玉 葉
 
   
   『ぎょくよう』と読みます。著者は摂政関白 九条兼実。   
 公卿日記といえば、『○○記』というのが一般的ですが、この『玉葉』という書名は、兼実の父忠通の日記『玉林』に由来するとかで、兼実の孫の九条道家の日記も『玉蘂』(ぎょくずい)といいます。   
 他に『玉海』の異称もありますが、これは南北朝時代に、九条家の分流である二条家において、時の当主関白良基が新たな写本を作る際に、『玉海』に改めたとされています。   
    
 数ある公卿日記の中でも、特に闕巻が少なく、源平争乱期の動勢が克明に記されていることから、この時代の研究者にとって、何をおいてもまず目を通すべき最上位の史料に位置付けられています。   
 『平家物語』の解説本には、決まって「玉葉××年×月×日の条」とあるのが良い例です。   
    
 
  【九条兼実 略歴】
 
天 皇 年 月 日 年齢 位 階 官 職 等 備   考
後白河 1158(保元3)  1.29  10 正五位下  禁色昇殿を許される  元服日
二 条 1160(永暦1)  2.28  12 従 三 位    左中将 如元
〃    6.20  正 三 位    
〃    8.11   権中納言  
〃    8.14   左権中将 更任  
〃    10.11  従 二 位    行幸院賞
1161(永暦2)  8.19  13  右大将  
〃 (応保1)  9.13   権大納言  
1162(応保2)  1.10  14 正 二 位    行幸院賞
〃    2.19   中宮大夫  
1164(長寛2)閏10.23  16  内大臣  
六 条 1166(仁安1)  8.27  18  左大将  
〃    10.10   皇太子傅  
〃    10.21   左大将を辞任  
〃    11.11   右大臣  
高 倉 1168(仁安3)  2.19  20  皇太子傅を停止  高倉天皇の践祚
 による
1174(承安4)  1. 7  26 従 一 位    大臣労
安 徳        右大臣のまま
後鳥羽 1185(文治1) 12.28  37  内覧の宣旨を蒙る  
1186(文治2)  3.12  38  摂政・氏長者となる  
〃    10.17   右大臣を辞任  
1189(文治5) 12.14   太政大臣  
1190(建久1)  4.19  42  太政大臣を辞任  
1191(建久2) 12.17  43  摂政を改め関白となる
 (准摂政)
 後鳥羽天皇の成人
 による
1195(建久7) 11.25  48  関白職を停止される  上表なし
土御門 1201(建仁2)  1.28  54  出家  法名 圓證
1206(承元1)  4. 5  59  薨去  
   
    
   九条兼実の人物像については、往古人物記 を参照して下さい。   
 『玉葉』は、長寛2(1164)年より正治2(1200)年に至るおよそ36年に渡る記録ですが、これが丁度、『平家物語』の時代に重なり、有名な歴史事項に触れた多くの記述は、早くから歴史研究家の注目の的でした。   
    
 とにかく兼実の有した情報網は多彩で、平家一門や治天の君後白河院の周辺、摂政氏長者をめぐる政敵近衛家・松殿家の内情といった兼実自身の身近な情報は勿論、鎌倉の頼朝や奥州藤原氏、西国の動静にまで及ぶそのバラエティーに富んだ記事の数々は、『平家物語』中のエピソードの多くを網羅し、事実関係の確認に欠くべからざる素材といえます。   
 が、その反面『平家物語』も一種の時代小説であり、いかに事実と異なる部分を多く含んでいるかを提起するものでもあります。   
    
 全66巻と膨大な書量に加えて、漢文調の難解な記述形式ということで、拙い読解力には正確さの点では少々心もとないものの、特に気になる事象をピックアップしてご紹介したいと思います。   
    
    
「殿下乗合」事件――真の首謀者は?    
 時の摂政基房の行列を横切ろうとして、殴る蹴るの暴行を受けるなど、散々な目に遭った平重盛の次男資盛、それを知って激怒した祖父の清盛が、報復に基房主従を襲わせた――   
 平家悪行の始まりとされる有名な事件で、『玉葉』にも勿論それに関する記事がありますが、その中身については、随分と異なる様相を呈しています。   
    
 嘉応2(1170)年7月3日の条〈巻5〉によれば、摂政基房の従者が資盛主従に暴行を加えたのは事実ながら、直後に基房は資盛の父である重盛に謝罪の使者を送ったとあります。それも重盛の不快の程を知って、当事者の随身と前駆の7名を勘当するなど、基房は誠意をこめて謝罪した旨を記しています。   
 しかし、重盛はそれでも許さず、この後、幾度も報復の機会を狙っていた節があり、『平家物語』に見える賢人然とした重盛の人物像とは随分違った印象を与えます。   
 そして三ヶ月後の10月21日に、例の報復騒動が起こるわけですが、その三日後の10月24日に、参内した重盛が多くの武士を伴っていたとあり、俗に清盛の命令によるとされるこの事件が、実は重盛が主体であったことを、『玉葉』ではほのめかす程度に留めていますが、兼実の弟慈円などは著書『愚管抄』の中で、はっきりと明記していることからして、重盛の起こした事件と見て、まず間違いないでしょう。   
    
 『平家物語』における重盛は、聡明かつ何事にも動じない豪胆さを兼ね合わせた名君で、彼の早すぎた死が、さも平家一門を滅亡に追いやったように描かれています。   
 ところが、『玉葉』によれば、重盛と小松一門は、この他にも幾つか騒動を起こしており、実の所、この一家は案外頼りがいのない、平々凡々とした、ごくありきたりの二代目・三代目達だったと見る方が、現実的のような気がします。   
  
    
    
 清盛は本当に悪人か?   
 重盛を善人の代表に据える『平家物語』では、反対に父清盛=極悪人の図式があり、その非道ぶりが常に強調されています。   
 しかし、出家後の清盛は中央政権からは退き、福原の別荘で隠居状態にありました。よって、政治向きのことは嫡男重盛や義弟の時忠、あるいは、盟友関係にあった藤原邦綱などが重きを担い、清盛自身は何か事ある時に出張ってくるという具合で、その場合も、用が済めばまたすぐに福原へ戻り、京に長く逗留することはあまりなかったようです。   
    
 「祇王」の段の舞台となる西八条亭も、『玉葉』中に【八条二品亭】との名称で何度も登場しますが、この八条二品とは清盛の正妻時子を指し、その時子が事実上の主である館に、自分の愛人を住まわせたというのは疑わしいものです。   
 というのも、清盛も時子も共に平氏の出ながら、その系統は全く異なり、当時の家格では、時子の家系の方が数段上でした。   
 その上、時子が建春門院滋子の異母姉とくれば、政治的な面を鑑みても、時子とその一族には、頭が上がらないとまではいかなくても、それなりの気配りを怠ることはなかったと思われます。   
    
 善悪という尺度の判定は難しく、一刀両断にできるものではありませんが、ともかく、一代にして栄華を築いた平清盛は、やはり稀有なる傑物であったと見るべきでしょう。   
 
    
    
 美貌の公達   
 重盛の嫡男維盛が、光源氏の再来と噂されるほどの美貌の持ち主だったことは、建礼門院右京太夫集を始め多くの文献で知られていますが、兼実もまた随分と興味を持って見ていたようです。   
 最勝光院での建春門院百日御懺法結願の折に『少将維盛(重盛嫡子)、衆人之中、容顔第一也』と言ったり
〈承安5(1175)/5/27〉、後白河院五十の賀で青海波を舞う姿を『維盛容貌美麗、尤足耽美』と評する〈安元2(1176)/1/23〉など、この時代の風潮からして、やはり○○の嗜みは常識と見るべきでしょうか。   
    
 『玉葉』を通して思うのは、平家一門の中では、特に重盛の系統である小松家の公達に関する記事に、興味深いものが多いように感じます。   
 都落ちの後、資盛が後白河院の許に戻ることを熱望していたこと
〈寿永2(1183)/11/12〉、さらに、一の谷の合戦の直後の風聞として、維盛が少数の軍勢と共に離反したことや、資盛が豊後国の反平家勢力に生け捕りにされていること〈寿永3(1184)/2/19〉など、随分と内々の話まで耳にしており、こうした京外の情報すら、いとも簡単に入手できるほど、兼実の情報網は広く充実したものであったということでしょう。   
 とりわけ維盛の逐電については、『平家物語』が語る、世をはかなんでの隠遁というよりは、宗盛ら主流派の先行きの見えない采配に見切りをつけ、新天地を求めて、旅立って行ったようにも受け取れます。   
 しかし、いずれにせよ、これ以後、維盛に関する記事は見当たらず、共に落ち延びた軍勢がどこへ行ってしまったのか
……、その答えまでは兼実の耳には達しなかったようです。
  
    
    
 女院   
 1170年頃には、女院と呼ばれる女性は皇嘉門院(藤原聖子・崇徳后)、九条院(藤原呈子・近衛后)、上西門院(後白河准母)、八条院(二条准母)、建春門院(平滋子・高倉母)、高松院(二条后)の6人がいましたが、この当時、最もときめいていたのは、後白河院の寵妃建春門院でした。   
 今上帝の母后ということで、多くの公卿がご機嫌伺いのために彼女の許に集まったのは自然の流れでしょう。   
    
 ところで『玉葉』でも【女院】という表記が頻繁に出てきますが、これらは概ね皇嘉門院を指します。摂関家流の人間である兼実からすれば、建春門院は成り上がりの感は否めず、異母姉であり、養母でもあった皇嘉門院こそ、身近でかつ最も敬意を払うべき人物だったということでしょう。   
 一方、これが『吉記』になると、著者の吉田経房が建春門院判官代という職にあったこともあって、建春門院の比重が大きくなるわけです。   
    
 ついでながら、女院とは、院号の宣下を受けた女性のことで、「…院」と「…門院」の二種類があります。天皇の生母・准母、三后と呼ばれる皇后(中宮)・皇太后・大皇太后、この他に内親王などにも与えられ、その待遇は上皇に准じるもので、年官・年爵・封戸などの支給より、安定した経済基盤を得られるようになります。   
    
 なお「…院」というと、ついつい尼姿をイメージしがちですが、女院と言っても出家の有無は関係なく、安徳帝の生母平徳子も、建礼門院の号を受けた当時
〈養和元(1181)/11/25〉は在俗のままで、壇ノ浦での平家滅亡の後に出家しています〈元暦2(1185)/5/1「吉記」〉
  
    
 義経改名事件   
 源義経は兄頼朝との反目により追討の宣旨が下された逃避行中、義経という名が九条兼実の次男良経と音が同じ(ヨシツネ)では具合が悪いという理由で、『義行』さらに『義顕』と改名されていたことが、書中に散見します。   
 これは以仁王が謀反を企てた時にも、『仁』という字が天皇家の通字であり、それを罪人が名乗ることを憚って、慌てて臣籍降下の上『源以光』と改名した例があります。
〈治承4(1180)/5/16〉   
    
 そもそもは、兼実がある公卿との雑談の中で、今は朝敵である義経が、我が子良経と同じ呼び名であることを不快に思い、本来ならば義経が改名すべき所、いっこうに改めようとはしないので、こうなったら良経の名を改める他ないと語ったことに端を発しています
〈文治元年(1185)11月11日〉。   
 そこで、新たな名前として「良輔」「経通」を挙げてみるものの、公達の名前にも様々な制約があるようで、過去の公卿に同じ名前がある場合は避ける方が良いなどの理由で断念したようです。   
 翌年の文治2年6月2日に「九郎義行」の名が唐突に現れ、鞍馬に潜伏しているとの報告があったとあり、以後しばらくは「義行」と表記されているのが、同年11月24日に、さらに「義行」から「義顕」に改名されたことが記されています。   
 しかし、いずれにしても、これらは朝廷内部における話であって、義経であれ以仁王であれ、当の本人が果たしてそのことを知っていたかどうか
……、それはわかりません。
  
    
 奥州藤原氏のお家事情   
 京を追われ、各地を転々とした義経が、最後に身を寄せた奥州平泉。   
 ここには、安元3(1177)年の「鹿谷事件」で流罪となり、やがて、秀衡の近臣として重用されるようになった中原基兼がおり、その線から得た情報でしょうか、かなり詳しい記載があります。その中でも、秀衡の臨終に際しての記事が注目されます。   
 まず、秀衡の息子について『兄多腹之嫡男也、弟当腹太郎也』とあり、長男国衡が庶子であり、次男泰衡が正室を母に持つ秀衡の後継者であることを示しています。   
 そして、庶子である国衡に、秀衡は自らの正室(泰衡の母)を妻に与えると共に、義経を主君と仰ぎ、兄弟力を合わせて頼朝を攻めるようにと遺言したとあります。
  
    
 以上、本当に簡単な説明でよくわからないかとも思いますが、私自身も内容が整理できていないため、長々と書いても、余計に頭をこんがらせるだけのような気がしますので、これにてお終いにさせていただきます   
    
    
   
 
【玉葉】
 
名著
刊行
会版
収録月 備   考  〈 〉は記載日 訓読
玉葉

 
巻 1 1164(長寛2)年 
1166(仁安1)年 
1167(仁安2)年 
閏10月のみ
10−12月
 1−12月
 
 東宮(高倉帝)御袴着の儀
〈仁安1/12/22〉
 五条内裏 焼亡
〈仁安2/9/27〉
1
巻 2 1168(仁安3)年  1−3・8・
 11−12月
 平清盛 重病に臥す〈2/9〜〉
 高倉天皇 践祚
〈2/19〉
巻 3 1169(仁安4)年 
〃 (嘉応1)年 
1・4・6・
 11−12月
 後白河院 出家〈6/17〉
 藤原成親 流罪(備中)
〈12/25〉
 平時忠(出雲)、平信範(備後)流罪
〈12/28〉
巻 4 1170(嘉応2)年   1− 3月  山門より訴(成親配流、時忠卿召返)〈1/26〉
巻 5 〃  〃  年   4−12月  近衛基通 元服(九条兼実加冠)〈4/23〉
 藤原秀衡を鎮守府将軍に任ずる
〈5/27〉
 摂政基房 平資盛の非礼を咎める
〈7/3〉
 後白河院福原御幸 宋人を叡覧
〈9/20〉
 摂政基房 武者の狼藉に遭う
〈10/21〉
巻 6 1171(嘉応3)年 
〃 (承安1)年 
 1− 3月  高倉帝 元服〈1/3〉
巻 7 〃  〃  年   4−12月  摂政基房、藤原忠雅の娘を娶る〈8/10〉
 平清盛の娘徳子 入内
〈12/14〉
 平徳子 女御宣下
〈12/26〉
巻 8 1172(承安2)年   1− 3月  平徳子 中宮冊命〈2/10〉
巻 9 〃  〃  年   4− 6月  賀茂祭 中宮使平重衡〈4/23〉
巻10 〃  〃  年   7−11月  
巻11 〃  〃  年   12−閏12月  平重盛家人 春日神人と闘諍事〈12/24〉
巻12 1173(承安3)年   1− 6月  後白河院・平清盛 宋国へ進物〈3/12〉
 院御所七条殿 焼亡
〈4/12〉
 賀茂祭 中宮使平維盛
〈4/23〉
 高雄聖人文覚 院中にて狼藉
〈4/29〉
2
巻13 〃  〃  年   7−12月  建春門院新御堂供養(最勝光院)〈10/21〉
巻14 1174(承安4)年   1− 9月  後白河院・建春門院厳島御幸〈3/16〉
巻15 〃  〃  年  10−12月  春日祭使平維盛 病と称し途中帰洛〈11/15〉
 関白基房 清経(重盛子)少将任官に立腹
(12/15〉
巻16 1175(承安5)年   1− 3月  
巻17 〃  〃  年 
〃 (安元1)年 
 4−閏9月  中宮徳子 病のため宮中より退出〈8/19〉
巻18 〃  〃  年  10−12月  
巻19 1176(安元2)年  1月のみ  後白河院五十賀の舞御覧〈1/23〉
巻20 〃  〃  年   2− 3月  後白河院五十の御賀〈3/4〉 3
巻21 〃  〃  年   4− 9月  建春門院 病床に臥す〈6/11〜〉
 建春門院 逝去
〈7/8〉
 六条院(先帝)崩御
〈7/17〉
巻22 〃  〃  年  10−12月  法皇の皇子(遊女腹)高倉帝の養子となる〈10/29〉

 
巻23 1177(安元3)年   1− 3月  内大臣師長 左大将辞任    〈1/25〉
 平重盛左大将・宗盛右大将任官
〈同日〉
巻24 〃  〃  年   4− 6月  加賀守藤原師高 尾張国配流〈4/20〉
 前天台座主明雲 伊豆国配流〈5/22〉
 山門大衆前座主明雲を奪還〈5/23〉
 師光法師(西光) 梟首   〈6/2〉
 大納言藤原成親 備前国配流〈同日〉
巻25 〃  〃  年 
〃 (治承1)年 
 7−12月  讃岐院の号を止め、崇徳院を追号〈7/29〉
 成範娘(小督)皇女を出産
〈11/4〉
巻26 1178(治承2)年   1− 9月  中宮徳子 懐妊〈6/6〉
 中宮 着帯の儀
〈6/28〉
 右大将平宗盛室 逝去
〈7/16〉
 中宮内裏を退出
〈8/16〉
巻27 〃  〃  年  10−11月  中宮御産、皇子降誕〈11/12〉 4
巻28 〃  〃  年   12月  若宮親王宣下(言仁親王)〈12/8〉
 言仁親王(安徳帝)立太子
〈12/15〉
巻29 1179(治承3)年   1月のみ  東宮(言仁親王)御五十日〈1/6〉
巻30 〃  〃  年   2− 6月  春日祭使 平重衡〈2/8〉
 平重盛 病により出家
〈5/25〉
 平盛子(白川殿)逝去
〈6/17〉
巻31 〃  〃  年   7−12月  平重盛(入道内府)薨去〈7/29〉
 盛子・重盛の死は西光法師怨霊の為の落書
〈8/17〉
 関白基房ら罷免
〈11/15〉
 前僧正明雲 天台座主に還任
〈11/16〉
 東宮 西八条亭に行啓
〈12/16〉
巻32 1180(治承4)年   1月のみ  
巻33 〃  〃  年   2− 3月  大輪田泊 修築の宣下〈2/20〉
 譲位事・安徳帝践祚
〈2/21〉
 高倉院 厳島御幸
〈3/19〉
巻34 〃  〃  年   4− 6月  安徳帝 即位〈4/22〉
 廻飄(つじかぜ)起こる〈4/29〉
 三条高倉宮(以仁王)配流、逃亡
〈5/15〉
 以仁王の謀反追討
〈5/26〉
 福原行幸、遷都
〈6/2〉
巻35 〃  〃  年   7−12月  関東叛逆の報(頼朝挙兵)〈9/9〉
 関東追討軍(大将維盛)発遣
〈9/29〉
 高倉宮生存説あり
〈10/8〉
 維盛等追討軍敗走
〈11/1〉
 還都決定
〈11/13〉
 近江・伊賀へ追討使発遣
〈12/2〉
 南都攻撃、東大寺・興福寺焼亡〈
12/28〉
巻36 1181(治承5)年 
〃 (養和1)年 
 1−12月  高倉院 危篤〈1/12〉
 中宮を法皇の後宮に入れるべしとの風聞
〈1/13〉
 高倉院 崩御
〈1/14〉
 源頼朝重病説流れる
〈1/20〉
 清盛(禅門)頭風を病む
〈2/28〉
 平清盛 薨去
〈閏2/4〉
 関東追討軍(大将重衡)発遣
〈閏2/15〉
 墨俣の合戦
〈3/13〉
 頼朝が藤原秀衡の娘を娶るとの風聞
〈4/21)
 北陸道追討使平通盛下向
〈7/19〉
 北陸追討軍 撤退
〈9/12)
 中宮徳子 建礼門院の院号宣下
〈11/25〉
5
巻37 1182(養和2)年 
〃 (寿永1)年 
 1−12月  平宗盛 内大臣任官〈10/3〉
巻38 1183(寿永2)年   1− 9月  北陸追討軍 木曽勢に敗退〈6/4〜6〉
 法皇逐電、平家都落ち
〈7/25〉
 木曽義仲入京
〈7/28〉
 木曽勢の悪行
〈8/10〉
 義仲 従五位下左馬頭兼越後守任官
〈8/10〉
 新帝の御占を行う
〈8/18〉
 後鳥羽帝(高倉院四宮)践祚
〈8/20〉
 頼朝文覚聖人を以て義仲等を勘発
〈9/25〉
巻39 〃  〃  年  10−12月  水島の合戦〈閏10/2〉
 法住寺合戦
〈11/19〉
 松殿師家 摂政内大臣任官
〈11/22〉

 
巻40 1184(寿永3)年 
〃 (元暦1)年 
 1− 6月  義仲と平氏和平の風聞〈1/9〉
 木曽義仲 粟津にて討たれる
〈1/20〉
 近衛基通摂政還補
〈1/21〉
 一の谷の合戦
〈2/6〉
 平重衡 捕虜となり入京
〈2/8〉
 屋島へ神器返還を求める書を送る
〈2/10〉
 和平交渉 頼朝不承諾により決裂
〈3/1〉
 平重衡 鎌倉下向
〈3/10〉
 頼朝 九条兼実を摂政氏長者に推挙
〈3/23〉
 大仏再建に頼朝千両、秀衡五千両を寄進
〈6/23〉
巻41 〃  〃  年   7−12月  後鳥羽帝即位〈7/28〉
 文覚 源義朝の首を鎌倉へ持参
〈8/18〉
 摂政基通 頼朝の婿になるとの風聞
〈8/23〉
巻42 1185(元暦2)年   1− 9月  屋島の合戦〈3/4・16〉
 壇ノ浦の合戦
〈3/27-28・4/4〉
 神鏡神璽 入京
〈4/25〉
 平宗盛ら 入京
〈4/26〉
 平宗盛・清宗、重衡処刑
〈6/22-23〉
 大地震
〈7/9〉
 以仁王生存説再浮上
〈7/23〉
 義経 伊予守補任
〈8/12〉
 東大寺大仏開眼
〈8/28〉
巻43 〃 (文治1)年  10−12月  義経 行家と共に鎌倉に反旗を翻す〈10/13〉
 頼朝追討の宣旨〈10/18〉
 義経 行家ら西海に赴く〈11/3〉
 義経改名事〈11/11〉
 北条時政入京〈11/24〉
 頼朝 議奏公卿設置を進上〈12/27〉
6
巻44 1186(文治2)年   1− 3月  九条兼実に摂政氏長者の宣下〈3/16〉
巻45 〃  〃  年   4− 6月  義経 鞍馬に潜伏〈6/1〉
巻46 〃  〃  年   7− 9月  
巻47 〃  〃  年  10−12月  九条良通 内大臣任官〈10/29〉
巻48 1187(文治3)年   1− 3月  丹後局(後白河院愛妾)三品に叙〈2/19〉
巻49 〃  〃  年   4− 6月  
巻50 〃  〃  年   7− 9月   7
巻51 〃  〃  年  10月のみ  
巻52 〃  〃  年  11−12月  
巻53 1188(文治4)年   1− 3月  義経奥州潜伏、秀衡死去〈1/9〉
 義経追討の宣旨
〈2/13〉
巻54 〃  〃  年   4−10・12月  
巻55 1189(文治5)年   1− 9月  義経 泰衡に討たれる〈5/29〉
巻56 〃  〃  年  10−12月  
巻57 1190(文治6)年  1・3−5月  後鳥羽帝元服〈1/3〉
 九条兼実の娘任子入内
〈1/11〉
 任子中宮冊命
〈4/26〉
巻58 〃 (建久1)年   7−12月  東大寺上棟〈10/19〉
 頼朝上洛
〈11/7〉
巻59 1191(建久2)年   1− 3月  
巻60 〃  〃  年   4− 5月   8
巻61 〃  〃  年   6− 9月  
巻62 〃  〃  年  10−閏12月  二宮(守貞親王)元服〈12/26〉
巻63 1192(建久3)年  1-6・8-11月  後白河院 崩御〈3/13〉
巻64 1193(建久4)年  1-5・10-12月  
巻65 1194(建久5)年  1-5・7-9月  
巻66 1195(建久 6)年 
 
1196(建久 7)年 
1197(建久 8)年 
1198(建久 9)年 
1199(建久10)年 
1200(正治 2)年 
 
1-4・9-10月
 
1-5・10-11月
1・3−4月
1・6月
1月のみ
1-2・6-7・  
9-11・閏12月
 東大寺供養〈建久6/3/12〉
 中宮着帯の儀
〈建久6/3/15〉
 
 
 譲位・土御門帝践祚
〈建久9/1/11〉
 
 中宮任子宜秋門院の院号宣下
〈正治2/6/28〉
 東宮(順徳帝)御袴着の儀
〈正治2/11/22〉
   
   
  戻る
  〈玉葉−我楽多文庫〉
   
   
   
   
   
   
広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー