過去・現在の作品をない交ぜに見られるのは、私的には大歓迎で、時代や世相の違いなども感じられて、中々、興味深いものもあります。
時代劇というと、どうも若者受けしないということで、近年は、若手俳優・タレントを多く起用するのは当り前。
世代交代は当然行われるべきものとはいえ、この所の風潮には、いささか目に余るものがあります。
それでも、所作や台詞回しをきちんとチェックしていれば、将来的な投資と思えなくもありませんが、実情はその余裕すらないような…。
これは脚本にもいえ、台詞を現代語にすることで、実は、それだけで、大きなハンデを背負っているということに、果たして、どれだけの方が気付いておられるでしょう。
例えば「ありません」と「ありませぬ」。最後のたった1文字「ん」と「ぬ」の違いだけですが、実際に耳にすると、少し印象が異なるように思いませんか?
「ん」では語尾が流れてしまい、軽いというか、どこか軽薄な感じになるのに対して、「ぬ」とはっきり発音すると、語尾に止めができ、それだけで、落ち着きのようなものが出てくるから不思議です。あるいは、こんなささいな違いだけでも、脱“学芸会芝居”を可能にできるかもしれません。
長年の時代劇製作の中で、次第に形づくられた時代劇言葉(決して、当時の喋り言葉の再現ではありません)は、それだけで、時代劇のテイストを生み出す力を持った魔法のアイテム。それを使わない手はないと思うのですが…。
真に演技力のある俳優さんにとっては、現代語であろうとなかろうと、実の所、あまり関係ありません。“役として生きる”という前提は、時代劇も現代劇も同じですから、いかに説得力のある演技ができるか……要はこの一点のみ。そして、その説得力を増すためのツールとして、例えば“衣装”があり、“所作”があり、そして“言葉”があるわけです。
裏を返すと、そのお手軽ツールの一つを、あえて放棄したともいえる現代語芝居では、かえって、演技力にはっきりとした差が出てしまい、にわか俳優さんには気の毒にすら思えてきます。
いくら言い馴れない言葉で難しいといっても、過去の名作と呼ばれる映画・ドラマの2〜3本も見れば、おのずと耳に馴染んで、真似ることもそう難しくないはずです。
しかし、そんなわずかな時間すら、過密スケジュールのため、割くことのできない人気タレントを多数起用し、ほぼ“ぶっつけ本番で撮影”という状態を続けている限り、この“役者”と“タレント”の実力の格差は、益々拡がりを見せることになります。
昨年の黒船来航(ラスト・サムライ)で、時代劇業界(?)も大きな転換期を迎え、今は、これから向かうべき方向性を手探りで模索している所なのでしょうが、ここで、しっかりとした道筋を見極めておかなければ、今後、「日本製時代劇の消滅」という憂き目を見ることになるかもしれませんよ。
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