玉 葉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『ぎょくよう』と読みます。著者は摂政関白 九条兼実。
公卿日記といえば、『○○記』というのが一般的ですが、この『玉葉』という書名は、兼実の父忠通の日記『玉林』に由来するとかで、兼実の孫の九条道家の日記も『玉蘂』(ぎょくずい)といいます。 他に『玉海』の異称もありますが、これは南北朝時代に、九条家の分流である二条家において、時の当主関白良基が新たな写本を作る際に、『玉海』に改めたとされています。 数ある公卿日記の中でも、特に闕巻が少なく、源平争乱期の動勢が克明に記されていることから、この時代の研究者にとって、何をおいてもまず目を通すべき最上位の史料に位置付けられています。 『平家物語』の解説本には、決まって「玉葉××年×月×日の条」とあるのが良い例です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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九条兼実の人物像については、往古人物記 を参照して下さい。
『玉葉』は、長寛2(1164)年より正治2(1200)年に至るおよそ36年に渡る記録ですが、これが丁度、『平家物語』の時代に重なり、有名な歴史事項に触れた多くの記述は、早くから歴史研究家の注目の的でした。 とにかく兼実の有した情報網は多彩で、平家一門や治天の君後白河院の周辺、摂政氏長者をめぐる政敵近衛家・松殿家の内情といった兼実自身の身近な情報は勿論、鎌倉の頼朝や奥州藤原氏、西国の動静にまで及ぶそのバラエティーに富んだ記事の数々は、『平家物語』中のエピソードの多くを網羅し、事実関係の確認に欠くべからざる素材といえます。 が、その反面『平家物語』も一種の時代小説であり、いかに事実と異なる部分を多く含んでいるかを提起するものでもあります。 全66巻と膨大な書量に加えて、漢文調の難解な記述形式ということで、拙い読解力には正確さの点では少々心もとないものの、特に気になる事象をピックアップしてご紹介したいと思います。 「殿下乗合」事件――真の首謀者は? 時の摂政基房の行列を横切ろうとして、殴る蹴るの暴行を受けるなど、散々な目に遭った平重盛の次男資盛、それを知って激怒した祖父の清盛が、報復に基房主従を襲わせた―― 平家悪行の始まりとされる有名な事件で、『玉葉』にも勿論それに関する記事がありますが、その中身については、随分と異なる様相を呈しています。 嘉応2(1170)年7月3日の条〈巻5〉によれば、摂政基房の従者が資盛主従に暴行を加えたのは事実ながら、直後に基房は資盛の父である重盛に謝罪の使者を送ったとあります。それも重盛の不快の程を知って、当事者の随身と前駆の7名を勘当するなど、基房は誠意をこめて謝罪した旨を記しています。 しかし、重盛はそれでも許さず、この後、幾度も報復の機会を狙っていた節があり、『平家物語』に見える賢人然とした重盛の人物像とは随分違った印象を与えます。 そして三ヶ月後の10月21日に、例の報復騒動が起こるわけですが、その三日後の10月24日に、参内した重盛が多くの武士を伴っていたとあり、俗に清盛の命令によるとされるこの事件が、実は重盛が主体であったことを、『玉葉』ではほのめかす程度に留めていますが、兼実の弟慈円などは著書『愚管抄』の中で、はっきりと明記していることからして、重盛の起こした事件と見て、まず間違いないでしょう。 『平家物語』における重盛は、聡明かつ何事にも動じない豪胆さを兼ね合わせた名君で、彼の早すぎた死が、さも平家一門を滅亡に追いやったように描かれています。 ところが、『玉葉』によれば、重盛と小松一門は、この他にも幾つか騒動を起こしており、実の所、この一家は案外頼りがいのない、平々凡々とした、ごくありきたりの二代目・三代目達だったと見る方が、現実的のような気がします。 清盛は本当に悪人か? 重盛を善人の代表に据える『平家物語』では、反対に父清盛=極悪人の図式があり、その非道ぶりが常に強調されています。 美貌の公達 重盛の嫡男維盛が、光源氏の再来と噂されるほどの美貌の持ち主だったことは、建礼門院右京太夫集を始め多くの文献で知られていますが、兼実もまた随分と興味を持って見ていたようです。〈承安5(1175)/5/27〉、後白河院五十の賀で青海波を舞う姿を『維盛容貌美麗、尤足耽美』と評する〈安元2(1176)/1/23〉など、この時代の風潮からして、やはり○○の嗜みは常識と見るべきでしょうか。 『玉葉』を通して思うのは、平家一門の中では、特に重盛の系統である小松家の公達に関する記事に、興味深いものが多いように感じます。 都落ちの後、資盛が後白河院の許に戻ることを熱望していたこと〈寿永2(1183)/11/12〉、さらに、一の谷の合戦の直後の風聞として、維盛が少数の軍勢と共に離反したことや、資盛が豊後国の反平家勢力に生け捕りにされていること〈寿永3(1184)/2/19〉など、随分と内々の話まで耳にしており、こうした京外の情報すら、いとも簡単に入手できるほど、兼実の情報網は広く充実したものであったということでしょう。 とりわけ維盛の逐電については、『平家物語』が語る、世をはかなんでの隠遁というよりは、宗盛ら主流派の先行きの見えない采配に見切りをつけ、新天地を求めて、旅立って行ったようにも受け取れます。 しかし、いずれにせよ、これ以後、維盛に関する記事は見当たらず、共に落ち延びた軍勢がどこへ行ってしまったのか……、その答えまでは兼実の耳には達しなかったようです。 女院 1170年頃には、女院と呼ばれる女性は皇嘉門院(藤原聖子・崇徳后)、九条院(藤原呈子・近衛后)、上西門院(後白河准母)、八条院(二条准母)、建春門院(平滋子・高倉母)、高松院(二条后)の6人がいましたが、この当時、最もときめいていたのは、後白河院の寵妃建春門院でした。〈養和元(1181)/11/25〉は在俗のままで、壇ノ浦での平家滅亡の後に出家しています〈元暦2(1185)/5/1「吉記」〉。 義経改名事件 源義経は兄頼朝との反目により追討の宣旨が下された逃避行中、義経という名が九条兼実の次男良経と音が同じ(ヨシツネ)では具合が悪いという理由で、『義行』さらに『義顕』と改名されていたことが、書中に散見します。〈治承4(1180)/5/16〉 そもそもは、兼実がある公卿との雑談の中で、今は朝敵である義経が、我が子良経と同じ呼び名であることを不快に思い、本来ならば義経が改名すべき所、いっこうに改めようとはしないので、こうなったら良経の名を改める他ないと語ったことに端を発しています〈文治元年(1185)11月11日〉。 そこで、新たな名前として「良輔」「経通」を挙げてみるものの、公達の名前にも様々な制約があるようで、過去の公卿に同じ名前がある場合は避ける方が良いなどの理由で断念したようです。 翌年の文治2年6月2日に「九郎義行」の名が唐突に現れ、鞍馬に潜伏しているとの報告があったとあり、以後しばらくは「義行」と表記されているのが、同年11月24日に、さらに「義行」から「義顕」に改名されたことが記されています。 しかし、いずれにしても、これらは朝廷内部における話であって、義経であれ以仁王であれ、当の本人が果たしてそのことを知っていたかどうか……、それはわかりません。 奥州藤原氏のお家事情 京を追われ、各地を転々とした義経が、最後に身を寄せた奥州平泉。 以上、本当に簡単な説明でよくわからないかとも思いますが、私自身も内容が整理できていないため、長々と書いても、余計に頭をこんがらせるだけのような気がしますので、これにてお終いにさせていただきます | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【玉葉】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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〈玉葉−我楽多文庫〉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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