兵 範 記
 
   
   『へいはんき』あるいは『ひょうはんき』と読みます。   
 著者は兵部卿
平信範。   
 平信範が晩年
兵部卿の職にあったことから、「」に信範の「」をもって、一般に『兵範記』と称されますが、他に信範の名よりそれぞれの漢字の部首をとって『人車記』、また、西洞院に屋敷があったことから『平洞記』などとも呼ばれています。   
    
 
  【平信範 略歴】
 
天 皇 年 月 日 年齢 位 階 官 職 等 備   考
鳥 羽 1121(保安2) 3.23  10    文章生  
崇 徳 1125(天治2) 1.28  14    能登大掾  
1132(天承2) 1.22  21    中宮権少進  
1134(長承3) 4. 2  23    蔵人  
1135(長承4) 3.14  24    修理亮  
1137(保延3)12.16  26    左兵衛尉  
1138(保延4) 1.22  27    左衛門少尉  
1139(保延5) 1. 5  28 従五位下    
〃  〃  1.24   甲斐権守  
近 衛 1145(天養2) 1. 5  34 従五位上    
1150(久安6) 1.12  39 正五位下    
後白河 1156(保元1) 1.28  45  少納言  
二 条 1160(永暦1)10. 4  49  蔵人  
1161(応保1) 9.15  50  左京権大夫  止 蔵人・少納言
1164(長寛2) 1.23  53  備後権守  
六 条 1165(永萬1) 8.17  54  右小弁  
1166(永萬2) 1.12  55  左京権大夫を辞任  
〃  〃  1.30  従四位下    
1167(仁安2) 2.11  56  蔵人頭  
〃  〃  4.10  従四位上    
1168(仁安3) 1. 6  57 正四位下    
高 倉 〃  〃  2.19   新帝蔵人頭  高倉帝践祚による
1169(嘉応1)12.28  58  解所職配流備後国  
1170(嘉応2) 2. 6  59  召返  
〃  〃 12. 9  正四位下  復本位  
1171(嘉応3) 1.18  60 従 三 位  非参議  
1173(承安3) 1.21   兵部卿  
1176(安元2) 3. 6  65 正 三 位    
1177(安元3) 7. 5  66  出家  
 以 後 の 記 載 は な く 没 年 未 詳
   
   
   『公卿補任』によれば、生年は天永3(1112)年。出羽守従四位上平知信の二男で、母は主殿頭藤原惟信。
 それよりも、贈左大臣平時信の弟で、平清盛の正室時子・平時信・建春門院滋子らの叔父に当たる人物と紹介した方が、わかりやすいかと思います。
 
 中流貴族の家系にあって、公卿に列せられるまでの出世を遂げたのは、勿論、そうした縁故によるところが大きかったのでしょうが、一方で、摂関家の家司として、忠通・基実父子に仕え、摂関家の厚い信頼を得ていたという事実もあり、それも加味された上での昇進と見るべきかもしれません。摂関家内々の供養事の記載が目につくのも、その忠勤ぶりを物語っているとも言えます。
 
 よって『兵範記』は、摂関家内々の供養事から、朝廷の儀礼全般、各種詔勅の文言に至るまで、実に多くの事項が記されています。
 他の公卿日記同様、闕巻部分が多く、実際の書き出しを特定することは不可能ながら、現存するものに限っても、天承2(1132)年7月から承安元(1171)年12月と、およそ40年にも及ぶ記録になります。
  
 とりわけ、亀の功より年の功と申しますか、九条兼実が生まれる以前の記述が多くあるのが、この日記の特徴でしょう。
 近衛天皇薨去から後白河天皇践祚への動き、鳥羽法皇の死から保元の乱に至る政局の混乱ぶりなど、『保元物語』に語られる事象を裏付ける貴重な資料となっています。
 乱の前後には、早世したとされる清盛の二男基盛(応保2年3月10日没)の名もしばしば現れ、『平家物語』ではとかく影の薄い彼が、左衛門尉として奮戦し、何より、この世に確かに存在したことを、後世に伝えています。
 
 一方、平治の乱については、残念ながら当該年月が闕巻しており、これがこの日記の評価を下げる一因となっているのは否めませんが、それ以前の記述に、乱の張本人となる藤原信頼の目を見張る出世ぶりや、後白河院の寵愛を笠に来た傲慢な振る舞い
〈保元3/4/20〉といった、平治の乱の前兆となる事象が具に書き記されており、それがために、一層、この闕巻が惜しまれます。
 
 やがて、自身の姪滋子の生んだ皇子が皇位に上ることになりますが、その転機となる、仁安3(1168)年2月の清盛の病・出家から、高倉天皇践祚に至る経緯についても、清盛の病が死に逼迫したものであったこと
〈仁安3/2/9〜〉、清盛が出家したその日に妻時子も同じく出家したこと〈同2/11〉、熊野御幸中の後白河院が急遽帰洛し、病床に駆けつけたこと〈同2/15〉、その翌日には高倉天皇の践祚が朝議に諮られ〈同2/16〉程なく践祚〈仁安3/2/16〉となった、日数にしてわずか十日間の、目まぐるしい急展開をつぶさに書き綴っています。
 
 高倉天皇の即位により、平家一門が外戚として朝廷の実権を掌握し、その縁に繋がる信範もこれからは順風満帆と思った矢先の嘉応元年(1169)12月、後白河院の近臣藤原成親が延暦寺の大衆といざこざを起こして配流沙汰となり
〈嘉応1/12/24〉、その処分を不服とする後白河院の横槍が入り、そのとばっちりで甥の時忠共々解官・配流の憂き目を見ます〈同12/28〉
 しかし、それも院側の面子を立てるための一時的なもので、わずか二月ほどで召し返され、間もなく政界にも復帰しています。そして高倉天皇の元服直後の叙位により従三位となり
〈嘉応3/1/18〉、ついに公卿の列に連なることになるのですが、該当の月がこれまた闕巻で、その喜びの声を後世に伝えられなかったことには、信範自身、さぞや悔しい思いをしていることでしょう。
 
 やがて姪の滋子に続き、同じく姪である時子の娘徳子の入内へと話は進みます。この際にも、朝議における様々な決定事項を記していますが、その中に「
被定御名字、徳子、式部大輔永範択申〈承安1/12/2〉とあるのは、后妃の名前の多くは、朝廷の詮議によって定められたことを示しています。
 ですから、幼ない頃から「徳子」だったわけではなく、二の姫とか乙姫とか、あるいは、幼名のような呼称があったかもしれませんが、今のところそれを明らかにする史料はありません。
 
 こうしてみると、前期源平動乱時代の事件事象ばかりに目を奪われがちですが、元来、信範は学者の家系に生れ、典章に関する方面に明るかったこともあって、詔勅や宣命、官符といった公文書の多くを『兵範記』に載せており、これも古文書の研究に大いに役立てられています。   
    
    
 
  『兵範記』〈史料大成 18−22:臨川書店〉
 
巻名 収録年代   事   項   〈 〉内は記載日
第1篇   
  
(18巻)
1132(天承2)年7月      
  
 〜1155(久寿2)年8月 
 鳥羽上皇の出家〈保延7/3/10〉
 鳥羽法皇五十の賀〈仁平2/3/7〉
 近衛天皇薨去〈久寿2/7/3〉
 後白河天皇践祚〈久寿2/7/4〉
第2篇   
  
(19巻)
1155(久寿2)年9月      
  
 〜1158(保元3)年12月    
《一部の月は第3篇巻頭に》
 守仁親王立太子(二条天皇)〈久寿2/9/23〉   
 鳥羽法皇崩御〈保元1/7/2〉   
 保元の乱〈保元1/7/11〉   
 後白河天皇譲位・二条天皇践祚〈保元3/8/11〉
第3篇   
  
(20巻)
1158(保元3)年1月      
    
 〜1168(仁安3)年1月 
 憲仁親王立太子(高倉天皇)〈仁安1/10/10〉   
 清盛内大臣任官〈仁安1/11/11〉   
 平盛子(清盛娘、基実室)准三宮事〈仁安2/11/18〉
第4篇   
  
(21巻)
1168(仁安3)年2月      
  
 〜1169(仁安4)年3月 
 平清盛病により出家〈仁安3/2/11〉   
 高倉天皇践祚〈仁安3/2/19〉   
 平滋子皇太后冊命〈仁安3/3/20〉
第5篇   
  
(22巻)
1169(仁安4)年4月      
  
 〜1171(承安1)年12月 
 平滋子に建春門院院号宣下〈嘉応1/4/12〉   
 平時忠出雲国、平信範備後国へ配流〈嘉応1/12/28〉   
 後白河上皇出家〈嘉応2/6/17〉   
 平徳子(清盛娘)入内〈承安1/12/14〉
   
   
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