吉 記
 
   
   『きつき』あるいは『きちき』と読みます。
 著者は権大納言
吉田経房
 勘解由小路
(かでのこうじ)に館があり、始めはこの「勘解由小路」を家名にしていましたが、後年、都の東郊 吉田の別業(別荘)に住い「吉田」を家号としたことから、経房の記した日記も『吉記』『吉御記』などと称されるようになりました。
 『平家物語』中にも、その名は現れ、特に巻12「吉田大納言沙汰」の段では、源頼朝も「うるはしい人」と評した、謹厳実直な人柄が語られています。
    
   
 
  『平家物語』において登場する章段
 
章段名 呼  称
8  山門御幸  勘解由小路中納言経房卿
11  内侍所入京  勘解由小路中納言経房卿
12  吉田大納言沙汰  吉田大納言経房卿
   
 
   「覚一本」の巻12「吉田大納言沙汰」において、「……勘解由小路中納言、此経房卿二人をぞ、後院の別当にはなされたりける」とありますが、先に述べた通り「勘解由小路」も「吉田」も、共に経房の家号ですから、どこかで取り違えが起きたと見るべきでしょう。
 「源平盛衰記」の巻46(勢巻)では、勘解由小路中納言の部分が、八条中納言長方卿となっており、諸本の一つ「延慶本」でもそのようになっているようです(こちらは未確認)。
    
   
 
 
  【藤原経房 略歴】
 
天 皇 年 月 日 年齢 位 階 官 職 等 備   考
近 衛 1150(久安6) 6. 9  9    蔵人  
〃  〃  7. 8  従五位下    
1151(仁平1) 7.24  10  伊豆守  兄信方の死により替
後白河 1157(保元2) 8.21  16  勘解由次官  
〃  〃 10.21  従五位上    
1158(保元3) 2. 3  17  皇后宮権大進  統子内親王立后日
二 条 〃  〃 11.26   安房守  
1159(保元4) 2.13  18  止 皇后宮権大進
 任 上西門院判官代
 院号宣下による
1161(永暦2) 4. 1  20 正五位下    
1164(長寛2) 2.28  23  安房守を辞任  
六 条 1166(永萬2) 3. 9  25  昇殿  
〃  〃  8.27   蔵人  
1167(仁安2) 1.30  26  右衛門権佐  
〃  〃  8. 1   左衛門権佐  
高 倉 1168(仁安3) 2.19  27  補新帝蔵人  高倉帝践祚日
〃  〃  3.20   皇太后宮大進  平滋子立后日
1169(嘉応1) 4.12  28  止 皇太后宮大進
 任 建春門院判官代
 院号宣下による
1170(嘉応2) 1.18  29  左小弁  
〃  〃  7.26   左衛門権佐 を辞任
 蔵人     〃
 
1172(承安2) 2.23  31 従四位下  権右中弁に転任  
1173(承安3)11.21  32 従四位上    
1175(承安5) 4.16  34 正四位下    
〃 (安元1)12. 8   右中弁に転任  
1177(治承1)12. 5  36  内蔵頭  
1178(治承2)12. 5  37  春宮昇殿  
1179(治承3)10. 9  38  左中弁に転任  
〃  〃 10.10   蔵人頭  
〃  〃 12.10   内蔵頭を辞任  
安 徳 1181(養和1) 9.23  40  右大弁  
〃  〃 12. 4   参議
 左大弁
 
1182(養和2) 3. 8  41  近江権守  
1183(寿永2) 1. 5  42 従 三 位    
後鳥羽 1184(元暦1) 9.18  43  権中納言  
〃  〃 11.17  正 三 位    
1185(文治1)10.11  44  太宰権帥  
1188(文治4) 1. 6  46 従 二 位    
1190(文治6) 1.24  49  太宰権帥を辞任  
〃 (建久1) 8.13   民部卿  
1191(建久2) 1. 7  50 正 二 位    
1195(建久6)11.10  54  中納言に転任  
土御門 1198(建久9)11.14  57  権大納言  
1200(正治2) 2.30  59  辞状、出家  
〃  〃  3.11   薨去  
   
 
   『公卿補任』によれば、生年は永治2(1142)年。
 勧修寺流藤原氏、権右中弁兼中宮亮藤原光房の二男で、母は正三位権中納言藤原俊忠の娘。
 建春門院(平滋子)と同年の生まれで、早世した摂政近衛基実が一つ年下、さらにその弟で摂政・関白となった基房が二つ年下という年代になります。
 
 後白河法皇の姉である上西門院(統子内親王)や、妃の建春門院の判官代という職にあった関係上、『吉記』には、後白河院周辺の記事が多く見受けられます。
 安元2(1176)年の建春門院の死去に際しても、『玉葉』の6月11日より3日早い、6月8日に既にその病状に触れていることからして、そうした事情をいち早く知り得る立場にあったことは、明白のようです。
 しかし、6月30日を最後にその記述が途絶えており、薨去直前の容態や葬礼等については、『玉葉』の記事に頼らざるを得ず、返す返すも闕巻が惜しまれます。
 裏を返せば『玉葉』を現代に伝え残した、摂関家・九条家の力がいかばかりであったか、ということでしょうか。

 とはいえ、
安徳帝の即位〈治承4/4/22〉還都〈治承4/11/20〜〉墨俣川の合戦の勝利〈治承5/3/12〜13〉砺波山・篠原の合戦の敗北〈寿永2/6/4〜6〉平家都落ちと木曽義仲の入京〈寿永2/7/25〉法住寺合戦〈寿永2/11/19〉など、重要な歴史的事項が、断片ながら数多く記されており、この混沌とした動乱の時代を、『玉葉』とは違った視点から、より詳細に検証するための貴重な史料であることには変りありません。
 
 平家滅亡の後は、鎌倉の源頼朝も「廉直の貞臣」と評し(『吾妻鑑』元暦2年9月18日条)、自らが設置した
議奏公卿(十人)にも抜擢するなど、朝廷―鎌倉間の調整役として、大きな信頼をもって重用されたことが、同じく『吾妻鑑』や『玉葉』などの記事により偲ばれます。
 
 さらにもう一点、この吉田経房と『平家物語』にまつわる奇縁と申しますか
……、実は経房は、小松中将平維盛の北の方を後妻に迎えています。
 大納言成親の娘で、六代・夜叉御前という一男一女の母。「平家都落」の段における別れの場面があまりにも哀切きわまりなく、又『平家物語』でも、六代の助命がなされた後に、出家遁世したと伝えているため、まさかこの女性が、後に再嫁していたとは
……、ちょっと信じられないような話ですが、『尊卑分脉』のこの成親娘の欄を見ると【経房卿室・元維盛卿室】と明記されています。
 
 維盛の生年が保元2(1157)年、その2歳下といわれる北の方は平治元(1159)年生まれと推測され、経房とは17歳の年齢差になります。
 しかし、若き日の大半を絶望と悲嘆の内に過ごしてきた北の方が、堅実な人生を歩む経房という新たな伴侶を得て、その後、平穏無事の余生を送ったとすれば
……、「禍福はあざなえる縄の如し」とはよく言ったものです。
    
   
   
 
  『吉記』〈史料大成 22・23〉内外書籍:1935(昭和10)年刊行
 
巻名  西暦(和暦) 収録月   事  項  〈 〉内は記載日
第1篇
 
(22巻)
1173(承安3)年   6・7月  
1174(承安4)年   2・3・8・9月  
1176(安元2)年   4・5・6月  建春門院の病〈6/8〜〉
1177(治承1)年   4月  
1180(治承4)年   2・3・4
 ・5・11月
 安徳帝践祚〈2/21〉即位〈4/22〉
 福原より還都
〈11/20〜〉
1181(治承5)年 
(養和1)年 
 3・4・5・6月
 8・9・10月
 墨俣川の合戦〈3/12〜13〉
1182(養和2)年 
(寿永1)年 
 1・2・3月
 6・7・8・9月
 
第2篇
 
(23巻)
1183(寿永2)年   2・6・7
 ・11・12月
 北陸合戦〈6/4〜6〉
 平家公卿十人連署を山門に送る
〈7/10〉
 平家都落
〈7/25〉
 法住寺合戦
〈11/19〉
1184(寿永3)年 
(元暦1)年 
 4月
 11月
 
1185(元暦2)年   1・5・6
 ・7・8月
 建礼門院出家〈5/1〉
 宗盛・重衡等の処断
〈6/23〉
1185(文治1)年   12月  
1188(文治4)年   7・8・9月  
   
 
   さらに、承安3(1173)年以前の記事などを加えた新訂増補版が、2002(平成14)年に刊行されていますが、目下治承3(1179)年10月までを収めた一巻のみで、続巻の発刊が待たれます。
   
 
  新訂『吉記』和泉書院:2002(平成14)年刊行
 
本文編
 
1166(仁安1)年   9月  
1167(仁安2)年   1・4-10月  
1168(仁安3)年   1-2・9-11月  
1169(嘉応1)年   1・3-4・6-9・12月  
1170(嘉応2)年   1-2・4-5・7・11-12月  
1171(嘉応3)年 
(承安1)年 
 1-2・4月
 7-9・12月
 
1172(承安2)年   2-3・12月  
1173(承安3)年   1・6-7月  
1174(承安4)年   2-3・8-9月  
1175(承安5)年 
(安元1)年 
 1・2・6月
 7-8月
 
1176(安元2)年   1・4-6・10-11月  
1177(治承1)年   4月  
1178(治承2)年   4月  
1179(治承3)年   10月  
   
   
   
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  〈吉記−我楽多文庫〉
   
   
   
   
   
   
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