官 職 〜その2 太政官〜
 
     
   次に国政の中枢を担う摂政・関白と太政官(だいじょうかん)について、見てみましょう。   
 
   摂政・関白
   
摂政  天子に代わり、政務を執り行う職。  
 女帝・幼帝の時のみで、元服後は関白となる
関白  天子を補佐して、政務を執り行う職

 摂政は、本来は皇族のみが任じられるものでしたが、平安時代に入り、清和天皇の時に外祖父の藤原良房が臣下として初めて摂政になり、以後、藤原氏一門の職となりました。  
 関白は、良房の子基経が初めて任じられた「令外の官」(大宝令などにはなかった新設の官職)で、以後、摂政と共に藤原氏一門の職となり、後年は藤原氏以外でも任官しています。  
 この摂政・関白の異称には、摂録(せつろく)・執柄(しっぺい)・博陸(はくりく)・殿下(てんが)などがあり、また、退任した前の摂政・関白は、大殿(おおとの)・太閤(たいこう)、出家した場合には禅閤(ぜんこう)とも言います。  
 さらに、摂政・関白の妻を「北の政所」、母を「大北の政所」(略して「大政所」)といい、後世、関白になった豊臣秀吉を「太閤」さんと呼んだのと同様、妻や母の呼称もこれに習ったものです。  
 なお、『平家物語』中では、次のように推移します。
 (括弧内の年齢は任官時)  
 
保元3(1158) 8.11  近衛基実(16歳)
永萬2(1166) 7.27  松殿基房(23歳:基実の弟)
治承3(1179)11.17  近衛基通(20歳:基実の子)
寿永2(1183)12. 8  松殿師家(12歳:基房の子)
寿永3(1184) 1.22  近衛基通(25歳:還任)
文治2(1186) 3.12  九条兼実(38歳:基実・基房の弟)


   内覧
     太政官より天皇に文書を奏上する前に、内見する役で、関白には必ずこの内覧の宣旨を下されることになっているので、実質的には、関白と同等の権限を有する職と言えます。

 
     
    太政官 (だいじょうかん)
     律令制において、国政の最高機関で、天下の大政を総理する役所のことです。現代で言うところの内閣のようなものでしょうか。
 なお、「だ
じょうかん」が正しく、「だじょうかん」は明治維新後の呼称になります。  
 
   太政大臣(だいじょうだいじん)
     太政官の最高の官ながら、適任者がいなければ任命されないことから、「則闕(そっけつ)の官」ともいいます。
 特に職掌(役目)はなく、当初は皇太子が任ぜられていました。そのため、この職を務めた人は、死後に諡(おくりな)を下されるなどの特別待遇を受けることができるのですが、出家した場合には、この沙汰もありません。
 相国(しょうこく)・大相国(だいしょうこく)・大師(たいし)・太傅(たいふ)・大尉(たいい)などとも言います。
 
平   清 盛 仁安2(1167) 2.11 〜  同 年  5.17
花山院 忠雅 仁安3(1168) 8.10 〜 嘉応2(1170) 6. 6
近 衛 基 房 嘉応2(1170)12.14 〜 嘉応3(1171) 4.20
およそ6年間 空位
藤 原 師 長 安元3(1177) 3. 5 〜 治承3(1179)11.17
     
   左大臣
     太政大臣に次ぐ太政官の職ですが、太政大臣は職掌もない「則闕の官」なので、実質上は、この左大臣が政務を統領する最高責任者となります。
 左府(さふ)・左相国(さしょうこく)・左丞相(さじょうしょう)・左僕射(さぼくや)・左揆(さき)などとも言います。
 藤原経宗は、仁安元年に48歳で任官して以来、文治5年に71歳で亡くなるまで、21年間左大臣に在位し続けました。
 
   右大臣
     太政大臣、左大臣に次ぐ地位ですが、左大臣が空席または出仕不能、あるいは左大臣が関白を兼任している場合には、代って政務を総裁することもありました。
 右府(うふ)・右相国(うしょうこく)・右丞相・右僕射(うぼくや)・右揆(うき)などとも言います。
 九条兼実は仁安元年に18歳で任官して以来、文治2年に摂政となるまでの20年間、右大臣に留まりました。
 
    以上、太政大臣・左大臣・右大臣を総称して三公・三槐とも言います。
 
   内大臣
     左右大臣を補佐する大臣(令外の官)で、蓮府(れんぷ)・槐門(かいもん)・内府(ないふ)などとも言います。
 
九 条 兼 実 長寛 2(1164)閏10.23
平   清 盛 仁安元(1166) 11.11
花山院 忠雅 仁安 2(1167)  2.11
源   雅 通 仁安 3(1168)  8.10
藤 原 師 長 安元元(1175) 11.28
平   重 盛 安元 3(1177)  3. 5
近 衛 基 通 治承 3(1177) 11.17
平   宗 盛 寿永元(1182) 10. 3
徳大寺 実定 寿永 2(1183)  4. 5
松 殿 師 家 寿永 2(1183) 11.21
徳大寺 実定 元暦元(1184)  1.22
九 条 良 通 文治 2(1186) 10.29

 
   大納言
     太政官の次官で、大臣と共に政事を議し、大臣不在の時は太政官の政務を専行します。そもそも納言とは「下の言を上に納れ、上の言を下に宣ぶる」ことを意味します。
 亜相
(あしょう)・亜槐(あかい)・献納(けんのう)などとも言いますが、この「亜」は「つぐ」の意で、よって、亜相とは丞相(大臣)につぐ職を意味します。
 
   中納言
     大納言に次ぐ役職で、これも令外の官。参議・大弁・近衛中将・検非違使別当のいずれかを勤めたものか、摂関の子息でなければ任官の難しい職で、黄門(こうもん)とも言います。
 「天下の副将軍!」水戸の御老公様も、勿論、この中納言に任じられています。
 
   参議
     大臣、大・中納言に次ぐ重職。令外の官。蔵人頭・左右大弁・近衛中将・左中弁・式部大輔のほか、五か国の国司歴任者、三位の位階を持つ者の中から任命されます。
 借字を用いて「三木」と書くこともあり、また、宰相
(さいしょう)・相公(しょうこう)・八座(はちざ)などとも言います。
 
   以上、大中納言・参議を「卿」と言い、三公(太政・左・右大臣)と卿を総じて「公卿」と呼びますが、これにも異称があって、上達部(かんだちめ)、月卿(げっけい)、卿相(けいしょう)、棘路(きょくろ)などとも言います。
    大納言、中納言と来て、では少納言は?
 
   少納言
     詔勅宣下のことを掌り、内印(「天皇御璽」と彫られた天皇の御印)や外印(「太政官印」と彫られた印)を取り扱う。侍従を兼任。
 大・中納言が内閣を構成する議員とすれば、少納言は事務方の官僚と言ったところでしょうか。
 「侍従」という天皇に近侍する役を兼任することから、かつては、それなりの要職でしたが、蔵人(後述)の出現により、その職権も衰えることになりました。
 
   
  (2003.7.1 up)
   
 
     
 
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